短い雑土の練習03(現パロ) 日が沈んでも、ちっとも涼しくならない。そんな文句を言いたくなる熱帯夜。
「綺麗ですね」
呟く土井の目の先では、花火が次々と咲いては消えていく。
それなりの高層マンションのベランダから見える花火は、絶景というには少し物足りない。しかし、人混みを避けてのんびりと観られる方が良い、という人間には充分だ。この部屋の持ち主の雑渡は、まさにそちらだった。
雑渡が「前世の記憶」を思い出し始めたのは、三十代の半ばも過ぎた頃だった。子供なら夢で片付け、十代ならばそういう年頃で済ませる事もできただろうが、そろそろ人生も折り返しが見えてくるかなという年齢だ。日々を仕事で忙殺されていた雑渡は、最初それを「前世」だと認識していなかった。
夢か、もしくは記憶のバグだ。昔見たテレビか映画の記憶が、変な形で現れたのだろう。そう片付けていた。
が、現実感を持った記憶が積み重なっていくと、無視もしきれない。
それでも前世を信じきれなかったのは、「思い出す」記憶が、今の自分の人生と何となく重なったからだ。雑渡の送った人生を劇的にすれば、前世の記憶とそれなりに重なる。
例えば、雑渡は何年か前に大きな火傷を負った。だが現代医療のおかげで、身体の損傷は「前世」ほどではなく、火傷痕もだいぶマシだ。
職場では困った上司に振り回されながら、頼れる部下たちを振り回している。
そうやって似た所を見つけるたびに、雑渡は混乱していった。無視はできず、といって答えもない悩みは精神を疲弊させる。いよいよ頭の検査に行った方が良いか、と思い始めた頃。
記憶の中にいる人物と、現実で出会ったのだ。それはもう、何の前触れもない、突然の出会いだった。
「花火は好き?」
雑渡は花火を見ていない。土井の横顔ばかり見ている。気付いているだろうに、いや気付いているからこそ、土井はこちらを向かない。
「好きですよ。火薬の美しい姿ですから」
「今も火薬が好きなのか」
「好き……と言ってしまうと、今の時代、語弊が生まれそうですね」
土井は、ようやく雑渡を見る。
「せっかくの花火なのに、見ないんですか?」
「見慣れた花火より、あなたの顔の方が面白い」
「面白いは褒め言葉ではないですよ」
「では言い換えよう。あなたがここにいる事が感慨深くて、つい見てしまう」
土井の顔が気まずそうなものに変わる。
「何しろ、再会した時は忙しなかったからね」
「……またその話ですか」
うんざりした土井に、雑渡が小さく笑う。
「うん、その話」
数ヶ月前。そろそろ夏の気配が見えてきた頃。
特急電車のホームで、雑渡は部下たちと一緒に、大事な顧客の見送りをしていた。
ふと、雑渡の視界に、ホームの向こうから急ぎ足で移動する若い男が入る。大きな荷物を抱えて、ほとんど走る様な速度だ。
雑渡は、男が年配の顧客にぶつからないか、気を付けて見ていた。男は、ホームの端で固まって挨拶を交わしていた雑渡たちに気付くと、避けるために目を向けた。
目線が合って、すぐに雑渡は彼を「知っている」と感じた。見覚えのない顔なのに、よく知っている。「前世の記憶」の中で、自分が一番最後に愛した男。
「あっ……」
と声を出したのは、同時だった。
互いに、互いを認識した。その瞬間、かちりと最後のピースが嵌ったような感覚になった。ぼんやりとした昔の記憶が、紛れもなく自分のものであると、実感を持って理解した。
若い男も、雑渡に目を奪われて、立ち止まりかける。しかし、すぐに急いでいる事を思い出したようで、足は止まらなかった。
このままでは、すれ違っただけで終わってしまう。と思った瞬間、雑渡は動いていた。
懐から自分の名刺を一枚取り、「これ」と男に押し付けた。男は驚きながらもそれを受け取って、
「あ、ありがとうございます!」
と一言だけ残し、足早に去って行った。
驚く部下と顧客には、音信不通の知り合いだった、と作り話をして誤魔化した。
彼の名前は、そのすぐ後に思い出した。
土井半助。
恋人だったよな、と浮かんでからは、加速度的な速さで色々と蘇った。
彼について何かを思い出すたびに、雑渡は後悔した。名刺を渡すだけでは足りなかった。できればこちらからコンタクトの取れる連絡先を聞いておくべきだった。せめて名前だけでも聞いておけば、調べる事もできたのに。
彼は土井半助であり、ホームで出会った男が雑渡昆奈門だと気付いた。そこは間違いない。
だが、気付いたからこそ連絡して来ない可能性がある。もしも土井に今、パートナーがいるのなら、遠い前世の恋人など面倒事でしかないだろう。
それでも一縷の望みは捨てられず、連絡を待つと同時に、電車のホームに座り込む日々が始まった。
時折、土井とすれ違ったホームに行っては、人混みを眺める。二週間ほど、そんな事をしていた。会える可能性は少ないと思いながらも、何かせずにはいられなかった。
その駅は通勤路の途中だったから、何事もなかったら、習慣になってしまったかもしれない。
「あの……」
躊躇いがちな声が降ってきたのは、二度目の金曜日の夜。すれ違った時と同じ、大きな荷物を持った若い男が、雑渡の前に立っていた。
自然と笑みが浮かんだ。
「……連絡をくれれば良かったのに、もう名刺を無くした?」
雑渡の言葉に、男は決まり悪そうな顔で首を振る。そして、確かめるように言った。
「雑渡さん……なんですよね?」
「当たり」
「私の名前は、わかりますか?」
「土井半助」
雑渡の答えに、彼は泣きそうな顔で笑った。
後から聞いた話によれば、土井はあの時、長期出張に出発する直前だった。電車に、引いては飛行機の搭乗時間に遅れそうだったと聞けば、止まれなかった事情も理解できる。
名刺を渡された後、土井は悩んでいたという。
連絡をすべきか否か。
名刺の先へ連絡して踏み出すか、いっそ名刺を捨てて忘れてしまうか。どちらも踏ん切りがつかず、出張から戻った土井は、雑渡とすれ違った場所へ行った。
記憶を取り戻したばかりで、まだ向き合いきれていなかった。名刺ごと何かの夢か間違いで処理した方が、平和に生きられる気がした。
というのが、前回のデートで土井を酔わせて吐かせた本音だ。
「こっち意見も聞かずに忘れようとするなんて、薄情すぎる。私はずっと待っていたのに」
「だって、会っていいか、分からなかったんですよ。もし今の人生で伴侶がいたら、私はお邪魔でしょう」
この話になるたびに、土井はいつも同じ言い訳をする。
いつも、といっても数回だ。そう何度も会っている訳ではない。まだ片手の数だ。土井が雑渡の家に来たのも、今日が初めてだった。
「駄目なら、名刺なんて渡さない」
「う……そうですけど……」
「名刺を渡すより捕まえておけば良かったと、何度も後悔した」
「すみませんってば。ああもう、これあと何回言われるんですか!?」
「ずっと言う。一生言うかも」
「忘れて下さいよ〜」
情けない声を上げる土井は面白い。
一生、という部分をスルーされてしまったのは残念だが。
話を聞けば、土井の記憶が戻ってきたのは、雑渡よりも後だった。雑渡と同じく最初は夢だと思っており、にしては現実感がありすぎて、悩んでいた。
そんな折に、夢(であると希望的に思っていた)の中の恋人が、急に現実に現れた。その混乱を、土井はまだ引きずっている様に見える。
お互いに独身で、恋人がいないのは確認済みだ。大きな障害がないのに踏み止まってしまうのは、前世の別れが良くないものだったせいか。
先に進みたいと思っているのは、自分だけなのだろうか。そうではないと思いたい。彼は今、ここに来たのだから。
「ねえ」
「何ですか」
「キスしてみない?」
「はぃ?」
再会して数ヶ月。まだ探り探りのデートしかしていない。当然、恋人同士の触れ合いもしていない。
再会した日。泣きそうになった土井を、雑渡は思わず抱き締めた。だが、明らかに固く強張った身体に、彼にとって自分はまだ他人なのだと実感した。それから、肉体的な接触はしていない。
あれから何度か会ううちに、土井の態度も軟化してきた。そろそろ踏み込んでもいいだろう。
「な、何でですか」
「だって、付き合うなら身体のな相性も大切でしょう」
「そりゃそうですけど……え、雑渡さん、今回も私と付き合ってくれるんですか?」
驚く土井に、雑渡は肩を落とす。
「そのつもりで呼んだんだけど、やっぱり分かってなかった?」
雑渡が今までデートだと思っていたものが、単なる食事会と認識されていた可能性が出てきた。
「えーと……もしかしたら、とは思っていましたけど」
「自信はなかったか」
土井は素直に頷いた。
「だって、今の私は、あの頃とまるで一緒ではありませんから」
「それは私も同じだよ」
「お互い、また好きになれるか分からないですし……付き合っても、良い結末にはならないかもしれません」
あの頃の様に。
言葉にはしなかったが、土井はそう言いたいのだろう。雑渡は、土井に一歩寄った。
「それでも……だからこそ、もう一度始めたい」
「…………」
「また私と付き合うなんて御免だというなら、無理強いはしないよ」
「いえ……。それは、ないです」
土井が、まっすぐに雑渡を見る。きらきらした大きな目に、やっぱり好きだなと自然な気持ちが湧いてきた。
「そうか。良かった」
「ただ……今回も引き続き、私は鈍いですよ」
自信なさげな言葉だ。
「ああ。今、思い知ったよ」
「それでもいいんですね?」
「いいよ」
「聞きましたからね」
今度は土井が、雑渡に近付く。
寄り添う様に身を寄せて、軽く、触れるだけのキスをする。
「どう?」
至近距離の土井の顔を見れば、
「聞かなくても、わかるでしょう」
薄く微笑み、雑渡の目を見上げる。スイッチが入ると、艶めいた仕草を見せるのは変わらない。昔から。
「良かった」
感情のまま、土井の身体を抱き締める。土井は素直に体重を預けてきた。その事に安堵して、思わず息を吐く。
今日はもうこれで満足だ。
柄にもなく、そう思った時。耳元で土井が囁いた。
「続きは、さすがに中でしますよね?」
雑渡の腕に手を乗せ、ただでさえ密着している体を更に寄せる。絡み付くように。
ぐらりと揺れた理性を何とか立て直して、雑渡は微笑んだ。
「まだ花火は続くけど、もう良い?」
「ええ、もう充分です」
また花火の音がする。視界の端で、赤い光が散っている。
そのどちらも無視して、雑渡は土井の手を引いた。ベランダから室内に戻れば、更に音は遠くなる。
この衝動に身を任せる事に、迷いがない訳ではない。
けれど、互いを無視できなかった。ならば、進むしかないだろう。どんな風に終わるとしても、前よりはましだと信じて。
背中に回された土井の手に、力が込められる。縋り付くように。
安心させるように土井の額へ口付けながら、雑渡は安心した。
彼も、同じ不安を抱えている。
腹を割って話そう。あの頃よりも、自分たちを隔てる壁は低いはずだから。前世と似ているようで、少し平和な人生を送っているのだから。
「後悔はしたくない」
思わず漏れた呟きを、土井が拾い上げる。彼は少し驚いたような顔をしたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「私もです」
雑渡も微笑み返す。
同じだ。
ならばきっと、今度は大丈夫だろう。
土井の身体を強く抱きしめながら、雑渡はそう思った。願うように。