モゴ褪2ストームヴィル城の教会で出会った褪せ人は、徐に兜を外すと星色に煌めく瞳を細めて、こんにちは、と柔らかに微笑んだ。
随分と礼儀正しく人好きのする娘だとロジェールは思ったが、そんな内心などおくびにも出さずに挨拶を返す。
狭間の地でまともに会話できる人間と出会ったのは久し振りだった。
次に邂逅したのは、城の地下。死王子の死体を前に死の棘が貫く直前、見た目は細くも力強い腕がロジェールを生へと連れ戻した。
あれは完全な油断であったし、一歩間違えれば自分は死に蝕まれ、見るも無惨な最期を遂げたことだろう。
だが、そうはならなかった。
ならなかったのだ。
『間に合った』
一言、褪せ人はそう零した。そして細く長く息を吐いて、今にも泣き出しそうな顔でロジェールに笑いかけたのだ。
そうして二人揃って円卓に戻り、ロジェールは今も尚、安穏と生きている。
命の恩人である褪せ人。今ではエルデの王となった娘との付き合いは未だに続いている。友人と言えるほど親しくは無いが、かといって他人と片付けてしまえるほど無関心にはなれない。
今はこの地の歴史を正しく残したいと願った王の求めで、遺跡の調査や文献の精査を行なっている。
ロジェールは調査報告をまとめながら、そう遠くない過去に思いを馳せた。
たった一度だけ、自分は褪せ人の細い腕に抱かれたことがある。
抱かれたと言っても決して色が付随するものでは無く、慈しみと慰めを腕に乗せて慰撫するように、ただ抱き締められただけだ。
彼女の身体は柔らかく、だが背を撫でる手は硬く、戦士のそれだった。
そんな矛盾を抱えながらも、彼女からはむせ返るほどの生の香りがした。
狭間の地にて久しく嗅いでいなかった香り。この地に蠢く命が忘れ去って久しい香りだった。
嗚呼、と吐息を零して頽れるも、褪せ人は揺らぐこと無くロジェールを抱き止める。
抱き返した彼女の身体は酷く薄く心許ないのに、彼の胸を締めていたのはどうしようもないほどの安堵だった。
『ありがとうございます』
不意に褪せ人が口を開いた。
『死を、恐れずにいてくれて。見つけてくれて、ありがとうございます』
——貴方のような人と出会えたことは、私にとって何よりの僥倖でした。
「……それは私の台詞なんですがねぇ」
「何がです?」
突然かかった声にロジェールは微かに肩を震わせる。後ろを振り向けば、重厚な本を数冊抱えた褪せ人が星色の目を丸くして佇んでいた。
「申し訳ありません、気付かないで……」
「いいえ、随分と集中されていたようですし」
私が頼んだ仕事ですからね、と女は笑う。
そうは言われても、気配を消した様子の無い相手に接近されているにもかかわらず気付かないのには問題がある。
集中しすぎると周りが見えなくなるのは悪い癖だ、と何度も苦言を呈したのはかつて旅を共にした男だったか。
言いようの無いしこりのようなものが喉奥に支えている気がして、ロジェールは無意識に喉をさする。
「ロジェールさん?」
どうされました、と眉尻を下げて問う声に大事ないことを告げると、それにしても、と話を逸らした。
「王都の書庫はいつ来ても圧巻ですね」
「ええ、暇潰しにはもってこいの場所です。字が読めて良かった」
貴重な文献が揃った場所に対して「暇潰し」と称するのは如何なものだろうか。
苦笑しながらも同意を示す。
「本当に。貴方が文字を読めて良かった。あの時は貴方の識字能力にまで思考が回らずに手紙を遺してしまいましたから」
——はて。
ロジェールは今しがた自分の吐いた言葉に目を瞬かせる。
「私、貴方に手紙を遺したことがありましたか……?」
彼女に対し手紙を書いたことは何度もある。内容は主に調査報告などで私信はほとんど無かったが、手紙を書いた事実はある。
だが、手紙を遺したとは一体どういうところだろうか。
不意にロジェールの両足が鈍く痛んだ。訝しんで見てみても変化などある筈も無い。
幻肢痛にも等しい痛みに、戸惑うように目を瞬かせる。
「ロジェールさん」
静謐な声が鼓膜を揺らす。
傍らの褪せ人へ視線を向ければ、星色の目が労わるように自分を見つめていた。
「……憶えていなくても良いのです」
何処か憂いを帯びた表情で静かに微笑む。
「思い出そうとしなくて構いません。だって、そんな事実は無かったのですから」
ですが、と女は言葉を重ねる。
「かつて、貴方では無い貴方は確かに私に手紙を遺してくれました。そのお陰で、私は今ここにいるのです」
ありがとう、と褪せ人は言う。その声音はあの時と同じように柔らかくロジェールの鼓膜を揺らした。
それと共に足の痛みが消え去り、詰めていた息をゆっくりと吐き出す。
「……やっぱり、貴方は怖いひとですねぇ」
目を瞬かせる褪せ人にロジェールは微笑む。
「私はきっと、出会った時から……貴方の真っ直ぐな優しさが酷く恐ろしかった」
恐らく、己の記憶にない「ロジェール」も同様に思っていたに違いない。
根拠はないものの、確信を持って青年はそう思った。
「ねえ、もーゴット様。私は怖い人間なのでしょうか?」
脈絡無く話し出す褪せ人に、モーゴットは手元の資料に落としていた視線を上げた。視線の先では本を抱えた女が困ったようにこちらを見つめている。
曰く、協力関係にある魔術師との会話が事の発端にあるそうだが、モーゴットからしてみればどうでも良い内容であった。
「知らん」
「もうっ、少しくらい相談に乗ってくださいよ」
追加の資料です、と決して軽くない本を机に置くと、褪せ人は納得いかないとでも言うように腰に手を当てた。
「ちょっとで良いので真剣に聞いてくださいな!ロジェールさんとの協力関係を切られて仕舞えば今後の政略にも支障が出るんですよ」
政治的関係よりも友好関係に亀裂が走る方が嫌なのだと丸分かりの態度に、モーゴットは態とらしく溜め息を吐く。
彼女の心配など杞憂そのものだ。
王都で保管している資料を貸し出すにあたり、彼自身もロジェールとは面識がある。
褪せ人ほどの付き合いは無いが、彼が新たな王に対して心を砕いているのは見ていて明らかだった。そんな男が、今更新王を見放すことなどある筈もない。
「くだらん杞憂で時間を無駄にするな。お前が成すべきことは山ほどあるのだぞ」
「そ、れは……、そうですね。失礼致しました」
仕方がないと褪せ人は気を取り直すと、新たな文献を見つけるために書棚に向き直る。
彼等の目下の課題はケイリッドの汚染を如何にして改善していくのかに尽きるのだが、有効的な方法はまだ存在しない。
一先ずは火によって腐敗の侵食を抑制する方向で進めているのだが、そんなもの対処療法に過ぎなかった。
脳裏に赤髪の女神を浮かべて舌を打つモーゴットに対して、新たなエルデの王は当の腐敗の宿主を剣の師として慕っている。
度し難いことだが、かつての黄金律の元では異端とされた者達との交流さえある褪せ人であることを鑑みれば、特別不思議な話では無かった。
——ああ、そうか。
かの魔術師が女を「怖い人」と形容した理由が察せられ、モーゴットは素直に納得する。
確かに、唯人にとっては恐ろしかったことだろう。まして、此処は狭間の地。
信頼できるものなどおらず、安住の地など無かった此処で、単なる親切心だけで行動する存在はさぞ悍ましく、奇妙に映ったことだろう。
『私も、ただ……愛しているのです』
だが、モーゴットには少しだけ。ほんの少しだけ、理解できてしまう。
自分とて愛されたから愛したわけでは無かったのだから。
そうであるならば、彼女が何度も伝えてくる思慕はいったいどんな意図を持っているのだろうか。
モーゴットには分からない。いや、分かりたく無いと思っているのだろうか。
モーゴットにとって変化は忌避すべきものだった。祝福されて生まれてきた筈であるのに、弟と共に地下へ押し込められ繋がれた経験が恐怖を抱かせるのかもしれない。
彼女との距離感は彼にとって心地良いものに入るのだろう。あれほど呪いにも等しい醜い本心を無様に吐露したのだ。
取り繕うのも今更である。故に、明け透け無い会話はモーゴットにとって得難いものだった。
「お前は……・」
「何です?」
話しかければ喜色満面の笑みで見つめてくる。ほのかに頬を紅潮させ、次の言葉は何だろう、と耳をそばだてる姿は誰がどう見ても好意を隠しきれない人間のそれだった。
——こんな、忌み鬼などに。
溜め息を吐く。呆れと少しばかりの困惑。
モーゴットは口を開いた。
「本当に……度し難い馬鹿だな」
「え、急な暴言」
脈絡が無いのはモーゴット様も同じじゃないですか、と今度こそ褪せ人は臍を曲げたのだった。