短い雑土 夕方というには少々遅く、夜というには少し早い。そんな時刻だった。
山田伝蔵こと伝子が、土井半助こと半子に紅を差そうと筆を取った。目を閉じた半子の唇に、筆が乗る直前。その手が止まる。
「女人の化粧を覗くなんて、感心できませんわね」
それは、「伝子」の声としては鋭すぎるものだった。目を閉じていた土井が、何事かと山田を見る。すると、
「申し訳ない。声をお掛けするタイミングを逃してしまいました」
低い声と共に、暗闇から人影が降って来た。
「ざ、雑渡さん!?」
土井が驚き、山田はため息をついた。
「まったくもう。天井裏から何のご用?」
「学園長が、山田殿に来てもらいたいと。言伝を頼まれました」
「ちゃんとした用件なら、ちゃんと廊下から来て下さいな」
山田は土井に筆を渡して、立ち上がる。
「では私は行ってきますわ、半子さん。曲者さんには、早めにお引き取り頂くように」
「はい」
土井が素直に頷く。目の前でそんなやりとりを見せておきながら、山田は雑渡に軽く一礼して出て行った。
「という訳ですので、お引き取り下さい」
座ったままの土井が、雑渡を見上げる。
「つれない人たちだ」
残念そうに言いながらも、雑渡は立ち去る気配がない。
「それで、お二人が揃って女人になって、どちらへ行かれるのです?」
「雑渡さんには関わりのない話ですよ」
「冷たい事を言う。昼日中ならともかく、夜に着飾った女装でどこへ行くのか、気になるのが普通でしょう」
忍務ならば土井は口を割らないだろう。が、恐らくそこまでの話ではない。雑渡にここへ行くよう頼んだのは、学園長なのだから。
「聞いたら、帰って頂けます?」
「ええ」
では、と土井は話し出した。
学園長の知己がやっている料理屋で、酒宴が開かれるという。それ自体は良い。参加者も、特に問題がない者ばかりだ。
酒が入らなければ、という条件付きで。
「酒乱の集まりですか」
「結果的に、そうなってしまっているようです。で、酒が深まると周りに……特に若い女人に絡むので、皆さん困り果てているそうで。店主が学園長に泣きついてきたようです」
「……土井殿たちが、その酒宴で接待をする、という事ですか?」
「少し違いますね。酒が深くなった頃に、女性たちと私たちが入れ替わるのです」
似たようなものだ。
「山田殿と土井殿が、その役目を?」
「ええ」
「他には誰が?」
「……まあ、女性を除いた教師陣の何人か、と言っておきましょうか」
男性教師陣が女装して、若い娘たちと入れ替わるという訳だ。
「客人たちの酔いが覚めるのでは」
「それはそれで良いでしょう。余興ですよ」
酔いどれたちにお灸を据えるという事か。想像すると強烈すぎて、逆に見てみたい気持ちが湧いてくる。
「覗きに行ってもいい?」
「いい訳ないでしょう。まったく、他人事だと思って」
軽く睨む土井の側に、雑渡はしゃがみ込んだ。そして、彼の手にある紅がついたままの筆を取る。
「雑渡さん?」
怪訝な顔の土井に、雑渡は笑いかけた。
「私に紅を引かせてもらえない?」
「は?」
土井はあからさまに嫌な顔をした。
「そんなに嫌ですか」
「嫌ですよ」
「こう見えても器用ですよ」
「でしょうね。でも、お断りします」
「どうして」
土井はじろりと、雑渡を睨む。どこか、拗ねたような顔で。
「あなた好みの化粧をした私を、他の男の元へ送るのですか?」
「うん……それは嫌だね」
雑渡は筆をくるりと回して、土井へ渡す。
筆を受け取った土井は、そのまま大雑把に紅を引いた。
「もっと丁寧にやらないと、伝子さんに怒られるのでは?」
「どうせ怒られますから、いいんです」
「女装は不得手ですか」
土井は変装が得意だ。姿形を変える方向ではなく、その場に馴染むのが上手い。であるのに、女装だけは例外と見える。
「……まあ、そうですね」
含みのある言い方だ。しかし、今はそこを追求する時間はなさそうだ。
「半子さん、もう行きますよ」
「はーい」
返事をしながら、土井が立ち上がる。
「雑渡さんも、もうお帰りですよね」
「ええ。送りましょうか?」
「やめておいた方がいいかと。下手をしたら、雑渡さんも女装に巻き込まれますよ」
「それはそれで、楽しい事になりそうだ」
全員の酔いを覚ませる自信がある、と言えば、土井は呆れた顔をする。
「物好きな。そもそも、雑渡さんは女装の経験はあるんですか?」
「前に一度、殿に命じられて。しかし、それきりですな。残念ながら、お気に召さなかったらしい。今度、お見せしましょうか」
「結構です」
土井はきっぱりと断る。残念だなと軽口で返そうとしたが、土井が言葉を続ける。
「私は今の、普段のあなたが好きなので」
紅で赤く染まった唇が、柔らかく、艶めかしく弧を描く。その微笑みが意図してできれば、女装が下手などと言われないだろうに。そう思ったが、もちろん、口には出さなかった。
「ちょっと、半子さーん?」
なかなか出てこない土井に焦れたのか、山田の声が飛んで来る。
「すみません、曲者の方がなかなかお帰りになってくれないんです!」
土井の言葉に、雑渡は「やれやれ」と立ち上がる。
「では曲者は退散致します」
「ええ。それでは」
立ち去る土井の姿は、どうにか女に見えなくもない、というものだ。あれはあれで興味深い。
しかし雑渡としては、土井と同じ気持ちだ。
機会があれば、伝えるとしよう。
連れ立って歩く二人の背中を見送りながら、雑渡は小さく微笑んだ。
私も普段のあなたが好きだよ。