【ルチレノ】まずは、お試しで。「レノさんあのね、おおきくなったら、レノさんにね……」
およめさんになってほしいの、と。北の国の苛烈な大地で生まれ育った大魔女に、よく似た容姿の子どもが囁いた。きゃー! と悲鳴をあげながら頬に手を添える、丸々として柔らかい生き物を見下ろしながら。赤い瞳をぱちぱちと瞬かせ「およめさん」とレノックスは口にする。それからすぐに、周囲を見渡した。この子の〝お淑やか〟な母親は、運よく二人から目を離している。もしも聞かれてしまっていたなら、レノックスはおそらく彼女から、水面下で因縁を付けられていたことだろう。そのことにまずは安堵して、それから告げられた言葉に頭を抱えた。
北の国の魔法使いとは一般に恐ろしい存在として知れ渡っているし、レノックスも時折畏怖の念に駆られることがあるのだが。どうしてか、その中でも特に偉大と謳われるとある魔法使いと魔女に関しては、南の国では基本的に心優しい魔法使いとして振舞い、その国の住民たちからもそう捉われて、慕われている。道化を演じていると、彼らの本質を知る魔法使いたちが噂する様を見聞きする機会もあるのだが。レノックスはその意見については懐疑的であった。道化ではなく、これらは彼らの新しい素の一面であり、道化ではなく変容だろうと。それがレノックスなりの見解だ。
あくまで新たに掘り出された面であるので、元の北の魔法使いとしての矜持や振る舞いがすべてこそぎ落とされたかと問われれば、そうでもない。ふとした瞬間にあの大地の凍てつく風のような、絶対的な絶望を相手に与えるような、そうした殺気が漏れ出ることもある。とくにチレッタ――この少年の、母親である――に関しては。我が子の命であったり、教育に関わることであれば、そうした一面を息子に見られないようにしながらも、他者に向かって解き放つことを躊躇しなかった。
そしておそらく彼女の息子、ルチルが口にした言葉を聞かれてしまったならば。
その可能性を考え、ぶるりとレノックスは身を震わせた。「レノさん、さむいの」と。そんなレノックスの寒気の元凶は、彼の気も知らずに温かなやさしさを向けてくる。
「いいや、寒くはないよ。ただ、そうだな……」
お嫁さんの件は、ルチルが大きくなったら考えるよと。レノックスはそうと告げるに留めておく。
「やったー!」
大きな声をあげて、そのまま万歳をしたままルチルが走り出す。キッチンに立っていた母親の足元にしがみついた瞬間、レノックスは肝が冷えてしまったが。
「いいことがあったの?」と慈愛に満ちた母の顔をした大魔女に「あったけど、ひみつ!」と朗らかな顔で応えた子どもの姿に。ひとまず、その場での難は逃れたと。レノックスは大きく胸をなでおろした。
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「ねえレノさん、昔、私と結んだ約束のことを覚えていますか?」
約束。その単語にレノックスの背筋がひやりと冷たくなる。しかしすぐに安堵の息を零したのは、ルチルは彼を試すわけでもなく「お嫁さんになって欲しいって、小さい私が駄々をこねていましたよね」と、そのまま昔話を続けてくれたからだ。
「ああ、覚えているよ。……チレッタがおまえに関して過保護だったから。いつ、彼女の耳に入って、叱責されてしまうのだろうかと。少しひやひやしていた」
「叱責だなんて。母様だって魔女ですから、私が誰を好きになったって、笑って認めてくれたと思いますよ」
それはどうだろうなぁと、レノックスは昔を懐かしみながら。南の国に生活の基盤を築いたって、北の習性が抜け切れたわけでもなかった魔女の姿へと思いを馳せる。
領地にしても、物品にしても、愛した存在にしても。これは自分のものであると認識をしてしまったならば、他者に奪われることを拒み、許さず、憤る。それが北の魔法使いだ。南の国で生まれ育ったルチルでは、彼女の感覚を理解することが難しいかもしれなかったが。レノックスがわざわざ、その認識の差異を指摘して教え込む必要もない。
母チレッタのみでなく、父モーリスの死も乗り越えた幼い兄弟の成長を見守っていたレノックスだが。モーリスのような教師となって南の国の子どもたちに物を教える立場になりたいと、立派な志を見せるようになったルチルの姿に、彼らの父親の代わりに感慨深さを覚えていた。小さくて、柔らかくて、脆くて、案外丈夫な。そうしてこの世に生を受けた赤子が、兄という名や両親の死という経験を背負った子どもになり、今は大人に近づいている。四百年前後の時を過ごしたレノックスの人生の中で、今という時代は、間違いなく革命軍時代に次いで濃密な日々であった。
それで、と。懐かしさを筆頭に物思いに浸っていたレノックスに向かい、ルチルの言葉が降ってくる。南の国の冬は、寒く、雪も深い。窓の外にちらつく結晶よりもずっと静かに、暖炉の火よりも熱を込めて、ルチルはこう問いかけた。
「考えて、くださるんですよね?」
なにを、と。流石にレノックスもとぼけられなかった。というのも、覚えているといった手前であったからだ。話題を掘り起こされたのは、懐かしさに浸るためだと思っていた。二人きりで、子どもの頃の話をして。可愛らしかった、恥ずかしいと、そんな微笑ましい時間をゆっくりと楽しく過ごすための。そうした時間に行き着くまでの導入部であると、今の今まで悠長に信じてしまっていたのだ。レノックスは閉口し、目をぱちくりと瞬かせる。ふふ、と。ルチルが母親譲りの美貌を振りかざすようにして、薄く華麗に微笑んだ。
「……本気、なのか?」
「まぁ、ひどい。レノさんは私の告白を、子どもの冗談だと思っていたんですか?」
ルチルには悪いが、そうだった。肯定の言葉を脳裏に浮かべながらも罪悪感が邪魔をして、レノックスは口を噤んでしまう。お嫁さん、というのは言葉のあやとして。ルチルの口ぶりからすると、幼少期からずっと一途に、レノックスのことを想い続けていたというのは確実な様子だった。
十代前半の思春期盛りであれば、それも勘違いだとして、どうにも躱しようがあったかもしれない。その逃げ道の存在を理解してか、偶然かは分からなかったが。ルチルはもう、十七歳の青年であったのだ。彼と同世代の子たちの中では、婚約や見合いの話が他人事ではなくなっている。そうとなると、まだ子どもだからと、これ以上同じ文句でルチルの存在を遠ざけることがレノックスには出来なくなっていた。
「レノさん、私はね。レノさんがずっと好きなんです。優しくて、格好良くて、時々かわいいレノさんが」
「か、かわいい……?」
「かわいらしいですよ。笑顔を浮かべる時だったり、フィガロ先生に酔いつぶされて、ふわふわしている時なんて、とっても。……でも、ずっとずっと好きだったからこそ、私の気持ちを一方通行でぶつけてしまうのも嫌なんです。応えられないなら、そうだと言ってくれると、嬉しいな」
上目遣いで、そう問われる。レノックスはモーリスの気持ちも、チレッタの気持ちも、両方が分かるような、分からないような。そうした困惑した心持ちでルチルの眼差しを一身に受けていた。
ルチルは魔法使いだ。魔力の半分を弟ミチルに分け与えてしまったとはいえ、それでもきっと数百年の長い時を生きるだろう。長くを生きれば、当然人生経験も豊富になる。そして体の変化は止まっても、心は一つに留まれず、様々な形に変容していくものでもある。それはレノックス自身も経験していることであったし、フィガロやチレッタといった近しい例も目の当たりにしていた。
しかし、青春のひとときは、魔法使いであっても人間であっても等しい時間しか存在していない。
レノックスにとって、それは革命軍での日々だった。年若かった己が、怒りと正義、使命に燃えて立ち上がった時代。あれを迎えた頃の自分が数百歳であったとして、同じだけの感情に奮えることができたのか。レノックスには、その想像が付かなかった。
では、ルチルにとっての青春は?
それを思うと、レノックスの胸は締め付けられる。幼少の頃から、ずっと、一つを想い続けたエネルギー。それの深さや大きさをレノックスは正しく理解していて、だからこそ計り知れないものだと分かっていた。ルチルの人生にとってたった一度の、短く、貴重な時間と感情は、すべて自身に向けられていたのだ。そう認識するたびに、責任感が付きまとう。
「レノさん、お願い。私のこの気持ちを、義務感なんかで受け止めないで。レノさんの心で、答えを教えて」
そんなレノックスの心情を見透かしたように、ルチルが懇願するように言葉を紡いだ。
子どもの戯言だとして軽く流していたように、そのまま、彼のことを特別視することはできないというものであったとしても。それがレノックスの答えなら、きちんと受け止めると。彼の穏やかで優しい目つきには、苛烈な母親譲りの確固たる意志が秘められていた。
「……正直、ルチルのことを、すぐに恋人として見ることは難しいと思う。俺はチレッタやモーリスの代わりとして、親戚の子どもを見ているような気持ちで、これまでルチルに向き合っていたから……」
だけど、と。逆説の言葉を続けたのは、ルチルの傷付いた表情を見てしまったからではない。レノックスがそう告げたいと、自発的に思ったからだ。
「ルチルからそう思われていることは、嫌ではないんだ。……曖昧な返事しかできなくて、悪いが……。おまえさえよければ、前向きに考えたいと思っているよ」
「まぁ、本当に! ……なら、これは私からの提案なんですが。将来も見据えつつ、お試しでお付き合いしてみるっていうのはどうでしょおう」
「お試し……うん、お試しか。それなら、いいかな……?」
言葉尻についたのは、疑問符だったが。「やったー!」と、幼少期の彼と同じ顔と同じ声で、ルチルはぎゅうと抱き着き始める。相手は母親でも、その足でもなくて。レノックスの、腰元だ。「うれしい、夢みたい」と恍惚と語る表情を見下ろしながら。レノックスは擽ったい心地になりながら、細くて柔らかい金糸の髪を、その武骨な指先で撫でていく。
「お試しって、どこまで許されるんでしょう。手つなぎは? キスは?」
「キスは……ちょっと、抵抗があるな。手をつなぐくらいなら、いつでもいいよ」
そうレノックスが許すなり、ルチルの手が背中から脇腹を通り、レノックスの腕へと伸びていった。そのまま指先で手を擽って、水かきをなぞるようにして、手のひら同士が重なっていく。
ふふ、とレノックスが笑ったのは物理的なくすぐったさのはずだったが。幸福から、思わず口をついて出たような。そんな柔らかさが込められていたことは、否定のしようがなかった。
「なら、いくつになったらキスをしてもいいでしょうか」
「ええと……そうだな……。おまえが、十八になったら、とかはどうだろう」
「十八ですね、分かりました」
じゃあそれまで待っていてくださいと、きゅうと優しく手の平を握りしめられながら、ルチルに乞われる。
来年になったら、俺はこの子にキスをされるのかと。レノックスはそう考えて、なにやらとんでもない契約を交わしてしまったのではないかと、今更のように気付きもしてしまったが。
幸せに浸る彼の表情を目の当たりにしてしまったら、それも、些細でどうでもよいことに思えてしまった。