DEAD DROP◆出会い
コツコツコツコツ。暗い路地に響くヒールの音。どうやら足音の主は相当に急いでいる模様。
時刻はまださほど遅くはないが、ぴっちりとしたパンツスーツに身を包んだ小柄の女はわざと暗い場所を選んで歩いているようにも見える。暫くして、カツン!とひとつ、これまでよりも高い音を立てた細い脚。女が立ち止まる。目的地に着いたのか。そこはただの壁であったが、ツ……と指をレンガの目地に辿らせたと思えば、カコンッと小さな溝を引っ張った女は、そこに現れた数字パネルを操作する。すると、ピピピピとごくごく小さな音がして、プシュ、とそこにドアが現れた。
躊躇いなくそのドアを開けた女は、中にいた長身の男に声をかける。
「アルケド、今日の報告に来たわ」
「早かったですね」
「そう?んー、確かに今日のオジサマは拍子抜けするほどあっけなかったかも」
「あ〜子リスちゃんじゃん!ちょうどいーや、パフェ食う?」
「パフェ!ルキオラ、ぜひ!」
「パフェもいいですが、アプリーリス、まずは」
「ああ、そうよね。はいこれ。種族間の戦争をも引き起こしかねない重要文書、だっけ?」
「ええ。ありがとうございます。確かに」
アプリーリスと呼ばれた女は、カウンター席に座ると出されたパフェに目を輝かせる。渡したばかりの重要文書のことはすでに頭から抜け落ちたかと思われるほどだ。サッと封筒の中身に目を通した男・アルケドは、満足気に頷いて、小切手を切るとアプリーリスに手渡した。
「報酬です」
「たしかにっ」
小切手は一瞥するにとどめるも、パフェはじいっと見つめた上、さらに写真まで撮るあたり、こういう時に限ってはただの女の子でしかないのだろう。
アプリーリス。彼女は裏世界——それはスパイとかマフィアとかそういう類の世界のエージェントであった。彼女の家系は先祖代々エージェントを務めており、そのせいでなんの疑問もなく彼女も一流のエージェントに育てられた。その業界では一目置かれるほど活躍している。彼女はどこの組織に所属していおらず、このパブ「Seabed」で案件を紹介してもらい、報酬を受け取って生活していた。
ここは所謂闇取引を行うパブだが、表から見ればごく普通の店である。その証拠に店先にはテーブルと椅子が並べられており、そこで酒を嗜んだりつまみをいただくこともできた。けれど店内となると話は別で、入り口に嵌め込まれた特殊なパネルに正しいパスワードを入力できる者だけが歩を進めることができる仕組みだった。
ちなみに、この世界には人間だけでなく、人ならざるもの——魔力を持つ妖精や人魚などの獣人——そんな、特殊な力を持ちながら人間界に紛れ込んで生活しているものたちも多く生存しているのだが、そのような種族のものたちとの交差点の役割もここが果たしていたりする。彼ら、彼女らはいくら力を隠して人間界に混じっても、時折いざこざを起こしてしまうものであり、そういった問題を解決するための相談を受ける場所でもあった。こんなことをしているこの二人も実は本来の姿は人魚であり、魔法薬にて人の形をとっているだけだった。いつかアプリーリスが「そこまでして人の世界にいたい理由って何?」と聞いたこともあったが、答えは「予想外のことがたくさん起こって楽しいから」ということで、彼らの世界に地上だ水中だの括りはなく、楽しいか退屈か、の二択であるらしい。
話を戻すと、そんなわけもあって店内に来る者が求めるのは酒でも休息でもない。ここで手に入るものは、上質な情報と、それから協力者に仕事だ。アプリーリスはここの常連で、かつ、仕事の請負人として高評価を受けていた。アルケドとルキオラは、このパブのマスターを務める双子の兄弟。顔はそっくりなのだが、話し方や立ち振る舞いがまるで違うので、見分けるのはさほど難しいことではない。アプリーリスのことを子リスと呼ぶ、食えない笑顔のルキオラ。いつでも礼儀正しくにこやかな微笑みを浮かべるのがアルケド。そんな感じだ。もちろんこの名前はコードネームなので、二人と一人は本名すら明かさない、ただの仕事仲間だった。
さて、そんな三人が雑談に興じて暫く、また店の入り口でカランカランと乾いたベルの音が響いた。
「いらっしゃいませ」
流れるように自然にアルケドが接客に応じに行ったので、じゃあ私はこの辺でと腰を上げたアプリーリスをルキオラが「もうちょっと暇つぶしに付き合ってよ〜」と、あまぁいミルクティーで引き止めようとした、その時である。アプリーリス、とアルケドからご指名が入ったのは。
「ん?私?」
「そうです。潜入捜査のお誘いですよ。お話は直接なさりたいそうです」
「おっけー!」
アルケドの隣には、これまた長身の男が一人。彼は明るい髪色のアルケド、ルキオラとは打って変わって、漆黒の髪を左右に分けて真面目で厳しい印象を醸し出していた。そこから覗くのは真っ赤な瞳。キッと細まったそれはアプリーリスに高圧的な視線を向けた。
「おまえがアプリーリスか?」
「ええそうよ。はじめまして、モーニングスター」
「……!」
「なぜわかった、って?あなた、デビルズのボスでしょう?デビルズって言ったら界隈でも有名だもの。知らない方がもぐりじゃない」
「……そうか。それもそうだな。俺たちの組織は大きくなりすぎた」
「紅の瞳に上から目線の態度。噂通りね。で、私に何の用?潜入とか言ってたけど」
「そうだ。とある会員制のパーティーに潜入したいんだが、人数が足りない。うちで女装が得意なのは一人しかいなくてな。あと一人、女性が必要で探しにきた。そこにちょうどお誂のおまえがいたわけだ」
「ふぅん」
「アルケドの推薦なら信用できるだろう。どうだ、頼まれてくれるな」
その申し出に腕を組んで応対するアプリ―リスは、にこりと笑って掌を差し出した。
「なんだ」
「ほ・う・しゅ・う」
「は?」
「報酬よぉ!いかほど?」
「……」
「何よその顔。報酬第一なのはあたりまえでしょう?私、そんなに安くないわ。暇でもないしね」
「相場は」
「そうねぇ。この間アルケドからもらった案件は、一日でこのくらいだったわ」
さっき手にしたばかりの小切手をピラリと見せると、モーニングスターは片方の眉をピクリと上げた。
「なるほど、安くはないな」
「嫌なら諦めて。私、ここ最近休暇ないのよ。デビルズからのお誘いも、休暇には勝てない」
「仕方ない。これだけ出す。それなら異論はないな」
スーツから取り出したメモ帳に、サラサラとペンを走らせたモーニングスターが提示した額は、本日の仕事の十倍。わぁぉ、と小さく呟いたアプリ―リスは、乗ったと一言で了承したのだが、実際のところ額に釣り合わないだけ働かされることになろうとは、この時は予想しえなかった。
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◆初対面
オファーを受けてから数日後。
指定された日時。指定された場所に向かったアプリーリスは、本当にこんなところからお邪魔するのか?と崖を見上げていた。実のところ、アプリーリスの家も森の奥深くにあるので、ちょっとやそっとのことでは驚かない自信はあったのだが、それが何だと言わん様子のここ。言われた通りの道を通ってきたはずだったが、その道すがらもトラップがいくつも存在しており、とてもじゃないが歓迎されているとは言い難かった。
「なんなのよっ!私じゃなかったら入り口まで辿り着けないわよ!?」
キィッ!と声を荒げたアプリーリスが壁面を回り切ったところで進む先に人影があるのが見えて咄嗟に身を隠した。
(誰!?デビルズは男所帯って噂だったけど、今の、女……)
噂は噂、とはいえ自分が持っていた情報との齟齬にアプリーリスが少し戸惑うその間に、人影はあろうことか彼女に向けて言葉を投げかけてきた。
「あなた、ここにいらっしゃるということは、新人さんかしら」
それは鈴が鳴るような可愛らしい声。でも、アプリーリスは伊達にエージェントをしているわけではない。その端々に不審な点を感じながら返事をした。
「あんた、女装が上手いのね!あんたがモーニングスターが言ってた、女装ができる唯一のエージェント?」
「おや。わたくしの変装もまだまだですね」
そう言うと同時に瞬時に解かれた変装に、内心でやるじゃないと称賛を送りつつ顔を覗かせると、そこにもう美女の姿はなく、代わりに緑色の髪に温厚そうな表情をたたえた一人の青年が立っていた。
「あなた……ここにいるってことは、」
「ええ。デビルズにお世話になっております」
会話の間にも一瞬の隙も見せないその男に、にこにこと微笑み返すアプリーリスは、ここは不必要な手出しは無用だ、素直に中に入れてもらおう、と腹を括った。
「わたし、モーニングスターにここに呼ばれたんだけど、中に入れてもらえる?」
「すみません、わたくしにそのような権限はございませんので、どうかお許しを」
「そうなの?困ったわね……」
「ですが、あなたのように可愛らしいレディーを一人、ここにこのまま置いていくのはわたくしのポリシーに反しますので……そうですね。少しお待ちください」
その紳士的な物言いにポカンとなって、すぐに「この人、今わたしのことレディーって言った?」と言われたこともないような一言を思い出し、アプリーリスの脳はぐわんと揺れた。言葉の意味を理解した途端、ぽぽぽと染まった頬を一瞥して微笑む表情に囚われたなんて、口が裂けても言えない。
「シャドウ、聞こえますか。カイロプタラです。ただいま戻りました」
数秒としないうちに、どこからともなくプ・プ・プ・ピーと機械音が鳴る。
『照合完了。カイロプタラ、お帰り。今開け……っと、待って。そこに誰かいるよね?』
「ええ。わたくしもつい今しがた出会ったところなのですが、どうやらモーニングスターに呼ばれたようです。彼はそこにいらっしゃいますか」
『ルシ……じゃなかった。モーニングスターね。すぐ呼ぶ』
プツ、と通信が途絶える音がして数秒。すぐにまた音が入り、シャドウと呼ばれた人物の声がした。
『モニター見せた。ここまで無事に来れたなら合格。連れてきていいって。カイロプタラ、よろしく』
「承知いたしました」
言うが早いか、ガコンと音がすると、崖の壁面一部がへこみ、ポッカリと現れたのはこの場所に似合わない豪奢な扉。それを優雅な所作で開けると、カイロプタラは少し腰を折って「どうぞ」とアプリーリスをエスコートした。
「あら」
「……と、思いましたが、この場合はわたくしが先に入るほうが良いでしょうね。なんと言ってもデビルズのアジト。何もないことをわたくしが示しながら歩かなくては」
そう宣言してニコリと一つ微笑みを。アプリーリスは少し頬を染めて、ありがとう、と返事をした。そうして二人、扉の中に入ればバタンと扉は閉まり、また大きな音が鳴ったところを見ると、恐らく外は崖の壁面に戻されたのだろう。それと同時、壁にポワッとオレンジ色の明かりが灯った。
「ここ、」
「裏口、ですね。デビルズに関わりがあるものはこちらから。一般のお客様は表から。そういうことです。わたくしの時も試験がてらこうして力量を測られました」
「そうなのね。えっと、カイロプタラって呼べばいい?」
「聴いておられましたか」
「まぁ。職業柄ってやつよ」
「改めまして。わたくし、コードネームをカイロプタラ。名をバルバトスと申します。あなたはアプリーリスですね」
「!」
「驚くことはありません。わたくしもエージェントの端くれですので」
「そっちじゃなくって!名前、」
「ああ、そちらですか。すぐにまた自己紹介がありますよ。モーニングスターが直々にオファーに行ったのです。付き合いは長くなるでしょう」
そこまで言うと立ち止まって、カイロプタラ、もといバルバトスは徐に手を差し出した。
「よろしくお願いいたします」
「ええ。こちらこそ」
その手を握り返し、固い握手を交わす。と、そこでまた指紋認証システムを解除し、現れたエレベーターに乗り込む二人。その先にやっと「ミーティングルーム」と書かれた部屋の扉が視界に映ったのだった。
「わかりやすいわね……」
「ここまで来られるのであれば内部の者と認めて差し支えないのでしょう。失礼します」
アプリーリスが心の準備をする間も無く、こんこんとノックされた扉の先から、「入ってこい」と威圧的な声がした。そうして開いた向こう側には、モーニングスター並びに、おそらくデビルズの一味であろう七人がいた。
「よくここまで来た。アプリーリス、デビルズのアジトへようこそ。俺たちは君を歓迎する」
「どの口が言うのよ!」
「この口だが?」
「そういうこと言ってんじゃないわよー!ど こ が 歓迎ムードなのか教えていただけますかぁって聞いてるの!カイロプタラがいなかったらどうなってたか!」
「そうか。カイロプタラが連れてきたんだったな」
「いえ。わたくしは入口を開いただけのこと。その他は彼女がお一人で」
ね、とカイロプタラがアプリーリスに同意を求める。それを頷くことで肯定し、アプリーリスは続けた。
「あんたが私のことをどこまで知ってるのかはわからないけど、こっちも伊達にエージェントしてないのよ。頼まれたことをほっぽってトンズラなんてしない。だけどね、呼び出しておいてアジトの中に入れないのはちょっとどうかと思うわけ」
「信頼に値するか試すのは当然のことだろう。おまえの働きには期待している」
「期待ってねぇ……」
見た目通りの高圧的な声でアプリーリスの言葉を遮って、モーニングスターが合図する。
「さぁ、こちらのメンバーの紹介だ。右からいこう。マモン」
「あー俺はマモンだ。ド新人が入ることがあったら俺が面倒見ることになってるけど、見たとこ、おまえは経験者みたいだから俺の手が必要なこたぁねーな」
「え……ってかルシファー、紹介ってコードネームじゃなくていいの?」
「問題ない。こいつとは長い付き合いになるからな」
「なるほど……んじゃあ次は僕ね。レヴィアタン。主にハッキングとか強固なシステム解除とかそのあたりを担当してる。現場に行くことはあんまりないよ。コードネームも一応言っとくと、シャドウっていうよ。よろしく」
「次は俺だな。サタンだ。情報収集系は俺の仕事と思ってもらっていい。足手まといにはならないでくれよ」
「はいはーい!そんじゃ次は僕!僕はアスモデウス。気軽にアスモちゃんって呼んでね!女装を含めた変装は僕の十八番だよ。コードネームはアウラ。美しさで輝いてる僕にピッタリでしょ♪」
「俺はベルゼブブ。主に力仕事係をしてる」
「ぼく、ベルフェゴール。潜入捜査は割と得意。よろしくね。あ、コードネームはスリーパーだよ」
「最後は私だね。ディアボロだ。バルバトスと同じ時期にデビルズに入ったんだ。ここではまだ新人なんだが、シャドウのもとで勉強中で、今は主に動画の解析などを担っている」
一思いに七人に名前を言われてこんがらがりそうになる脳内をなんなく整理し、顔と名前を一致させたアプリーリスは、最後にモーニングスターに視線を戻した。
「そして俺がこのデビルズの総まとめ役のモーニングスターことルシファーだ」
「ふーん。明けの明星か。……どれも長いのね」
「は?」
「きめた。私あなたのことはボスって呼ぶわ」
「いや、だから」
「ボースボスボスボスボ、」
ゴチン!
少しの憎しみをこめて二文字を連呼したアプリーリスの頭に鉄槌が下されるのに時間はかからなかった。
「いったぁ〜いっ!信じらんない!いたいけない乙女になんてことするのよ!」
「黙れ。余計なことをするな。紹介も済んだ。早速ミッションの話に移るが」
「早くない!?」
「おまえには会員制のナイトクラブに潜入し、とある奴から」
「待って?会員制のナイトクラブぅ!?いつの時代の話よそれ!ていうかあの時はパーティーって言ってなかった!?」
「金持ちの間ではまだまだ顕在だ。それにこれもパーティーの一種で間違いない。おまえはまず第一フェーズとしてそこに潜り込み、必要な情報を集めてこい」
「……第一フェーズってなに」
「第一フェーズは第一フェーズだ」
「つまりルシファーが言いたいのは、このミッションは段階を踏んで進むということです」
「……わたしがもらったほうしゅうは」
「全てのミッション分含まれる」
「って、こと、は……」
「このミッション中はよろしく頼むぞ、アプリーリス」
バルバトスとは正反対の嫌味な笑顔を浮かべたルシファーがアプリーリスに打撃を与えたところでお開きが言い渡され、このミッションに関わりのないものは皆、ばらばらと部屋を後にした。そして残ったのは、バルバトスとルシファーのみ。ぽかんとしながらアプリーリスは部屋を今一度見渡した。
「え……?たった二人?」
「そうだ。おまえたちはペアでパーティーに潜り込め。後ほど詳細な資料を渡す。近くのホテルに部屋を確保済みだ。資料以上の情報が欲しいならレヴィかサタンに直接聞いてくれ。以上」
「かしこまりました」
二人のやり取りを見たアプリーリスは、発狂しそうになる自分をなんとか抑える。私もエージェントの端くれ、こんなことで慌てるなんてらしくないと、腹を括って踏ん反り返った。
「っもう!わかったわよ!乗り掛かった舟だから最後まできっちり対応して、ささっとおさらばするわよっ!」
「よろしくお願いいたします、アプリーリス」
「ええ、こちらこそよろしくね!カイロプタラ」
かくしてミッションt&fの第一フェーズが幕を開けるのであった。が。
「とはいったものの。この指示書、適当すぎない!?」
「そうですか?いつもこの程度ですよ」
アプリーリスが見つめるのは、先刻渡されたばかりの指示書。それを見て愕然としたのも致し方なかった。ターゲットの顔と名前、それからミッション先の住所が載っているだけの一枚っぺら紙。手渡すほどの資料でもなくアプリーリスは頬を膨らませてずっと文句を言っている。ミーティングルームの机にはどこから持ってきたのか大量のお菓子が並べられていた。
「まずは甘いものでも召し上がりませんか?せっかくの初対面なのです、できればもう少し打ち解けたいと思っておリます」
「……」
「安心してください。自分の作ったものに毒を入れる趣味はございません」
「別にそんなことっ……って、作った?あなたが?これ全部?」
「ええ。わたくしはデビルズに入る前、先ほど紹介のあったディアボロ……当時はとある会社の副社長でしたが、その秘書を務めておりまして、そこでさまざまなスキルを」
「待って待って、秘書とお菓子作りに関連なくない?」
「お茶の準備からスケジュール管理まで幅広くわたくしが管理しておりましたから」
「なるほど……?スーパー秘書だったってわけ。でもそんなあなたがどうしてエージェントなんて?」
「わたくしたちはある事件をきっかけにデビルズの存在を認知したのですが副社長がどうしてもデビルズにアポを取りたいと申されまして。わたくしとしては副社長のお傍から離れるわけにもまいりませんし。とは言ってもいつかは独り立ちされるお方ですから、今はこうして別行動をすることも増えましたが」
「へぇ……」
アプリーリスは出自が出自なのであらゆる毒や薬物に耐性があったし盛られたとしてもある程度どんな効き目があ流からどう対処すべきかがわかっている。そのため初めから出されたものに対してはさほど警戒していなかったのだが、口に入れた瞬間、別の意味で唸らされた。
「……っ美味しい!!」
「嬉しい反応をいただけて光栄です」
「んぐんぐ……っ本当に!アルケドの作ったスイーツに引けを取らないわよ!」
「……それはどなたのことでしょうか」
「あれ?知らない?アングラ仕事の斡旋所のマスター。ボスが来るくらいだからてっきり知ってるのかとおもっ!?」
そこまで口にしてしまってから「しまった」と思ってももう遅かった。すでにバルバトスの顔には暗い影が差しており、先程の柔和な微笑みのカケラすら見当たらない。ふふっと笑ってはいるものの全然笑えていないのだ。
「あ、その、」
「ぜひ、お会いしたいものです」
「え、っと……そ、そうね……お菓子作りとか、こ、紅茶にもこだわりあるみたいで、」
「紅茶にも造詣が深いのですか?」
「ひっ……!?た、しか、そ、そう、あは……あはは……趣味が、あう、の、かしらね」
「ええとても。ですからお話ししてみたいものです」
うふふ、あははとの暫くのやりとりの間、今後こういう話題は振らないようにと肝に銘じながら、アプリーリスはなんとか話題の方向転換を試みる。
「あのっ、」
「はい、なんでしょう」
「このターゲット、パーティーに客としてくるのよね?」
「ええ、そうだと思います。今回は特に潜入用の従業員IDもないようなので、わたくしたちもゲストを装って入ることになるかと」
「ふぅん?だから二人ペアでってことなのね」
もぐもぐと口を動かしながら、アプリーリスは天井を見上げた。
「……あれ?でも私、この案件に誘われたとき『あと一人女が必要』って言われたのよね。女装が得意な人ってカイロプタラのこと?」
「いいえ、わたくしは特にそのような認識を持たれてはおりません。それは恐らくアスモデウスのことではないでしょうか」
「そうなの?だとすると話がおかしいわね。この案件に新メンバーの女性はいらないじゃないの」
「なぜです?」
「やだ、だってあなたの女装も完璧だったから。気づいてなかったの?」
「アプリーリスは一目でわたくしが男と見破ったでしょう」
「私はね、長年こういう仕事してるもの。けど普通の人からしたら女性にしか見えなかったと思うし」
一体どういうことなのかしら……とぶつぶつ考えているアプリーリスの姿を見たバルバトスが、今度こそにこやかに笑った。
「ふふっ……!アプリーリスは思考が飛びがちですか?」
「なっ!?」
「おそらく女装云々の話は口から出まかせでしょう。ルシファーが近々大きな案件が来るかもと匂わせていたので、その前段階の力量試しではないですか?それから、わたくしたちの相性がよさそうだったからお誘いがいったのかもしれませんね」
くすくすと肩を震わせながらも、ミッションの詳細ですがと話を戻すバルバトスは、有能秘書の片鱗を残していると言っても過言ではなさそうだ。こうして二人は打ち合わせという名の顔合わせお茶会を済ませた。が、しかし問題はそこからだった。片付けを終えてミーティングルームを後にしたアプリーリスが家に帰ると言って聞かず揉めているのが今である。
「だーかーらー!そんなに時間かからないから大丈夫なのよ!」
「明日、朝から共に出かける方が効率的だと申し上げております」
「効率も非効率も、私は自分の家でしか眠れないの!そういうふうに育てられたから無理なの!」
「ではわたくしがあなたの家に参ります」
「あーもー!頭が堅いわね!」
「当然のことを申し上げているまでです」
「ぐぬ……」
「異論はもうないですね」
聞いての通り、自宅へ帰るか帰らないか論争をしていたわけだけれど、あまりに意見を曲げないバルバトスにアプリーリスが折れたところで、ではこちらへ、と指された通りに歩き出す。アプリーリスは、ここではきっとカイロプタラの言うことは絶対なのだ、と肩を落としたのだった。
「でもね、」
「まだなにか?」
「そんな訝しげにしないで、もう逆らったりしないから!このアジト、ゲストルームでもあるの?昨日の今日でここまで呼ばれて、私用の部屋なんて」
「もちろん用意があります。と言っても、つい最近整えたばかりなのですが」
バルバトス曰く、このアジトは自分たちが入ってきた裏口側と、表から見た屋敷側とで半分に分かれているらしかった。しかしながら表側は普段誰も入るものがいないため、荒れ放題だったのだとか。それをバルバトスたちがデビルズの一員になったときに誰がきても恥ずかしくないよう清掃して整えたそうだ。
「えっ……デビルズってズボラなのかしら」
「いえ、どうも持ち回りで清掃などをしていたらしいのですが、ここ最近皆出ずっぱりでその余裕がなかったそうで。わたくしたちはここでは下っ端の新人扱いですから」
「あなたレベルで新人だったらこの業界、ほとんど全員赤子のようなものだわ」
「ふふ、それはお褒めの言葉として受け取っておきましょう」
「デビルズ自体に信用がおけるかはまだよくわからないけど、ここに来てから今まであなたのこと見ていて、話してみて、あなたなら信用できると思った」
「それはなぜでしょうか」
「あなた、躊躇いがないもの。仕事には一番いらないものよ。躊躇したが最後、一瞬で全てダメになる。私はそんなエージェントを相方になんてしない。だからあなたとならミッションに出てもいいと思った。そんなところ」
「たった三時間程度で随分と分析されてしまったのですね、わたくしは」
「まだ底は見えないけれどね。プロ同士、ってそういうものでしょ」
「そうですね。正直、腹の探り合いというものは楽しいです」
それをしていることを隠しもせずに小首を傾げるバルバトスには、さすがのアプリーリスも苦笑いするしかなかった。
こうしてアジトの夜は更けて行く。
この出会いは必然か、それとも偶然か。それはまだまだ、わからない。
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◆栗鼠と蝙蝠の相性
こうして二人は初ミッションを迎えた。気張りすぎていないパーティードレスに身を包んだアプリーリスとなぜか執事のような燕尾服を身につけたバルバトスは、二人、夜道を駆けている。街の入り口まで着いたところでそのスピードは一般人と変わりないものに戻った。カツン、コツンと二人分の足音がコンクリートを響かせる。潜入先はナイトクラブだ。男女揃っていくのは少し目立つかもしれないと、まずはアプリーリス、次いでバルバトスが、店内へ歩を進める算段をつけた。
今は店までもう少しのところにあったビルの影に隠れているところだ。
「内装図を見る限り、この会場、割と広そうだけど。中で合流できるかしら。無線機もああいう場所では耳に届きにくいし」
「デビルズの機器に限ってそのようなこともないとは思いますが、万が一のときは個人対応ということで。だからこその経験者(あなた)でしょう」
「言うわね、カイ」
「……カイ、とはわたくしのことでしょうか?」
「それ以外誰がいるっていうのよ」
ぱちくりと目を見開くバルバトスに、心底訳の分からないといった表情を返したアプリーリスはハァッとひとつ溜め息を吐いて、それから笑った。
「少し、歩み寄ろうとしたの。こう説明すればわかってもらえる?」
「ああ、なるほど。ではわたくしもあなたに対してフレンドリーにならなければ」
「ならなければ、って……ふふっ!それじゃ義務になっちゃうからフレンドリーとは程遠いわよ。昨日も言ったけどあなた硬そうだから。そういう気分になったらで構わないわ」
バルバトスは屈託のない笑顔を見せるアプリーリスに「では然るべき時が来たら」と返した。
「さ、てと。私はそろそろ行くわ」
「ええ。よろしくお願いします。ミッションの成功を祈って」
「グッドラック」
隠れていたビルの影から躍り出たアプリーリスは一人ナイトクラブの入口へと向かっていく。その後ろ姿を見届けるとバルバトスは通信を送った。
「モーニングスター、こちらカイロプタラ。聞こえますか」
『ああ、通信は良好だ。どうした、何か問題でも?』
「問題というほどのことでは。ただの質問です」
『なんだ』
「このミッション、計りましたね?」
『……何を言っているのかわからないな』
「ふふ、そういう気ならあえて深追いはしませんが、ある程度はわたくしたちの好きしても文句は受け付けませんので、そのつもりで」
『任務を遂行しさえすれば、方法は問わない。うまくやれよ』
「かしこまりました」
通信が途絶えるとともに、空の細い月は雲に覆い隠され、あたりは薄暗くなった。久しぶりに楽しくなりそうですと崩れたバルバトスの表情は、誰に見られることもない。
さて、そのころ。すでにナイトクラブに潜入済のアプリーリスは、利きすぎる鼻で少し抑え気味に呼吸しながらターゲットを探していた。
(何これ……入った瞬間から薬物の香りで鼻がもげそう!こんなんじゃ誰もまともな思考保てないわね……成分的には神経系統を支配するってところかしら。いくら私でもあまり長居はできそうにない)
ふらふらと、音楽に合わせて揺れているのかと思いきやただ意識が朦朧としているだけの客が多いようだ。客一人一人にスーツの男がついて巧妙にカムフラージュしていた。アプリーリスもウェルカムドリンクを手渡されたが、それにもドラッグが溶けているに違いなく、飲むふりをするにとどめた。
右に左に視線を泳がし、そうして暫く。
(……あそこね)
一番奥のカーテンで仕切られた「いかにも」なブース。そこに出入りする奴らの幾人かの顔には見覚えがあった。資料に載っていた顔である。
(しっかし悪党ってなんであんな悪党ですーってツラしてるのかしらね。もう少し愛想よくしたらバレないかもしれないのに)
そんなことを考えつつ、ふらふらとそちらのスペースに近づいたアプリーリスは、わざとらしくカーテンを覗く。すると、中の男たちが瞬時に構えをとったが、目に飛び込んだのが小柄な女だったためにすぐに緊張の糸を解いた。下っ端と思われるサングラスをかけた角刈りの男がアプリーリスの前に立ちはだかる。
「あのな嬢ちゃん、ここは、」
「あれぇ〜?ここにきたらぁ、ドリンクのおかわりもらえるって聞いてぇ〜。あたし、この味じゃなくてアップルがいいんだけどなぁってぇ」
「おい、だから」
「入れてやれ」
「えっ、でも」
「いいじゃないか。もう出来上がってるようだし、なにも覚えちゃいねぇさ。おい嬢ちゃん」
「なぁにぃ?」
「生憎アップルジュースはこのブースにはねぇが、菓子がある。食うか」
「ほんとぉ?ちょうど甘いものがほしかったの〜」
テーブルに乗っていた皿を別の手下が持ち上げ、アプリーリスの方に運んでくる。その上に乗っていたのはマカロンだったが、微かに漂う異臭を敏感に捉えたアプリーリスは、これ以上付き合う意味はないと判断した。マカロンを一つ掴み口に入れる素振りを見せーー瞬間、それをボスの額に投げつけた。手下一同は何が起こったのか理解できていない様子でポカンと口を開け、数秒後に一斉に「!?」と反応を返した。
「あらやだクリーンヒット」
「ああ!?テメェ何しやがんだ!」
「やぁね。私のこと見くびったからそんなことになるのよ。あなた、このパーティーの主催の人でしょ?相手が私でよかったわね。私、殺しはしない主義なの。そんなことだと命がいくつあっても足りないわよ?」
「おまえ、」
「ちょっと聞きたいことがあるのよ。金庫の鍵について」
「!」
「ふぅん?その反応、やっぱりあなたが持ってるのね。貸してもらえないかしら?」
「その程度の『お願い』で通るとでも?」
「こんなに可愛くお願いしてるのに?」
わざとらしくキュルンとポーズを取るアプリーリスに、嫌味な笑みが注がれる。
「こういうのは遊びじゃねぇんだ。お願いするならそれなりの対価を払ってもらわねぇとな」
「対価ねぇ」
「そうだ。このフロアにいるオンナノコたちみたいにな」
「やぁだ悪趣味」
「嬢ちゃんがわからなくても、この世にはそういうビジネスがあ」
「お嬢様!」
「は?!」
「勝手にクラブに出掛けるなんて何を考えているのです!」
相手の物言いに耐えられなくなったアプリーリスが、そろそろ手を振り上げようとしたその時だった。颯爽と現れたのはバルバトス。だが、彼はなんと言ったか。彼も『お嬢様』と、そう彼女のことを呼ばなかったか。アプリーリスは耳を疑って一瞬呆けた。
「え、と?」
「さぁ帰りますよ!」
グッと腕を引いかれて不覚にもよろめいたアプリーリスの腰を取り、バルバトスは出口に向かおうとするが、それを阻んだのはターゲットだった。二人は内心、かかった!、と気を引き締めなおす。
「ほーぉ?マジモンのお嬢様ってやつか。ちょうどいい……執事さんよ、お嬢様が困ってるぞ。少しは遊ばせてやったらどうだ」
「失礼ですが、外野に口出しされる筋合いはございません。これはわたくしとお嬢様の問題ですので」
「いやいや……若いうちからそんなふうに箱に押し込めちゃいけねぇよ。箱入り娘、なんて言葉もあるくらいだからなぁ」
その一言でザッと周りを囲んだのは会場スタッフらしき服装の者たち。なぜか他の客はいなくなっており、眉根を寄せたアプリーリスはバルバトスに口パクで会話を試みる。もちろん読唇術を心得ているバルバトスは、それに正しく応答した。
『この感じ、もしかしなくても潜入することバレてた?』
『どうやらそうみたいですね』
『誰から漏れたのかしら。あのデビルズがヘマするとも思えないけど』
『デビルズがヘマをするわけがない。そうすると、こう考えられるのでは?』
『え?』
『デビルズが、自身の意志で情報を撒いた』
『……まさか』
『そうです。わたくしたちの力量を測るために』
アプリーリスの顔がニコォと、それはそれはいい笑顔になる。バルバトスも口角をにっこりとあげた。そして次の瞬間、顔に似合わない大きな溜め息を吐き出した。それに対してニヤニヤと嫌味な笑顔を浮かべた男は、バルバトスにお構いなしにアプリーリスの肩を抱き寄せる。
「はぁあああああああ」
「おーおーお嬢様も執事さんの過保護に呆れてるみたいだなぁ?」
「よくわかったわね」
「そりゃあ俺も伊達に長生きもしてねぇのさ」
「じゃあ、そんなダンディなおじさまなら、私が今何を考えているのかわかっちゃうのかしら」
「ああ、そりゃあもう。お嬢様はそのおじさんと遊びたい、そうだグハァッ!」
ゴッ、といい音と共にアプリーリスの肘が男の顎にクリーンヒットし、それを予期していなかった男の首は最も簡単に天井の方へと向いた。一瞬呆けた男が首を元の位置に戻した時にはその顔は怒りで真っ赤になっていた。
「ッテメェ!」
「あーらごめんあそばせ。私、育ちがいいものだから、思っていたことと違うことを言われて頭にきちゃったわ」
「んだと!?」
「大外れよ!私は箱入りでもなんでもない、ただのエージェントの端くれだもの。カイ!」
「はい、準備は万全です」
「殲滅しちゃってもいいのかしら?」
「いけない、とは言われておりませんので、必要なものさえ手に入ればおそらく」
ニッと口角を上げたアプリーリスは両手を組んで前に突き出し、グーッと伸びをする。と、次の瞬間には周りにいた数人が床に叩きつけられており、おお、とバルバトスの瞳が一回り大きく開かれた。パチパチパチ、とグローブのせいで音はしないものの、拍手が送られる。
「何拍手してるのよ。半分はそっちがしたくせに。今の一瞬に合わせてくるなんてびっくりしたわよ。新人なんてとんだ嘘じゃない」
「お褒めに預かり光栄です。これでもわたくし、元・秘書ですので」
「元秘書だからなんでもできるって?秘書の仕事なんだと思ってるの?」
「アプリーリスさん、今はそのようなことを言っている場合では」
「わかってるわよ!」
示し合わせてもいなかったのにザッと互いに背中を預ける形を取り、背中越しに言葉をかけあう二人はすでに息ぴったりである。
「情報通りなら、この奥にVIP客対応室があるはず」
「ええ。そこに目当ての金庫がある確率は高いでしょう」
「ならっ」
「はい。わたくしたちがやることは、一つです」
そのセリフが耳に届くや否や、アプリーリスのドレスの裾がひらりと宙に舞った。それをポカンと目で追うのは全ての男たち。
「やだ!スカートの中覗かないでよえっち!」
空中で器用にスカートを直したアプリーリスを皆が認識したときには、すでに一人が足蹴に、もう一人の顎は割れている状態で、空気が固まった。アプリーリスはくるりと皆のほうを向き直り、ニッコリ笑った。
「さ、どう?渡す気になった?」
「は……はぁっ!?なるわけないだろうが!部下にこんなことをされて許されると思うなよ!?」
「ええー?私だって一応か弱い乙女だしぃ?手荒な真似はあんまりしたくないのよ」
「は?どこが!大の男にあれだけ強い肘鉄をくらわせられるののどこがか弱いおんだっ!」
「やだわ本当。話が長いオジサマなんて昨今流行らないわよ?」
事実を言われてイラついたのかなんなのか、話が終わる前にアプリーリスの拳が一突き。男の腹にクリーンヒットしてK.O.のゴングは呆気なく鳴った。その間に周りの手下どもはバルバトスが残らず片付けていた。
「わたくしの出る幕はありませんでしたね」
「謙遜だわ!」
パンッとついてもいない埃を払い、ノビている男の側に近寄ると、男のスーツの胸ポケットを探る。そこには二連の鍵が入っていた。チャリ、と持ち上げて、むっと眉根を寄せる。
「片方が金庫で片方が」
「VIPルームの扉の鍵、ですか」
「こんなに弱っちぃのに一緒くたにして自分で持ってるなんて呆れちゃうわね」
「本来こんなことは起こらないのが前提なのでしょう」
念には念をという概念がないのかもしれませんね、とクスクス笑つつ、バルバトスはその鍵を手に取り、奥の扉を開ける。その部屋はVIPルームというにはあまりにも小さく、机に椅子、それから金庫があるだけの質素な場所だった。そういう名前をつけて人払いをしていただけなのかもしれない。なんてかんがえながら、続けて金庫にも鍵を差し込む。一回転させたところでカチリと小さな音がして厚い扉が開いたが、中にあったのは書類でもUSBでもなく、一枚のカードキーだった。アプリーリスは少し身体をずらしたバルバトスの横から尋ねた。
「これ……どう思う?」
「カードキーを厳重にしまう理由など一つしかないかと」
「そうよね……嫌な予感……」
「そちら、金庫の扉のところ、封筒が」
「え?あらほんと」
慎重に封筒を取って検めたバルバトスは、少し困った表情をしてからピラリとアプリーリスにそれを向ける。紙には、直線で構成された図形のようなものと、そのところどころに丸やら四角やらの印がつけられていた。
「どうやらこちらがヒントになっているようですね」
「ええ……私、そういう暗号的なのは専門外なんだけど」
「一度デビルズに持ち帰っては?誰かしらから閃きがあるかもしれませんし」
「そうするしかないかぁ……ああもう!これでさよならのはずだったのに!」
「ふふ、デビルズも居心地はなかなかですから、そう嫌わずとも」
ぶす、と頬を膨らませるアプリーリスを見て笑ったバルバトスは必要なものを懐に仕舞うと金庫の鍵を閉めてVIPルームを出る。鍵は男の手に戻した。
「さて、戻りましょうか」
「悔しいけど、長居は無用だし」
「ここからは宝探しのようです」
「こんな面倒な宝探しはごめんだわ」
床に転がった大人たちを今更の慈悲で踏まないように避けながら、出口へと歩を進めた。郊外のこの場所は一歩外に出たら暗闇に包まれている。そのせいもあってか、瞬く星たちが一段と輝いて見えた。アプリーリスはそんな夜空を見上げてぽつりと呟く。
「星が綺麗ね」
「……ええ、このあたりはいつも」
「私、ずっと一人でしかミッションしてこなかったから、家以外でこんな星空見ることなかった。一息つく暇があったらすぐにトンズラだもの」
「……」
「改めてだけど、今日はカイがいてくれて心強かったわ!ありがとう……なーんて!酔ってるのかしら!」
「おや、アルコールを口にしたのですか?」
「うーん、まぁそんなところ!」
ふふふと笑い合っていたその背中に近づく影にはもちろん二人とも気づいていた。表情を取り繕って振り向くと、そこには大柄の男が一人。
「何か御用でしょうか?」
「私たち、今から帰るところなの」
そんな風に切り出すと、男はいかにもな太い低い声でこう返す。
「いい雰囲気のところ悪いが、あいつらをぼこったのはおまえらか?」
言葉を受け止め、目を合わせ、パチクリ。その間きっかり三秒。あからさまに残念な顔でもう一度男の方を向く。
「あら見つかった」
「追手でしょうか?それともお早いお目覚めでしょうか?」
「私が手をかけた奴らではないわね」
「おや。そうなると追手ということになりますね。わたくしも覚えがありません」
「何をごちゃごちゃと!金庫の中身を返してもらうぞ」
「それは無理な話よ」
「わたくしたちもボスからお小言を受けるのは御免ですので」
「そうかい、じゃあ、力づくで奪うしかねぇなぁ!!」
張り上げられた声はこの静かな夜には似合わない。向かい打ってもいいのだけれどもうだいぶ疲れたし、と思いつつもアプリーリスが身構えたところを横にいたバルバトスがサッと抱き上げた。
「へ!?」
「退きましょう」
「え……え!?」
アプリーリスを姫抱っこしたバルバトスはそのまま走り出す。疾風のごとく駆け抜けるバルバトスに男が追いつくわけもなく、彼を振り切ることは難なく成功した。
「っちょ!待って、カイ、私自分でっ!」
「わたくしもたまには格好をつけたいなと思いまして。新人さんの手前ですがいいところがまるでなかったので」
「!」
「甘んじてこのままいてくださると助かります」
息一つ乱れず、暗闇を駆けながら、バルバトスは笑った。それはここ数日で一番楽しそうな笑顔で。それを見たアプリーリスはぽぽぽっと頬を染めたのだった。
そうして結局、ルシファーが手配したホテルを使うことなくアジトに戻り、開口一番、アプリーリスは「ボス!騙したわね!?」と言ってゴチンとグーパンを食らった。
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◆リスタート
次の日。部屋から出てきて食堂でバッタリバルバトすとアプリーリスが顔を合わせた瞬間、「きゃーー!」と叫んでアプリーリスが部屋から立ち去ってしまったのは少しばかり話題になった。
「おや。彼女はどうしたんだい、バルバトス。昨日のミッションはうまくいったと聞いているけれど」
「さぁ……わたくしには分かりかねます」
「ウッソだぁ。その笑顔見たら誰でも嘘ってわかるよ」
「坊っちゃまとレヴィアタンは徹夜明けですか?」
「まぁね」
「そうだね」
「ほどほどにしてくださいね」
「肝に銘じておくよ」
そんな会話を他所に柱の影に隠れたアプリーリスは胸をバクバクさせながら頬を手で覆ってナンデェ……とか細い声を上げていた。
「こんなっ……たかが一回一緒に仕事しただけじゃないっ……!」
しかしこれまで基本的に一人だったアプリーリスは、女扱いなんてターゲットに下衆な目で見られるとき以外にされることなんてなかったために、突然のことに困惑し、人生で初めて「焦り」とか「戸惑い」とか、そういった類の気持ちを抱いていた。隠れた柱の影からそっと顔を覗かせ、もう一度バルバトスの姿を視界に入れる。
「う……何これっ……眩しい……カイがキラキラしてるぅぅぅっ」
もはやアプリーリスの瞳にはバルバトスが輝いて映っているようだ。それはさながら王子様のように。
「うそうそうそ!だってデビルズの一員だよ!?禁断の恋じゃないこんなの!」
自分で言っておきながら「禁断の恋、かぁ……」なんて、言葉の余韻に浸るアプリーリスはもう完全にバルバトスの虜だった。そして視線に気づいたバルバトスに微笑まれてまた奇声を上げるまで、さほど時間はかからなかった。
閑話休題。
そんなことがありつつも朝食後にバルバトス特製のスイーツをいただきながらミッションの結果報告を改めてしている状態だ。今ミーティングルームに残っているのは、ベルゼブブにベルフェゴール、サタン、それからバルバトスにアプリーリス。昨日手に入れたカードキーと謎の図形が書かれた紙を見せて難しい顔をしている。いつこんなに作ったんだろうと不思議になる程たくさんのスイーツがあったのに、すでに半分ほどは空になっているのはベルゼブブが勢いよく腹に収めていっているからで、その様を初めて見たアプリーリスは驚愕して自分の分は守らなくてはと早々に膝の上にスイーツを取り分けたお皿を確保していた。粗方話し終えたところでプチシュークリームを一つ口に放り込むと、話を締め括る。
「……というわけなのよね。私、こういうのは専門外で困ってるの」
「わたくしもパッと思い当たるものがなく。ルシファーにはミッションが終わるまで報告はいらないと言われる始末」
「ボスっていつもあんな感じなの?よくみんなついてくわよね」
「俺たちは家族みたいなものだから。ルシファーは昔からずっとあんなんだ。もう慣れた」
「俺はあいつのことはストレートに嫌いだ」
わいわいと雑談に花が咲く中、ポツリとベルフェゴールが呟いた台詞に一同が視線をそちらに集中させる。
「ぼく、その図形、最近どっかで見た」
「え?ほんと?」
「うん。でもなんだっけ……思い出せなくて。ここまで出かかってるんだけど」
ヘタリと机にへばりながらうにうにと声を出すベルフェゴールの姿はスリーパーの異名の通りとても眠そうだ。うーんうーんと唸る、そんなベルフェゴールの横で、サタンが「あっ」と反応する。
「そうだった。それだ。その話」
「サタンも何かあるの?」
「ああ、おまえたち、本当にわからないのか?」
「へ?」
「それは地図だ」
「ちず?これが?」
「……なるほど、地図記号ですか」
「ビンゴだバルバトス」
「きごう〜?」
貸せ、と図形が描かれた紙をアプリーリスから取り上げると、サタンは、その上にもう一枚の薄い紙を敷いてからペンの蓋を外した。それから、一つ一つの図形に丁寧になぞる。
「例えばこれ。これは東にある島国のものだったと思う。これは荒地を表している」
「は?三本線が書いてあるだけじゃない」
「元も子もないことを言うな!雑草が生えて荒れているのを模しているんだ」
「ええ〜……?」
「地図記号は各国独自のものばかりだからな。知らなくて当然だ」
そう言いながらも地図記号を読み解き、文字で書き記していく。すると段々と目が「地図」を認識できるようになるから不思議だ。
「あ、わかった。ぼくなんでこれに見覚えがあったか。これ、この前潜入捜査で乗り込んだビル群がある場所じゃない?」
「確かにそうかもしれない。俺とベルフェがチームで乗り込んだところか」
「そうそう。あの時もベールが、えーっと……あ、ここだ。ここの美術館の隣にあるカフェでちょっと休んだらさ、お店のペストリー全部食べきっちゃいそうで大変だったよね」
「そうなんですね。しかしながら、こちらは綺麗に区画された場所なのですね。チェス盤の目のようではないですか?」
「え?」
「ん?なに、サタン」
「それだ」
「ん?」
「おまえたちの行き先がわかった」
こつ、とペンで示された場所は三角と三つの長方形が組み合わさったマークを叩いた。
「理由をお伺いしても?」
「もちろん。イラストロジックは知ってるか?」
「たしか、パズルゲームのようなものでしたか」
「そうだ。縦横の数字をもとにマス目を塗りつぶして埋めていく。正しく埋められるとイラストや文字が浮かび上がってくる、といったゲームだ。それで、」
さらにペンが走る。大きく五×三のますに切られた地図に数字が書き込まれた。
「最初にこのカードを見たとき番号に違和感を覚えたんだ。1323331253。カードキーに書かれるとしたら社員証のナンバーや口座ナンバーなんかになると思うんだが、それにしては桁数が多いし、使われている数字が少なすぎる。こんなものが一緒にあった時点で地図に使うしかないだろうと思っていた。そこで先ほどのバルバトスの言葉」
「……チェス盤」
「ああ。地図をチェス盤に見立てて区切り、番号に沿ってマスを潰す。そうして一つだけ残ったマスの中には」
「美術館が残る、と」
どうだ、と自慢げな表情をしたサタン。話を聞くだけだった三人も、なるほど、と目を瞬かせて納得だ。
「よく頭が回るわね……」
「サタンも本オタクだからじゃない?」
「読書家と言ってくれ」
「まぁまぁ。サタンを表す言葉については一旦置いておきませんか」
「幸い美術館なら入り込みやすいし、その中のどこにあるかは見てみるしかなさそうってとこかしら」
「いえ、一度レヴィアタンと坊ちゃまの耳に入れてみましょう。先に中のことを調べてもらえるかもしれません。さぁアプリーリス、行きましょう」
「え、あ、い、いえ、こんな潜入くらい私一人でっ、!?」
逃がしませんよとでも言いたげにアプリーリスの腕をとったバルバトスはそのままズルズルと彼女を引き連れて部屋を後にした。残った三人は顔を合わせて苦笑する。
「バルバトス、あれ結構リスのこと気に入ってるな」
「サタンもそう思う?あんな風に引っ張っていかれるの、ディアボロくらいしか見たことないよ」
「俺も初めて見たな。でも仲がいいことは良いことだ」
「仲がいいっていうか」
「あれはレヴィが言うリア充になるパターンの方だろう」
はぁー、と溜め息が聞こえた頃には二人はすでにレヴィアタンの部屋の前。朝食後もゲームに勤しんでいるようだったディアボロにお小言の制裁を加えてから本題に入ったのだった。
「できるよ」
「本当に?」
「ああ!レヴィアタンならできるさ!」
「美術館ってのは当たり前のように監視カメラがあるもんだから、それをハッキングして、それからシステムに侵入できれば館内図の詳しいところもわかるはずだから、それを監視カメラの映像と合わせて、不自然に映ってないところとか、館内図にない扉が存在しないかとか、そういうところを探るって感じになるよ」
「一息に喋った……すごい」
感心するところそこじゃなくない?と言いつつ、フンスと息巻いたレヴィアタンが、とにかく一時間待っててよね!、と三人を部屋から追い出したので、ディアボロは不服そうだった。仕方なしにきっかり一時間お茶を嗜んだのちまたレヴィアタンの部屋に戻る。
「遅いぞ」
「失礼ですが、わたくしたちはきっかり一時間で戻って参りました」
「あーもー、そういうのはいーから。それよりほら見て」
部屋の特大モニターに映し出されていたのは監視カメラから取得されただろう映像。その数二十以上。そしてレヴィアタンの手元には大判の図面が。三人を代表するかの如く、アプリーリスが声を上げた。
「できたの!?」
「逆に聞くけどできないとでも思ってたの?だとしたら僕のこと舐めすぎ」
「だって私あなたと仕事したことないんだもの。仕方ないでしょう?」
「そういう正論はいいんですー。で、僕の見解としては、ここ。お目当てのものはここじゃないかと思うわけ」
「どうしてそう思うんだい?」
「そちら、死角というわけではなさそうですが」
「チチチチ。素人はこれだから」
「この際素人でもなんでもいいから理屈を教えてくれない?」
反応が不服そうなレヴィアタンだったが、彼曰く、館内見取り図には存在しているはずの部屋に繋がる扉が一つもないことがわかったのだそうだ。
「他の部屋から繋がっているのではなく?」
「そんな初歩的なミスしませーん。館内の全監視カメラの撮影範囲、人の出入りしている場所、その他諸々の条件を考慮しての結果ですー」
「へぇ?そこまで言い切るってことは余程自信があるのね。さすがデビルズのメンバーだわ」
「えっ、あっ、や、ほ、ほめ、褒めてもっ、何もでっ、出ない」
レヴィアタンがあたふたふためく中、バルバトスはささっと見取り図を丸めて手に取ると、アプリーリスの肩に触れる。
「さぁ行きましょう」
「ん!?」
「今日はこれから忙しくなります。美術館が閉館する直前に入り込まないといけませんから」
「ちょ、ちょっと待ってだからさっきも言ったけど私は一人でってきゃああああ!?」
昨日と同じく軽々と抱き上げられたアプリーリスの身体はバルバトスの腕にガッチリ拘束されて、そのまま二人は部屋から去ってしまった。置いて行かれたレヴィアタンとディアボロの時は一瞬止まって、それからすぐに「ゲームの続きしよっか」「そうだね」とおさまったとか。
それからしばらく。アプリーリスとバルバトスは美術館の秘密の部屋に足を踏み入れていた。