出入りするしかない機能の、質素で狭い玄関に美しく磨かれた茶色の革靴。その光景は何度見てもアンバランスだと大は思っていた。
以前雪祈の家に初めて訪れた時「予想外だ」と言えば「これが俺です」と返された。
シンクはほぼ使われている様子がなく洗濯物がかかり棚にはおそらく特売を買い溜めしたカップラーメンが積み重なっている。
建て付けの悪そうな黄ばんだ襖の横に祖父母の家にあったような古い…レトロなドアがあり、その向こうはバランス窯の小さな浴室と和式のトイレがあった。
雪祈の大きな体であの浴槽に浸かっているのを想像すると少しおかしかったが、シャワーしか使われていないだろう。
そして雪祈の部屋は、それ以外は全て音楽で囲まれていた。
これが雪祈なのだ。
母親が来るとかで玉田に部屋を追い出された大は昨日今日と雪祈の部屋に転がり込む事になっていた。
玉田の部屋のようにソファーがある訳じゃないから雪祈がバイトでいない夜の時間を大のベッド使用時間としていたが、ふと目を覚ますとピアノに向かう雪祈の姿があった。
大きな窓から見える月の白い光がスポットライトに見えた。無数の街の灯りはもしかしたら観客の数かもしれない。
なめらかに動く背中にしなやかに踊る指先。月の光を浴びながらどんな表情でひいているのだろうと想像力を駆り立てられた。
シンとした夜中の静寂にカタカタと鍵盤を叩く音だけが聞こえる。
電子ピアノは大に音色を届ける事はなく、本当の音は雪祈にしか聞こえない。
それでも美しいと思わずにはいられなかった。
音符にまみれたこの部屋を雪祈は更に音で満たしていく。
極上のステージ、極上のコンサートだ。
「きれいだな」
ヘッドホンをしている雪祈には届かない。
大はベッドの中で身を丸くし音と共に美しく揺れる背中を眺めた。
「大、どけ。俺が寝る時間だ」
月が霞み太陽が昇ってきた頃、大は低く粗雑な言葉で目を覚ました。
いつのまにか眠っていたようで開けた目の先には雪祈がいた。
「はよ。なぁ、なして昨日夜いたんだ?」
「ああ、バイトの人数調整ミスったみたいでかなり早めに上がらされた。起きてたのか?」
「……いや、一瞬だけだべ」
何故ウソを吐いたかは大自身でもわからなかった。誰にもあの光景を見せたくなかった。雪祈自身にさえも。
「そうだ。寝る前に何か食わねえか?冷蔵庫のモンで何か作ってやるべ」
ベッドからのそりと起き上がりふらふらと寝起きの足で冷蔵庫の前に立つ。
開けるぞ、と声をかけて一人暮らし用の小さな冷蔵庫を開けるとそこには納豆が1パックだけ寂しそうに入っていた。
「これ…」
「………」
「ソーブルーのステージ立つ前に死ぬべさ!」
大は形相を変え持ってきた財布を握りしめると靴下も履かずに履き潰したスニーカーに足を突っ込んだ。
「雪祈、寝るなよ!昨日のお礼にうめぇもん食わせてやるっちゃ!」
この早朝にどこまで買い物に行くつもりかと思ったが勢いよく閉まったドアの向こうに声をかける気も起きず雪祈はただただ窓から見えた大の走る姿を目で追う事しかできなかった。
「…昨日のお礼?」
一宿一飯の恩義というやつかと考えながら雪祈はベッドへ潜り込んだ。おそらく、次はあたたかいごはんの香りで目が覚めるはずだと思いながら。