シンパパ洋と三と娘ちゃん(過去〜再会)懐かしい夢をみた。
それは高校一年の終わり、その年は例年よりも寒く卒業を祝うはずの桜は綻びもせず殻に篭ったままだった。
卒業生の門出に花を添えるのは一年の仕事だろう! と背中を叩かれ寒空の下に放り出され、水戸は悴む手を擦りながら校門の前で彼らの胸元に花を咲かせる。
なぜこんな寒い日に面倒な仕事をさせられているのかといえば理由は実に単純で、ぎりぎり危うい単位分きっちり働けと最後の最後で進級を盾に押し付けられてしまったわけだ。
「ごそつぎょーおめでとーございまーす」
気の抜けるような挨拶をしながら彼らの胸に花をつけていけば、皆が《なぜここに一年の不良が》という顔をして目も合わせずにそそくさと立ち去っていく。
まあ他学年からすればどう考えても不良生徒の筆頭だしとっつきにくさはあるだろう。話しかけてくるやつなんて大体は同類のようなやつばかりで……
「あ? なんでお前がこんなとこいるんだよ」
「堀田さん」
卒業式という場所でもお決まりの長ランはそのままに、彼が歩けば他の生徒が道を開ける。最初こそなんだかんだと衝突はしたものの、お互い応援したい人間が同じ場所で活躍する者同士、最終的には並んで声張り上げて応援なんてガラじゃないことをした仲だ。
「サボった分の単位代わりに働かされてんの。卒業おめでと。ほら花やるよ」
「雑か、……ったく」
放り投げたリボン付きの花を受け取ると彼は渋々自分でつけた。
この人悪ぶってるけど根は真面目なんだよなと、この日のためにきっちり整えたであろう汚れひとつない長ランの後ろ姿を眺める。
卒業式もサボらず来ているし体育祭の応援団とかやってたし……目立つ新入生を絞めあげようとか不良っぽいことはやっていたが、割と面倒見もよくまめなところがある。
「(将来いい父親になりそうだよなー……)」
堀田さん似の女の子とすげー迫力ありそうだなと余計なことを考えていると、続々とやってきた卒業生たちで体育館はあっという間にいっぱいになっていた。
「そういや一年は式参加しないだろ、お前そのまま帰るのか」
「担任の人づかいが荒くてさぁ、紅白幕とパイプ椅子の片付けも命じられてんだわ。めんどくせー」
「ンなもんお前がサボるのが悪いんだろうが」
「番長とは思えねーまともな説教だな」
「どうせ終わるまで帰れないし、アンタらの勇姿でも見ていくよ」と律儀にかつ行儀悪く体育館の地べたに座りながら厳かな雰囲気をボーッと眺めた。
一人一人が名前を呼ばれて証書を受け取る退屈な作業は、前に短期でやった刺身にタンポポを乗せるだけのベルトコンベアのバイトを思い出す。
大体は今みたいに眠気に襲われながら適当に乗せていくのだが、時々やたら綺麗な盛りつけのものが流れてくると「お」と目が止まったりするのだ。……今のように。
「ーー三井寿」
「(お……)」
普段のTシャツ姿でもなく、グロッキーにへばってる姿でもない。いつもより着崩しの少ない学ランに凛とした背中、彼の膝と肘とボールまでが一直線に繋がってゴールまで弧を描くシュートを、後ろから見ているのが好きだった。
出会いは散々なものだったが、みっともなく泣きながら大好きなものに追い縋ったこの人は、要らないプライド(驕り)を捨てて必要なプライド(矜持)だけを握りしめてバスケ部に戻ってきた。
その姿がどこか泥臭くそれでいて眩しい水戸にとってずっと不思議な存在だった。
心が張り裂けそうな程怒り泣きたくなり、それでも愛さざるを得ない……まるで自分が生きている証明のような、そんなものに自分はまだ出会ったことがない。
ただ言って人生まだたったの十五年。
三井や桜木を見ていると「きっといつか自分にも愛し夢中になれる何かが見つかるはずだ」という気持ちになる。
それはきっと希望に近い憧れだ。
ふと彼と同じクラスのエリアを見ていると既に証書を受け取った女子たちが壇上の三井を見ながら何かそわそわと話をしている。
グレてた時はともかくバスケ部に戻ってからはそこそこ人気があったし、きっと彼の第二ボタンの行き先は安泰だろう。でもあれはなんというか「三井くん、第二ボタンください!」ではなくて「三井のボタン、アタシがもらってあげるよ」みたいなノリを装いつつの奪い合いが想像できる。
「(んでミッチーはその本命に気づかない可能性が高い……っと。教室に戻ってからが大変そうだな)」
式のひと通りを見終えて、真面目そうな執行部員たちに混じりながら椅子と紅白幕を片づけ終えると、ふといつもより静かに佇んでいるバスケットゴールが目に入る。
まともに進級できれば自分だって再来年にはこちら側(卒業生)だ。
それまでに何か自分にも夢中になれる何かが見つかっているだろうか。彼らのように劇的なドラマのようなものがなくても自分にもいつか……
そんなことを考えながら体育館を後にして、ひんやりと静まり返る一年の廊下を歩く。
「……?」
今日の一年七組の教室には誰もいるはずがないのに、見慣れた人物が親友の特等席に座ってなにやら物思いに耽るように窓の外を眺めていた。
その姿がやたら絵になるものだから一瞬言葉をかけていいのか迷ってしまうが、物音に気づいた彼は「おー」と立ち上がり、卒業証書の入った筒を軽く掲げた。
「片づけ遅かったじゃねーか」
「……? なんでミッチーがここにいんの? ここ一年の教室だけど」
「いちゃ悪ぃかよ」
「オレ的には悪かねーけど、クラスの先公からしちゃ悪ぃヤツだろうね。最後のホームルームふけてるし」
「あー……確かにそうかもな」
あとアンタのこと待ってるだろうクラスの女子たちにも悪いだろうよと言いかけたが、それにはそっと口を噤んだ。
「今日お前が来てるって徳男から聞いたから教室戻ってくっかなって寄ってみたんだよ」
「オレ? なんか用でもあった?」
「別に用って程でもねーけど」
何やら照れ臭そうに自分の足元を見つめると頭を掻いて意を決したのか水戸の目を見て「……ありがとよ」と呟いた。
その礼が何を指すかなどわかりきっていることで、水戸からすれば「何を今更」と言ってしまいそうなことだ。
「それ、アンタ復帰した時も言ってくれたじゃん。しかも全員分ラーメン奢ってくれたっしょ?」
「あん時ぁ全部搾り取られるかと思ったぜ……誰だよ五杯食ったやつ」
「高宮と花道だね」
「まぁそれくらい容赦ねーほうがわかりやすいっつーかなんつーか。お前みたいに醤油ラーメン一杯だけとか言われっと、こいつはまだ許してくれてねーなとか思っちまうだろ」
「そんな深い意味はねぇって、単純にあいつらほど食わないってだけだよ。それにアンタの礼はラーメンだけってわけじゃなかったし」
「……?」
「あれだけ頑張って走ってシュート決めてくれてさ、アンタがいなかったら勝てなかった試合なんて山程あったじゃん。それでも許さねえなんていうヤツいねーだろ?」
おもしれー試合たくさん見せてくれてありがとね。と面と向かって言われるのは照れるのか、耳を赤らめながらふいっと視線を逸らす。
「あの時お前がいてくれなかったら、オレはバスケ部にも戻れなかったし何も変えられなくて全部無駄にしたかもしれねぇ……だから」
卒業の日に改めて足を運んで礼を言いにくる律儀で不良になんて到底向いていない性格、自分は言うなれば崩れそうな足場を整えてあげただけで場所を与えてくれたのは彼の仲間たち。そして何より三井の人生を変えたのは……
三井の頬を摘み上げると彼は幼児のように目をぱちくりとさせて驚いた。特別柔らかくもない頬をぎゅっと伸ばして手を離す。
「アンタの人生を変えたのはアンタだよ。アンタが自分で変わろうって決めたの」
「……ッ」
「オレたちが割って入って謹慎食らったのは事実だけど、その後恥もプライドも全部捨てて戻るって選択したのはミッチーじゃん」
それだけ好きなもん見つけられるのは羨ましいよ、と年食った親父みたいなことを言うと三井は頬を摩りながら首をひねる。
「お前はなんかねーの? 好きなこととか将来の夢みたいなの」
「どうだろ、オレってこんな性格っしょ?」
「……言うほどお前の性格知らねーけど」
「そりゃそうか。んー、なんつーかふらっとその場を上手にやりくりするだけで極めたりするタイプじゃねぇの。身内からは器用貧乏なんて言われてっけど」
何事も上手くやりくりできる自信はある。だけどそれ故に何かに特化するものはない性質だ。オレも何か見つけたいんだけどねと独り言のように呟けば、三井はパッと顔を上げて水戸の前に立った。
「じゃあ、いつかお前にやりたいことが見つかったら今度はオレが支えて背中押してやるよ」
「ミッチーが?」
「そう、借りを返してやる」
鼻息荒く自信満々の笑顔、今日が卒業式だっていうことを忘れてしまっているのか、それとも自分達の縁がこの先どこかで繋がっているのを確信しているのか。
どちらにせよ彼の顔が妙に心強くて頼もしくて、水戸は釣られて笑ってしまう。
「そう言ってくれるなら、お願いしようかな」
そんないつかがくればいい、神様に願掛けをするような気持ちで三井にお願いをした。任せておけという彼の言葉がいつまでも頭の中でこだまする。
暖かく揺蕩う懐かしい記憶、目覚めたくないといつもより深く深く潜ってしまったのが翌日の遅刻の原因になったのかもしれない。
*****
ジリリリリリッ……
夢の中では固く閉じていたはずの桜がひらひらと舞う春、麗かな日に似つかわしくないけたたましい音が水戸を現実に引き戻した。
目を開けると一人の少女が黄色いポシェットを握りしめたまま自分をジッと真上から見下ろしていて、水戸は「ごめんごめん」と謝りながら起き上がる。
ふと外を見るといつもより高い位置にある太陽、慌てて時計を見るといつもの起床時間より一時間も遅く顔がサッと青ざめた。
「やっべぇ!! なんで目覚ましズレてんの!?」
ぐしゃぐしゃの布団をそのままに、顔を洗うより前に台所に立って昨日半額で買ったロールパンと牛乳と目玉焼きを小さなプレートに盛り付けた。
少女が一生懸命口を動かして食べている間に着替えて荷物をまとめ、洗い物も放り出したまま小さな手を引いて外に飛び出す。
懐かしい記憶の中、いつか夢中になれるようなことを見つけたいと言った十五歳の自分の言葉を「そんな余裕ねーよ!!」と二十五歳の自分が突き返していた。
「すみませんッ! 遅れました!」
「水戸さん、おはようございます。まだ朝のお歌を歌っただけですから大丈夫ですよ。あ、お着替えも預かりますね」
気の優しい初老の園長先生は水戸の生活事情を理解していて、いつも無理しないようにねと声をかけてくれるありがたい存在だ。
「すみはちゃんもおはよう」
「……」
少女はだんまりしたままで手を振る水戸のことをチラッと見ると、先生に手を引かれて何も言わずに教室の中に入っていった。
その後ろ姿を見送った後は自分の仕事だ。なんとか朝の時間を切り詰めたがそれでも多少遅れることにはなってしまうだろう。
「ほんとすんません……」
「いーのいーの、保育園寄ってからだと大変でしょぉ。朝ご飯ちゃんと食べた? おやつ持っていきなさい」
「ありがとうございます」
柄じゃない建設事務職を始めて四年ほど、上司からはスキルやコミュニケーション能力を生かしたポジションに転属してみてはと度々打診されるが、正直こういう時間がきっちりした仕事でないと一人で子どもの面倒を見ながら生活していくのは難しかった。
生活水準的にはぎりぎりだが、おおらかなパートさんや能力を認めてくれる上司など会社の人間関係に恵まれていたのはありがたかった。
「すみはちゃんも寝ちゃってたの?」
「いやアイツは起きてたんスけど、オレが起きれなくて」
「へぇ洋平くんにしちゃ珍しいわね」
「ははは……」
変な夢を見たせいだ。
あんな昔の夢なんて見なければ遅刻することもなかっただろうに、遠い昔のことを無慈悲に一瞬で思い返させる。
十年後のことなんて何も想像できていなかったであろうのんきな十五歳の自分に、ふと言い知れぬ苛立ちが湧いて、知らず知らずのうちにボールペンをぎゅっと強く握りしめた。
*****
今日水戸を見下ろしていた少女、それは正真正銘水戸洋平の一人娘だ。
ただ結婚もしていなければ少女に母親もいない。
それは今から六年ほど前の事。
時給のいいバイトとして働いていた夜街のボーイ、土地柄が土地柄なので言い寄ってくる女は山程いたが皆丁重にお断りすれば引き際が良く、思っていたよりも順調に新天地での生活をこなせていた。
だが中にはしつこくかつ狡猾に根回しをする蛇のような人間もいる。今思えば十九歳の自分はその辺りまだ抜かりがあったのだろう。
「飲み会……じゃないっスよねこれ」
「あれ信じてくれてたの? かわいー」
「ッ、うちの店長まで抱き込んでたのかよ」
常連さんの飲み会だから顔出しておいでと店長に言われてやってきたが、ただの飲み会というより完全に乱交パーティに近いものだった。
踵を返そうとすると、彼女は慌てて水戸の腕を掴んで「お願い、一杯だけ付き合ってくれたら諦めるから!」と力強く引き留めてくるので、盛大なため息をついて一杯だけ付き合うことにしたのだが、その判断が間違いだった。
身体の力が抜けて激しく歪む視界に立っていられないほどの倦怠感。ガクリと体勢を崩してやっと自分の酒に何か仕込まれていたことを察した。
「(……クソッ、ンなの逆レイプじゃねーか)」
どうしても水戸と関係を持ちたかった女の強硬手段にお手上げ状態だった。流石にこれはもう犬に噛まれたと思って忘れよう、バイトも辞めてあの女とももう二度と会わないと誓っていたのに彼女は水戸のことを逃してはくれなかった。
「は……? 子ども……?」
どういうツテか再び連絡をしてきた彼女から告げられた事実はあまりに衝撃的でしばらく呆然とせざるを得なかった。
どうやっても水戸を手に入れたい、そのために彼女は水戸を縛り付けるための《道具》を用意していた。
「やっと来てくれたぁ、洋平くんやっぱり優しいね」
その時の感情を言葉にするのは難しい。彼女への恨みはもちろんあったがそれよりも腕の中で眠る小さな存在への贖罪の気持ちが大きかった。
何も知らない赤子のうちに道具のように利用され、本来祝福されるべきなのに誰もこの子のことを見て笑ってくれない。
その境遇にふと自分の昔を思い出した。
夕日に焼けた畳がやけにカサつく夏、誰も帰ってこない部屋の窓から下を見下ろすと息絶えた蝉が道路の隅っこで転がっていて、皆見向きもせずに通りすぎていく。きっと自分もあの蝉と同じように生きてようが死んでようが誰にも何も影響を与えないだろうと見窄らしさを感じていた少年時代。
あんな思いをこの子に負わせたくない。
水戸を手に入れ喜ぶ彼女をこの先愛せなくとも、せめてこの子は……
だがお宝というのは手に入った途端輝きが半減してしまうらしい。
彼女にとって水戸も同じだった。
手に入らないと思っていたからどんな手を使っても欲しくて、いざ手に入ってしまったらそこにあるのが当然とばかりに飽きてしまう。そんな彼女が新しい男の元へ走るのにそう時間はかからなかった。
水戸が仕事を終えて家に帰ってきても子どもはほったらかし、しまいにほとんど家に帰ってこなくなった。籍を入れていなかったため親権や戸籍を水戸の方に移すのはなかなかな手間だったが、それでも母親の匂いを自分やこの子の人生から全て消してしまいたかった。
「……ボロっちいけど贅沢は言ってらんねーからなぁ」
都内の家を引き払って地元に戻り、父一人子一人で安い小さなアパートに引っ越しをした。
下が小さなスナックになっていて、水戸の仕事が押して娘が一人になってしまう時は営業時間まで面倒見てくれている。
夕方時にはスナックにある小さなテレビにかじりついて好きなアニメを見ているようだが、特に歌を歌うでもなく、セリフを喋るでもなくジッとしている。
五年経った今でも正直この子とどう接していいかわからないままだ。
赤ん坊の時から滅多に泣かない手のかからない子だったが、とにかく言葉を喋らない。この年頃の女の子なら語彙が増えてとにかくよく喋ると職場の人にも言われたが水戸の娘はめったに言葉を発することもなく表情もあまり変わることがない。
「(病院とか連れていった方がいいよな……きっと)」
そんなことを考えていると、これからの不安も相まって疲れが溜まり寝不足の日々が続いた。仕事と育児の両立は大変だと聞くがどんどんと体力と精神が削られてくる、ふと親友の父親がよくあの問題児を男手ひとつで育てたなと、遊びに行った時の気のいい優しい笑顔が思い返された。
「アイツら、元気にしてっかな……」
旧友たちは水戸に子どもがいることは知っているが、地元に戻ってきたことや引っ越し先は誰にも伝えていない。
時折水戸を心配して連絡をくれたりするが、なんだかんだ責任感の強い彼らは水戸を助けに行けなかったことを悔いていたし、疲れた顔をした自分を見ては辛い顔をするので、いつの間にか会うことを自然に避けてしまっていた。
元々悩みだのを誰かに相談するのが苦手な部類だ。
弱い自分を見せたり甘えたりすることを極端に嫌がって生きてきたせいで、誰かに頼ったりすることを忘れてしまった。
《いつかお前にやりたいことが見つかったら今度はオレが支えて背中押してやるよ》
なんでこんな時に思い出すんだろう。
すやすやと眠る娘を見ながら暗い部屋の中、窓の縁にもたれかかって眠れない日を過ごしていると余計なことばかり考えてしまう。
「いつの間にかタバコもパチンコもやらなくなったな」と健全そうなセリフを疲れ切った不健全な顔で呟く。蓄積していく疲労にすり潰されるように無くなっていく自分自身、シグナルはとっくに黄色信号を通り越していた。
*****
保育園からアパートまでの道は住宅街で、その一角にバスケットコートのある少し大きな公園がある。
帰り道はその公園を突っ切っていくと近道になるので小さな手を繋ぎながら歩いていると、珍しくくんっと腕が引っ張られ動きが止まる。
娘の視線の先には小中学生くらいの男の子たちがバスケットをやる姿、それを好きなアニメを見ている時みたいにジッと見つめているものだから「バスケやりてーの?」と聞けば首を横に振る。
「じゃあ見たいだけ?」
「ん」
こくりと頷く様に水戸は正直驚いた。喋ることもしなければ表情も滅多に変わらない、さらに言えば特別な意思表示もなく何かをしたがったり欲しがったりすることもない子だ。
そんな子が自ら足を止めてバスケを見たいというのだから、懐かしい気持ちになって小さな手を握りしめた。
「じゃあちょっと遠いけどそこのベンチで座って見ようか。ここなら邪魔にならないっしょ」
いつもはまばらに人が集まって三対三でゲームをしているくらいなのに、今日はやたら人が多い気がする。
彼らはドリブルやシュート練をしながら何かを待っているようで、イベントごとでもあるのだろうかと様子を見ていると、遠くから背の高い人物がやってきてコート内はひと際賑わった。
「(コーチか何かか……)」
あっという間に囲まれるその人はシュート練の様子を見ながらアドバイスをしていて、ベンチにちょこんと座った娘は遠くのその姿を目線を逸らさず見つめている。
「(結構なガン見……もうちょっと近くで見せてもらえっかな?)」
そう考えていた水戸は辺りをきょろきょろと見回したが、彼が少年たちからボールを受け取りシュートを放った瞬間、まるで糸が引かれたように目が離せなくなった。
下半身のバネを使って背から腕へ、そして指先へ流れた力がボールを天高く押し出す。膝と腕とボールが一直線になる綺麗な後ろ姿、空を翔る弧が残酷にも一瞬で水戸の十年間を巻き戻した。
「嘘、だろ……」
口は開いたまま塞がらないしベンチに座らされた石像みたいに身動きが取れなくなった。
これだけ距離が離れていても良くわかる、他校の選手や監督にすら美しいと評されたフォームは今も健在でいつだって人に好かれ囲まれる天性の才能の持ち主。
プロで活躍しているのかそれともクラブコーチをしているのか、今の彼について知っていることは何もないのだが、自分とはまるで違う世界を生きているということだけは良くわかる。
あの時と変わらない彼と色んなものが変わってしまった自分。
十年前にはなかった深いクマにくたびれた服、さらに子連れとくれば気づきもしないだろう。娘がある程度満足したらコートの端っこを通って目立たぬように帰ってそれでなるべく早く今日のことは忘れて……そう考えていたのに、ここ最近何もかも自分の思い通りに進まない。
「水戸……?」
ああ、なんで気づいちまうのかなぁ。
彼はボールを少年たちに預けて真っ直ぐとこちらに歩いてきた。
三井さんオレはね、アンタと違って変に恥もプライドもある男なもんでこんな姿誰にも見られたくなかったんだよ。こんなにボロボロで自分の不注意でできた子どもがいて、そんでその子一人まともに面倒見きれてなくて……。
さっきまでまじまじと三井の姿を見ていたはずの娘は、急に目の前にやってきたことに驚いたのか水戸の腕にしがみついて顔を埋めた。
その存在に気づいた三井はスッとしゃがんで視線を合わせると、娘もチラッと片目だけ三井の方に向ける。
「嬢ちゃん名前は?」
「……」
「あーごめん。人見知りでさ、オレにも全然喋ってくれねーんだわ」
「そっか、……あ」
三井は娘のポシェットについたキーホルダーを指差した。
時々面倒を見てくれているスナックの従業員がクレーンゲームで取ったのだというマスコットは、娘がよく見ているアニメのヒーローだった。
「それ、土曜のアニメのやつだろ。お姫様を助けにくるヒーローがかっこいいんだってアイツらも良く話してるよ」
そう言ってシュート練をしている少年たちの方を指差した。大人が自分の目線で自分の興味のあることを話してくれたことを話してくれたのが嬉しかったのか娘の目は先ほどよりも光が宿ったようにきらきらとして見えた。
「オレも前見たけど確かにかっこよかったぜ。なーんか昔のお前思い出しちまったわ」
「は……?」
三井はマスコットの頭をぽんぽんと撫でると自分と水戸を交互に指差して笑う。
「こいつもな、昔ヒーローみたいにオレのこと助けてくれたんだぜ?」
あぁこの人の中で永遠にオレはあの時のままで、それならばいっそ今日出会わないままの方がよかったと心が軋んだ。その思い出の中で生かしてもらった方がきっとよかっただろうに。
水戸が目元を覆うと、娘はマスコットと水戸とそして三井を代わる代わる見た後で小さな口を開いた。
「……にいちゃん、おひめさまなの?」
久しぶりに聞いた娘の言葉はなんとも突拍子のないもので「オレお姫様なのか?」とまともに答える三井も素っ頓狂で、お姫様の名前がミッシェル姫だと知った彼が
「おう、きっとそのお姫様も国じゃミッちゃんって呼ばれてっからきっとオレと同じだぜ。オレも三っちゃんだからな」
なんて言うもんだから、自分の中で今まで張り詰めるようにしていた糸がぷつんと切れた気がした。
「はは……ははははッ!! なんだよそりゃ、ミッちゃんってふふッ、あーダメだおかしい、腹いてぇ〜」
力が抜けて水戸の肩は揺れ、しまいに声を上げて笑い涙まで流れてくる。
久しぶりに使う腹筋も表情筋も痛くて仕方なくてでも面白くて、息も絶え絶えになりながらベンチにのけぞる。
そんな父親の姿を初めて見た娘は最初こそ目を丸くして驚いたが、しまいに自分も嬉しくなったのか表情がゆるゆると緩み嬉しそうに笑みをこぼす。
「すみ……、おまっ、笑っ……!?」
「そりゃ子どもなんだから笑うだろうよ」
「いやこの子全然笑わなくて、オレもどうしたらいいかずっとわかんなくって」
自分の情けなさに少し目を逸らすとそれを許さないとばかりに頬を両側から引っつかまれる。
「ったく、ンなもんお前が小難しい顔してっからだろーが。この子もどうしていいかわかんねーから困ってたんだよ」
今みたいに笑ってろよ、と水戸の両頬をつまむのはまるで卒業式の時と真逆のようだ。三井の手はそのまま水戸の目元に色濃く刻まれた隈をなぞる。
「すげー隈、こりゃ寝不足極まってんな。ちゃんと食ってんのか?」
「あー自分の分は割と適当で……あと最近よく、眠れなく……て」
「……!? おいッ! 水戸!?」
ホッとしたのかぎりぎりで張り詰めていたものが急に緩まり、全身の力が抜けて三井の方に倒れ込んだ。最近明け方まで眠れないことが多かったからその代償だろう。
遠くの方で三井が自分の名を呼んでいるが夢の間で返事ができない。
すると「あれ? 死んだかな?」と思うくらい身体がふわりと宙に浮き、心地のいい揺れと温もりが身体に伝わってきた。