あとすこし何度時計を確認しただろう。
刻み行く針の旋律が、チクタクと耳を責め立てる。不安と期待で胸が締め付けられ、規則的に奏でられる音に祈りを捧げることしかできない。
一番は彼が良い。
「ヴァンさん……」
鳴らないXiphaを片手に、膝を抱えて時計を睨み付ける。
長針が頂点をまもなく指し、0時を迎える。四角い空には月が登り、今日という日が黎(くら)く終わりを告げようとしている。
自分から連絡をすれば良いとは分かっている。けれども、彼からを期待してしまうのは我儘だろうか。
もう寝よう。そんな風に思った時だった。
突然Xiphaが鳴りだし、期待と不安が押し寄せる。
彼でなかったらと、恐る恐る確認する。
『よ、アニエス。悪いな、こんな時間に』
待ち望んだ人の声が聞こえ、不安が嘘のように消え去っていった。
「こんばんは、ヴァンさん。もうこないものだと思っていました」
『何、こんな時間まで起きている悪い子には説教だと思ってな』
「私が悪い子になるのは貴方の前くらいですよ」
『俺の所為ってか。っと、アニエス窓から外を見れるか?』
ヴァンの指示通り、窓側へと歩み外を眺める。相変わらず月明かりが優しく降り注ぎ、暗がりを照らしていた。
「今日も月が綺麗ですね」
『ああ、綺麗だな。そのまま下を見てくれないか』
「はい?……え?」
『やっと目が合ったな』
寮の前の通りへと視線を移すと、会いたくて愛しくて仕方がない人が下から見上げていた。暗がりでも分かる優しい笑みを携えて、部屋の窓をアニエスを見つめている。
「うそ……」
『18歳の誕生日おめでとう、アニエス』
ヴァンの言葉に思わず時計を確認する。
針が0時を指している。不安と期待でたまらなかった今日が昨日に、待ち望んだ明日が今日になっている。
「なんで」
『どうしても一番にお前に伝えたいのと会いたくて』
「ヴァンさんもなんですね」
『我儘になっちまったな、お互い』
一番はヴァンが良かったアニエスと、一番になりたかった彼と、お互いの我儘とも言えない可愛らしい願いが一致し笑ってしまう。
「ふふ、お揃いみたいで嬉しいです」
『お揃い、か』
「お嫌ですか?」
『いいや、悪くない』
満足そうに微笑み、アニエスを見つめ続けるヴァン。窓に手を当て、そんな彼を見つめ返すことしか出来ない。
永遠に見つめ合っていたいと思えるほどのもどかしい距離にため息が出る。陽が昇り、朝が来れば今日も学校なのだと平日が恨めしい。今すぐにでも駆け出して、彼の胸へと飛び込みたい。
「体調は如何ですか?いくらヴァンさんでもこんな時間まで起きているのは……」
『特に眠くもねえし、お前ともうちょっと話したいから平気だ』
「っ、よ、良かったです」
『……どうかしたか?』
「え?」
『急に気遣われりゃ、気になんだろ』
「いえその、ただなんというか、やっとだなって」
“やっと”
その言葉で何が言いたいのかヴァンはなんとなく察したらしい。
だが、そんな聡い彼もアニエスが胸の奥にしまった我儘には気付かなかったようだ。
『色んな意味でやっと、だな。ちゃんと覚えてるぜ』
「やっと18歳で、やっと8歳差に戻れて、ほんとうにやっとなんです」
『分かってる。きちんと全部分かってる』
窓へと寄り掛かり、ただただヴァンを見つめ続ける。頬に当たる冷たい窓の感触が、心地良くも寂しくも感じた。
「早く、卒業したいな……」
ぽつりと、思わず声に出てしまった言葉にハッとする。あまりにも酷く身勝手な自分本位な言葉に、恥ずかしさと情けなさが同時に押し寄せてくる。
友人たちにも父親にも、ヴァンにも申し訳が立たない。
ただ彼と共にありたい触れたい、たったそれだけのために出てしまったある意味では本音に、浅ましさしかない。
『アニエス』
「違うんです。違わないですけど、違うんです……」
『分かってる、分かってるからそんな顔すんな。今は抱き締めてやれねぇんだ』
「っ……」
窓の外のヴァンはどこか困ったような表情をしていた。呆れられてしまったかもしれない。優しい彼だから、そんな優しい言葉をくれるのだ。
『こら、良くねぇこと考えてんだろ』
「そんなことは……」
『だがまあ、可愛い恋人に不安を与えちまった俺が悪い』
「違います。私が子どもなだけなんです」
『違う。もう子どもに見えねぇんだ。分かってんだよ、本当は』
「ヴァンさん……?」
『俺に意気地が無いだけなんだ。正直言えば、早く卒業しねぇかななんて思っちまったりして自分で自分がどうしようもなくなっちまう』
今日はいったいなんの日なのだろうか。
自分の誕生日というだけで、こんなにもヴァンから貰ってしまっても良いのだろうか。
先程まで陰っていた心が晴れていくのが分かる。
「ぁ……っ、ヴァンさん……」
『まあなんだ、お前だけじゃないってことさ。分かんだろ?』
「……はい」
『いい子だ。よし、そろそろ寝た方がいいな。名残惜しいが、“子ども”は寝る時間だ』
「そう、ですね」
もう夜中の一時をまわっている。
そろそろ就寝しなければ、学業に響くだろう。子どもが眠る時間など、とうの昔に過ぎているのだ。
『おやすみアニエス。学校が終わったら直ぐに制服から着替えて……そうだな、アンダルシアにでもいると良い。迎えに行く』
手を軽く振ってヴァンは去っていく。通話が切られてもXiphaを握り締め、姿が見えなくなるまでアニエスはただ愛おしいその背中を見つめ続ける。
「おやすみなさいヴァンさん、大好きです」
見えなくなった恋人を想いながら、アニエスは窓から離れベッドへと腰掛ける。高鳴ったままの胸に手を当てベッドへと倒れる。いい夢が見れそうだと、ゆっくりと目を閉じた。
子どもでいられる時間を大切にしろよ。
一切の猶予も容赦も無くお前を掻っ攫うその日まで大人でいると決めた俺を、鈍らせてくれるな。
“子ども”じゃないお前が待ち遠しいよ、アニエス。
夜の街に、男の独り言が響いた。