これはデートではない、多分「どうした、アニエス?難しい顔をして」
「あ、ヴァンさん」
キッチンでお湯を沸かし、来客用のカップを見ながら難しい顔をするアニエスに、声をかけないなどという選択肢はなかった。
「なんか悩みでもあるのか?」
「いえ、事務所の人も増えましたし、来客用だけでは足りないのと、なんだか味気ないと言いますか」
「あー、なるほどな」
確かにいつまでも同じカップを使い回しているのは問題かもしれない。ヴァンも気にせず使っているとはいえ、味気ないと言われればそうだろう。
「ただの私の我儘というかなんでもないんです。気にしないでください、ヴァンさん」
「買いに行くか、アニエス」
「え」
「ん、嫌か?」
「いえ行きたいです!行きましょう!!」
やけに返事良く大きな声で返答するアニエスに少々押されつつも、嬉しそうに笑う彼女に気を良くした。
「よし。そうと来たらとりあえず百貨店だな」
「はい!」
***
「と、来てみたは良いが、どうやお前さんのお眼鏡にかなうものはなかったようだな?」
「すみません……」
「いやいや、こだわりも大事だぜ?それほど真剣に考えてくれてるっつうことだからな」
どこか緊張気味に隣を歩き、そわそわと落ち着かないアニエス。けれども、百貨店に着くなり目をキラキラさせ真剣に皆のカップを見つめる様子に、ヴァンの気の所為だったのだとその真剣な横顔を眺める時間は悪くなかった。
のだが、あまりにも彼女は真剣に考え過ぎたのか、あれも良いこれも良いと唸り結局は違うと落胆していた。
「せっかく誘っていただいたのに申し訳ないです。また今度にしましょう……」
「いや。ここにないっつうなら専門店も悪くねえが、行ってない場所がある」
「……あ」
「なら今度はそこに行くぞ」
最初に誘った時以上に嬉しそうに笑うアニエスに、このまま離れてしまうのが惜しいと、もっとこの笑顔を眺めていたいと思っている自分に笑ってしまいそうだった。
***
景気の良い声が響き渡り、老若男女問わず賑やかなそこはいつ見ても楽しい光景だった。
「わあ、ここはいつも賑やかですね」
「ああ。心地のいい賑やかさとでも言うんだろうな」
9区にあるセントルマルシェへと足を伸ばし、その賑やかさに懐かしさが過ぎる。目を細め、あの日々と同じくらいの年齢の男女を思わず眺めてしまう。
「……ヴァンさん?」
「ん、ああ、悪い。よし、せっかくだ色々見ていくか」
どこか心配そうに覗き込むアニエスに謝罪して歩き出す。宝物の様に仕舞い込んだ開きかけた思い出に蓋をして、立ち並んだ店の品物を眺めていく。
彼女ならば多少の誤魔化しに目を瞑ってくれるだろうという甘い考えを持った自分に自嘲した。諦めたように同じく眺める彼女に安堵して、その横顔を気付かれぬ様に見つめるのだった。
「ヴァンさんヴァンさん、あそこのお店にマグカップが色々並んでますよ」
「お、見てみるか」
アニエスの言葉にやや早足で店の前と辿り着く。使い勝手が良さそうな皿やカトラリーから、色鮮やかなデザインのマグカップなど、目をキラキラさせながら彼女は真剣に見つめていた。
一際目立つ赤色のマグカップを手に取り、彼女はヴァンへと視線を移した。
「アーロンさんみたいです」
「目を引く赤に、金色の……削った場所を塗っているのか、なるほど。決まりだな?」
「はい!髪色と瞳の色みたいです」
店主に一旦預け、他のメンバーのマグカップを眺めていく。細身の鮮やかな水色のカップが目に入り、思わず手に取る。シンプルながらも洗練されたデザインに涼しげな色の似合う彼女のようだと思った。
「リゼットにはこれが良いんじゃないか?」
「わあ、素敵です!リゼットさんにお似合いだと思います。私も見つけたんですが、フェリちゃんにはこれなんてどうでしょうか?」
黄色とオレンジを基調とした丸みの帯びたマグカップを大切そうに両手で抱え、笑顔と共にヴァンを見ていた。
「あ、ああ、良いんじゃないか?」
思わず、カップではなくアニエスの笑顔を見つめてしまった自分になんとも言えない感情を持ちつつ、彼女に悟られぬのよう言葉を返すことしかできなかった。見惚れていたなどと言えるわけがないのだから。
あらためてカップを見やり、彼女のセンスの良さに感心する。飲み口部分から下にかけて色が濃くなり綺麗なグラデーションになっているカップを手に取る。丸みの帯びた輪郭がなんとも愛らしい。
「良かったです。んー、あとは……あ、カトルくんはこれなんていかがでしょうか」
夜を思わせるような静かな藍色に、キラキラと何かが輝いていた。
「星空か。確かにカトルらしいな」
「光に照らすとキラキラしてとても綺麗ですね」
カップと同じくらいに輝く瞳に目を奪われながら、アニエスと共にそのカップを眺める。使う人を想いながら選ぶことがこんなに楽しいとは。彼女がそばにいるからだろうか、などとガラにもない事を思う。確かにあたたかくなった胸にくすぐったさを感じつつも、悪くはないのだとかみしめる。彼女をいつまでも見つめていたいと思ってしまうくらいには。
「ああ、綺麗だな」
“何”が綺麗なんだか。
出かけた言葉を飲み込み、店主の生あたたかい視線に気付かないフリをして端にあった重厚感のある大きめなカップを手に取る。思った通りの手応えと渋めの赤紫色のそれに、これだなと1人納得していまだに妙な視線を向ける店主に差し出すのだった。
「ベルガルドさんにお似合いのがあったんですか?」
「おう。悪い、勝手に決めちまった」
「ヴァンさんの大切な人ですからヴァンさんが選んだ方が良いと思いますし、きっと喜んでくれますね」
大切な人と恥ずかしげも無く言える彼女が羨ましく感じる。その大切な人に、アニエスも入っていると言ったら彼女はどんな反応をするのだろうか。言える訳がないのだから、想像だけにとどめておこうと穏やかに笑う彼女に笑みを向けた。
「そうだと良いな。で、その手に持ってる猫のマグカップはジュディスのか?」
猫のイラストが描かれた普通と言えば普通だが、子どもっぽすぎずそれでいてシンプルすぎないデザインに、大人の女性である彼女への配慮が感じられる。アニエスのことだから、純粋にジュディスに似合うと手に取ったのだろうが。
「はい!見てください、底の裏部分が肉球になっているんです」
「どれどれ」
カップを逆さまにしてとても嬉しそうに楽しそうに、見せてくる。確かに肉球の形になっており、良い遊び心だと感心した。これを最初に見つけた時のアニエスの表情が見られなかったのを少し残念に思う自分に呆れてしまう。彼女の無邪気な表情にそんな繊細なことなど、どうでも良くなってくるのだから不思議だ。
「次はヴァンさんのですね!張り切って選びます!」
「いやいやそこまで張り切らんでも」
「何色がいいでしょうか。落ち着いた黒も素敵ですし、やっぱり青がいいでしょうか。格好いいからなんでもヴァンさんにお似合いですね」
落ち着こう。黒も青も、一般的には格好の良い色だと認識している。だが、その一般的に格好良い色が似合うと言っている時点で、そういうことなのではないだろうか。
ほんの一瞬ながら、心が乱されてしまった自分を呪いたい。きっと他意はない。そう言い聞かせて、黒色のカップを手に取った。
「これでいい」
「そんなあっさり決めてしまっていいんですか?」
「おう。お前さんはどうするんだ?」
「え?」
「なんだ、考えてなかったのか」
パチリと大きな瞳を瞬かせ、恥ずかしそうにアニエスは頬を掻く。
「えっと、ヴァンさんはどれがいいと思いますか?」
まさかこちらに振られるとは思わず、ヴァンは並んだカップを見回した。アニエスの瞳のような空色も悪くはないが、彼女のイメージではない。
目を引く金の髪か、先ほど自分の選ばなかった青も似合うだろう。
「ピンクで良いんじゃないか?お前みたいで可愛いし」
言った後に気付いた。これではまるで、アニエスの事を可愛いと言っているみたいではないかと。実際そうなのだが。
「そ、そうですか。それでは、それにしますね!」
ほんのりと桃色に染まった頬に、焦った様子と上擦った声。年相応の可愛らしい反応に意地悪をしてみたくなるが、いい大人がする事ではないと我慢する。
お金を差し出し、綺麗に包まれていく品々に事務所で使い使われる日が楽しみだとアニエスと顔を見合わせ笑い合った。
***
「なんとか全員分見つかって良かったな。それにしても、腹が減ったなあ」
「皆さん、喜んでくださると良いですね。はい、私もお腹が空いてしまいました。何か食べていきますか?」
噴水広場にキッチンカーがいたのを思い出し、アニエスと共に向かう。
フルーツサンドとブルーソーダを購入し、少し先にある休憩スペースで食べようと他愛も無い会話をしながらゆっくりと歩く。
ふと、アニエスがある店前で立ち止まりある一点を見つめていた。女性が好みそうな可愛らしい物から、アンティーク調の小物まで色々な物が立ち並び足を止めるには十分すぎると納得した。
「何か気になるもんでもあったか?」
「え、あ、可愛いものがたくさんあったのでつい見入ってしまって」
「気に入ったもんがあるなら買ってやろうか、今日の礼だ」
「ありがとうございます。でも大丈夫です」
そう言って早々と歩き出すアニエス。彼女の見つめていた物が気になり、見ていたであろう箇所を見やる。そこには髪飾りがいくつか並んでおり、落ち着いた蒼色のリボンが目に付いた。
「そちらのリボン、先程の女性に良く似合いそうですね」
「ああ、とても」
「可愛らしいお嬢さんでしたが、お客様の恋人ですか?」
「まさか」
そんな風に見られていると先程マグカップを購入した店でも薄々感じてはいたが、実際言葉にされるとむず痒い。
「ではお嬢さんの片想いでしょうか。それともお客様の……」
「それこそまさか、だ。あ、このリボンをください」
「はい、かしこまりました」
丁寧に包まれたリボンを上着に仕舞い、急いでアニエスが待つであろう休憩スペースへと走り出す。「ご武運を」などと店主に揶揄われてしまったが、悪い気はしなかった。
この浮ついたなんともいえぬあたたかで擽ったい気持ちに蓋をして、確かに惹かれてしまっているのだろうと自分に笑うしかなかった。
***
「悪いアニエス、待ったか?」
「いえ。私の方こそ先に行ってしまってすみません。あの後、何か問題でもありましたか?」
「いや、特には」
テーブルに広げられた遅めの昼食を確認しつつ、席へと着く。
「いただきます」と互いに言い合い、頬張る。フルーツの酸味とクリームの優しい甘さ合わさり、絶妙なハーモニーを奏でている。
「美味しいですね」
「ああ。っと、忘れるところだった」
「はい?」
帰り際に渡しても良かったが、妙な雰囲気になっても困るので今渡してしまおうと上着から先程購入した物を取り出す。
「今日はありがとな。楽しかった礼と、日々頑張るバイトへのご褒美って事で」
差し出した包みを遠慮がちに受け取るアニエスに笑ってしまう。
「開けても良いですか?」
「別にいいが、文句は言うなよ?」
アニエスが見ていたものが、これであるという事確証は無い。見ていたであろう箇所にそれがあって、似合うと思ったから購入した。ただそれだけだ。
「これ……」
「合ってるか?」
「私、少ししか見ていないのに」
「まあ、なんだ。その、似合うと思ってな」
「っ、ありがとう、ございます」
大切そうに両手で包み、目を閉じ胸に当てるアニエス。そこまで喜んでくれるとは思わず、妙な気分になる。結局は、今でも後でもこんなむず痒い気持ちになっていたのだろうと、自分の浅はかさにため息が出た。
「喜んでくれて何よりだ。さ、早いとこ食って帰るとしようぜ。カップを並べるところまでが仕事だ」
「はい。私もとても楽しかったです」
嬉しそうにフルーツサンドを食べるアニエスを眺めながら、先程よりも甘く美味しく感じるそれに満足した。
後日、そのリボンに合わせた服装でアニエスがバイトに来る事などヴァンが知るはずもなかった。