言葉を求める部屋ー雑渡編 恋などするのは、一体どれくらいぶりだろうか。
何よりも、己の心の中にそういうものが育つ土壌がまだあった事に驚いた。
自分は、恋をしている。
諸々の衝撃から立ち直った雑渡は、己の恋を相手を思い浮かべて、まず思った。
相手が悪いね。
忍術学園の教師といえば、それだけでどこの勢力も欲しがる。何しろ、あの大川平次渦正に認められた忍者なのだ。実力はもちろん、この忍者不足の時代。「育てる」力を持った教師は、尚のこと欲しがられる。
他勢力に比べれば頭数の揃ったタソガレドキも、例外ではない。
そして雑渡が声をかけたのが、土井半助だった。
彼については、尊奈門を通じて情報が得やすい。雑渡がまず目を向けたのも、その点が大きい。そして年若い分、与しやすい印象がある。
土井にとっては、よくある勧誘のひとつだったのだろう。慣れた様子で、卒なく断ってきた。
驚きはしなかった。断られるだろうと、予想はしていた。
土井は学園から、生徒たちから離れる気はないだろう。
そして、恐らくではあるが、土井は雑渡に良い印象を持っていない。
学園に入り込む雑渡への目線は、常に警戒が潜んでいた。表向きは和やかに会話をしても、目の奥には不信の光がある。
意外だったのは、勧誘に対する彼の反応だった。土井はすげなく雑渡の誘いを断った。だが、
「認めて頂けたのは嬉しいですよ」
と、笑みを見せた。いつもの、生徒たちに見せるのとは少し違う、ふわりと花が舞うような笑みだった。良い歳をした男に対する言葉ではないが、雑渡の目にはそう映った。
目がおかしくなったかな。
そう思った雑渡は、タソガレドキに帰ると、その足で視力検査を受けに行った。結果は異常なしだ。
それから何度も、不意に、意味もなくその時の事を思い出した。
何だろうなと思いつつ、胸の中に浮かぶ嫌な予感からは目を逸らし続けた。
もちろん土井の笑顔など一瞬の、その場限りのものだった。次に学園で会った土井は、すっかり元の警戒心の強い教師に戻っていた。
残念さと同時に、安心を感じた。
スカウトの話はそこで終わったが、雑渡はそれから密かに土井を気にするようになっていた。
感情表現の激しい教師であり、尊奈門を余裕を持ってあしらえる忍びであり、時に冷たい殺意すら見せる軍師になる。
どの面に惹かれたのか、むしろ多面な顔に惹かれたのか。自分でもよくわからない。何しろ無意識のうちに、想いが育ってしまったので。
強いて言うならば、周りが悪かった。
「土井半助のやつ、私を舐めています! あいつときたら、この間も……!」
と文句という体で土井の近況報告を延々と聞かせてくる尊奈門や、
「土井先生ってば、今日もまた食堂のおばちゃんに怒られてて〜」
と無邪気に「大好きな土井先生」の話をする保健委員たち。彼らから聞く話から土井を摂取して、想いに水をやっていたようなものだ。
土井にしてみれば、理不尽だろう。
だが、悪いとは思わない。想いがあるのは確かだが、何もするつもりがないからだ。
忍術学園の教師というのは、誰も彼もが厄介だ。土井も例外ではない。浮かれて軽々に手を出せば、火傷をするのはこちらだろう。
何しろ教師の誰かに手を出せば、別の誰かに反撃されるのは必至。対象の一人を相手にすれば良い訳ではない。
何よりも雑渡自身、このような気持ちが久々すぎた。
色事に疎かった訳ではない。清く生きていた訳でもない。けれど、誰かを見るだけで心が浮き立つなど、一体いつぶりだろうか。掘り起こすのも億劫なほど昔に覚えたきりの感情を、今更表に出す気にはなれない。
そして肝心の土井は、雑渡に興味がない。「警戒」という意味での興味は引けているが、時折顔を合わせても、上滑りする世間話しかできない。
彼の表情を多少なりとも崩せるのは、尊奈門について話題になった時くらいか。
「どうにかなりませんか」
困って眉を下げる彼が可愛らしくて、笑ってしまった。当然土井は不機嫌になり、それから更に会話が減った。下手を打った、と後悔したものだ。
そこからまた巻き返して、世間話くらいはできるようになった頃。
雑渡は二度目のスカウトをした。
当然、断られた。
二度目のスカウトは、断られるのが前提だった。
今の土井に、忍術学園を去る理由はない。
けれど今は、いつどこで誰に何があるか分からない時代だ。土井や、忍術学園そのものも例外はない。否応なしに外に出なければならなくなった時、雑渡の誘いが頭に浮かべば、それでいい。
これは重症かもしれないと、その時に思った。
もしも彼が誰かと結ばれるのであれば、それは雑渡の恋心が枯れた後であって欲しい。
そんな身勝手な事を思いながらも、土井の周りに浮いた話の気配はない。
土井は若いのだから、そのうち不意にそんな話が出るかもしれない。覚悟だけはしつつ、雑渡は日々を送っていた。
タソガレドキ忍軍は忙しい。その組頭となれば、更に忙しい。自国の内部で問題が起これば、尚更だ。
何年か前に恭順した一派に怪しい動きがある、と雑渡が黄昏甚兵衛に報告した日から、忍軍の休みは消えた。内側の敵への対応は、外の敵を相手にするよりも神経を使う。他所へ寝返る可能性のある一派を調べる任務は、かなり面倒な任務だった。
「お疲れの様ですね」
報告を終えた山本にそう言われても、「おまえの方が疲れているように見えるが」と思ってしまう。口には出さないが。
「今は仕方ない。ああ、ただ……」
浮かんだのは、しばらく足を向けていない忍術学園だった。
「どうかされましたか」
「いや……しばらく忍術学園に顔を出せていないと思って」
「駄目ですよ」
「何も言ってないんだけど」
「せめてもう少し落ち着くまでは、待って下さい」
「わかっている」
山本が雑渡の外出を止める理由は簡単で、とにかく忙しいのだ。内部を調べるには根回しが必要で、組頭である雑渡にはその手の仕事が山ほど回ってくる。判断を求められる報告も多い。
ほとんど忍軍の自室に詰めて、次から次へと湧いてくる報告に、頭を働かせ続けている。
「あんまりご無沙汰したら、あの子たちに顔を忘れられそうで不安だ」
「こんな怪しいおじさん、そうそう忘れられやしませんよ」
疲れた部下には遠慮がない。
「自分の方がおじさんの癖に」
「怪しさでは組頭に負けます。それでは、私は戻りますので」
雑渡の方は大丈夫だと踏んだのか、山本は忙しなく去って行った。
一人残された雑渡は、手元の報告書を読み終わると、ふうと息を吐いた。
今の雑渡の仕事は、主に報告を待つ事だ。
しかし、座ってばかりでは身体が鈍る。息抜きに、散歩する時間くらいはあるだろう。部下たちの目の届く範囲にいれば、そう文句も言われまい。
そう思って、立ち上がろうとした。床に目線を落として、立ち上がって、顔を上げる。
その目に映ったのは、見知らぬ場所だった。
「は?」
状況がわからず、思わず声が漏れる。
そしてすぐ目の前には、驚いた顔をした見知った男がいる。
「土井殿?」
「……雑渡さん?」
雑渡は当然、何に巻き込まれたのか、さっぱり分かっていない。目の前にいたのが土井である事が、幸運なのか不運なのか、それさえも。
そこは、得体の知れない部屋だった。
理屈の分からない頑丈な部屋も、唯一の手かがりとなるふざけた言葉の掛け軸も、夢かと思うには十分過ぎた。
雑渡はそのおかしな部屋で、ふたつの事を経験した。
一つ目は、失恋だ。
想い人の想う人を知ってしまった時の衝撃といったら、まあひどかった。
そもそも得体の知れない場所に二人きりで、嬉しさよりも先に気まずさを感じてしまう関係性だ。
おかしな部屋だった。およそ人が作ったとは思えない。人が過ごす場所には必ずあるはずの、あらゆる痕跡が一つもない。
雑渡の力でもびくともしない戸など、なかなか作れるものではないだろう。
その辺りから、夢ではないかと疑い始めた。もしくは疲れた頭が見せた、白昼夢か。
常に現実の可能性は頭に残しつつも、雑渡の感覚は夢の方向に傾いていった。夢であればこの失恋がなかった事になるから、という気持ちもそれを後押しした。
山盛りの仕事と、頭が痺れるほどの疲労を抱えて、更に失恋を受け止めるのは、さすがにしんどい。
そのうちに、ひとつの可能性が浮かんだ。それはだいぶ楽観的で、都合の良い可能性だった。
常の雑渡ならば、まさかと一笑して終わらせただろう。
だが今は、普通ではない。
白昼夢を疑うような状態だ。
もしも、これが現実でないなら。都合の良い事も、起こるのではないか。
例えば、雑渡と同じ思いを、土井も抱えているだとか。
雑渡を大胆にさせたのは、今の状況だった。夢ならば、どれだけ自分に都合よくあっても良いだろう。
この一時だけでも、彼を手に入れたい。
じわじわと距離を詰めて、その手を取った。土井は、拒まなかった。
雑渡を好きだと、はっきり言った。
それが、二つ目。
だがやはり、夢は夢だ。
手に入れたと思った瞬間に、すべてが霧散した。
眩しさに少し長い瞬きをした。
そして次に目を開けると、そこには誰もいなかった。
「……は?」
目に入ってくるのは、見知った壁に床に天井。いつも使っている机には、報告書が山になっている。
自分以外は誰もいない自室に、雑渡は立っていた。混乱したまま。
「組頭。今よろしいでしょうか」
押都の声だ。
状況を整理しきれないまま、雑渡は承知の返答をする。
入ってきた押都は、雑渡の表情を見て、首を傾げた。
「どうかされましたか?」
「いや……」
雑渡は周りを見回して、首を捻っている。
「私、寝てたのかな?」
疑問を投げられても、今来たばかりの押都には答えようがない。ただ雑渡の様子が普段と違うのは確かだった。
「お疲れですか」
ここ最近の仕事量から、当然推察される事態だ。
雑渡は唸った。
「そうだけど、そうではなく……夢、か?」
「夢? 居眠りですか?」
「いや、寝ては……いないと思うんだが……?」
考え込む雑渡に、押都は言った。
「お疲れのようですね。今日はもうお休み下さい」
「疲れてはいるが、そうじゃなくて」
「休んで下さい」
「いやちょっと待て」
押し問答をしていると、また人が増えた。
「組頭、先程の報告に追加が……ん?」
戻ってきた山本は、雑渡と押都の押し問答する姿を見て、「何事だ?」という顔で二人を見る。
「陣内。ちょうど良かった、今……」
「組頭がめちゃくちゃにお疲れだ」
山本は雑渡を無視して、押都の顔を見てる。そして何故だか、「わかった」と頷いた。面越しの押都の顔に、一体何を感じたのか。
「では組頭、休んで下さい」
押都が雑渡の肩を掴む。
「私の話も聞いて欲しいんだけど」
「はいはい。休んだ後で聞きますから」
山本が反対側の肩を掴む。これはダメだ。二人揃って雑渡の言うことを聞かない体勢に入った。
「いや、まだ大丈夫。そこまで疲れていないから」
やる事だってまだ山積みだ。
段々と、思考が現実に戻ってきた。
そうなると、やはり先ほどの事は、夢に思えてくる。願望の滲み出た夢。触れて抱き締めた感触が鮮明に残る夢。
夢ならば、いつまでも呆けている訳にはいかない。
雑渡は本格的に抵抗しようとしたが、
「あまり聞き分けがないと、尊奈門を呼びますよ」
山本が先に雑渡を黙らせた。こんな所に尊奈門が来たら最後、休むまで絶対に雑渡から離れないだろう。
「わかったわかった」
雑渡は抵抗を諦めた。
逆らう方が面倒だ。一度休んで、思考力を取り戻すのも悪くはないだろう。
何よりも今、仕事に集中できるか自信がない。
「では、休ませてもらう。何かあったら呼ぶように」
「はっ」
諦めた雑渡に、部下たちがようやく手を離す。ご丁寧に、報告書を始めとした書類をすべて手にして、雑渡の部屋を出る。
しばらくは任せておいても、問題はないか。
雑渡はそう思うことにした。思考は戻ってきつつある。だが夢の余韻は心の中に残って、なかなか消えない。
夢であるはずの場所で見た土井の顔が、言葉が、思考を邪魔している。
文机の前に座る。おかしな部屋に飛ばされる直前、そうしていたように。
雑渡は自分の掌を見る。
「……手を離さなければ、一緒に戻って来れたのか?」
小さく呟いて、拳を握る。もう土井の手の感覚は、残っていなかった。
夢と現実は、区別がつくものだ。夢の中でどれほど真に思えても、目を覚まして考えれば、荒唐無稽さに苦笑いが浮かぶものだ。
目が覚めても消えない夢は、ひとつだけ。これまでに体験した記憶の、再現だけ。他の者がどうかは知らないが、雑渡にとってはそうだった。
さてそれでは、土井との夢は何なのだろう。
雑渡は土井に触れた事はない。想いを告げた事も、告げられた事もない。あれほど長く話した事さえ初めてだ。
願望で固められた夢、で片付けるには、違和感がある。
夢から二日経ち三日経ち十日が経っても、何も薄れない。
であるから、雑渡は確かめたかった。
夢なら夢で納得しなければ、いつまで経っても心に引っかかって離れない。土井に会えば、問い掛ければ、すぐに決着は付く。
だが状況的には、そうもいかない。
忙しさがピークを迎えている状態で、「夢が夢であるか確認したい」などという理由で、抜ける事はできない。心の片隅に問題を置いたまま、雑渡はひたすら事の処理に当たっていた。
黄昏甚兵衛は、己から去っていく者を静かに見送るような性質ではない。悩む人でもない。確実な情報さえ手元に届けば、甚兵衛の処分は迅速だった。
そうして、徐々に領内は落ち着いていった。戦の前とは異なる重苦しい緊迫感は薄れて、忍者隊も少しずつ日常業務に戻っていく。
まだ事後処理は山のようにあるものの、どうにか落とし所は見えて来た。
そうして思考に余裕が戻ると、雑渡の中には、また夢が蘇った。
忙しさに紛れて消えていくなら、それまでの事。そう思っていたのに、当てが外れた。
土井の気持ちが知りたかった。
あの時、最後に土井は雑渡を見て、はっきりと好きだと言って、見た事のない顔で笑った。すぐ側で見た、あの笑顔が忘れられない。照れて頬を赤くしながら、嬉しそうに、愛おしそうに微笑んだ、彼の表情が焼き付いて離れない。
言葉よりも雄弁に雑渡への想いを浮かべたあの顔を、もう一度見たい。
あれが夢なのだとしたら、随分と頭をやられている。
いっそ夢でもいいとは思ったが、残念ながら夢では出会えなかった。
忍術学園に行けば本物はいるものの、彼が雑渡に見せるのは愛想笑いのみだ。礼儀正しく挨拶をして、世間話をして、すれ違う。それだけだ。
土井が変わっているか否か。
あれが夢であるという結論が怖くもあるが、白黒付けたい気持ちが大きい。
衝動が抑えられなくなる前に、雑渡は動いた。山本を呼んで、切り出したのだ。
「頼みがあるんだけど」
「……何でしょう」
少々警戒されているのは感じるが、気にせず続ける。
「忍術学園に行って来てもいいかな。すぐに戻るから」
「忍術学園、ですか? 他の者をやるのではなく、組頭が自ら?」
「私の用事だからね」
「最近、上の空でおられる事と関連があるのですか?」
目敏い。
確かにこの頃の雑渡は、ぼんやりと考え事をする時間が増えていた。他の者は「やはりお疲れなのだろう」と噂しているようだが、やはり山本は誤魔化せない。
「そう」
「忍術学園に行けば、解決するのですか?」
「ああ」
素直に頷く。理由は言わなかった。
山本は仕方なさそうに言った。
「できるだけ早めにお戻り頂けるのなら」
「わかった」
久しぶりの忍術学園。雑渡は入門票を書く事なく、慣れた手順で忍び込む。
土井を探す前に、雑渡は医務室を訪れた。保健委員の彼らにも会いたかったし、土井の様子も確認したかった。
頭の中で山本が「寄り道しない!」と言った気がしたが、無視する。
医務室の中では、伏木蔵が一人で包帯を巻いていた。
「こんにちは」
「あ、昆奈門さん。お久しぶりです〜」
伏木蔵は作業の手を止めて、ぺこりと頭を下げる。彼だけならば問題ない。雑渡は遠慮なく医務室に入った。
「一人?」
「はい。何かご用事でしたか?」
「君たちの顔を見に来た」
「残念ながら、今は僕ひとりです〜」
他の委員はそれぞれ予定があると言う。忍たま達も、彼らなりに忙しいのだ。
「君がいるなら、残念ではないよ。少しここにいてもいいかな?」
「いいですよ〜」
「ありがとう」
雑渡は遠慮なく伏木蔵の近くに座った。
せっかく彼一人なのだ。少し休憩しよう。ついでに、土井の様子も聞きたい。
「でも僕も、土井先生が来たら、出ないといけないんですけど」
話題を向けるよりも先に、土井の名前が出た。
「土井先生が来るの?」
「そうなんですぅ。胃薬を取りこられる事になってて~」
でも、と伏木蔵は言葉を続ける。
「最近ちょっと回数が多いと、新野先生が心配されてるんです」
だから薬を渡す前に症状について聞くと、新野は言っていたという。薬というのは無制限に飲んで良いものではないから、当然の配慮だろう。
新野はここで作業をしながら土井を待っていたが、学園長に呼ばれてしまった。
なので、土井が薬を取りに来たら、新野は不在だと伝える役目が伏木蔵に回って来た。
素直に考えると、土井は最近胃を痛めるような事があったのだろう。では、それは何なのか。
「土井先生は何かあったのかな」
「どうでしょう〜。乱太郎がテストの平均が悪かったって言ってたので、そのせいかも」
説明の間に、伏木蔵は道具を片付ける。そして彼の位置は、雑渡の膝の上になった。
「なるほど。しかしそれは、いつもの事だね」
「確かに〜」
伏木蔵は「あ」と呟いて、続けた。
「そういえば、ちょっと前、土井先生に昆奈門さんのこと聞かれました」
雑渡さんと最近会ったか?
雑談の最中、伏木蔵と他の保健委員達が、そう尋ねられたという。
「ほう」
雑渡は最近来ていなかったから、保健委員達は揃って首を振った。ならいいんだと土井が返して、話は終わったという。
「最近、タソガレドキの方はどなたも学園内で見かけませんでした〜。何か、おありでしたか?」
この一年生も時折鋭い。雑渡は「少しね」とだけ答えた。
「実は、私も土井先生に用があるんだ。一緒に待たせてもらってもいいかな」
「はい、どうぞ」
今は何を聞いても、あれが夢ではないという願望に近い期待へと繋げてしまう。
だが、もしもあれが単なる夢でなかったとして。土井は、素直にそれを認めてくれるだろうか。
「忘れて下さい」
耳に残る言葉が、そのまま彼の本心とは思わない。だが、まったくの嘘でもないだろう。では、どう対応するべきか。
「考え事ですか?」
下から聞こえる問いに、頷く。
「うん。土井先生の口を割らせる方法について」
「スリルぅ〜」
伏木蔵はいつもの何とも言えない声で喜び、それから、
「でも土井先生なら、素直に尋ねるのが一番だと思いますぅ」
いかにも生徒らしい言葉を口にした。
なるほど。伏木蔵ならば、いや生徒ならば、それが最適だ。だが残念ながら雑渡は生徒ではなく、歓迎される客でもない。
その手は使えないと思ったが、今回の用件は普通ではないと思い直す。
腹の探り合いの末に、一度は素直な言葉を引き出せたのだ。やりようはある。
「ふむ……今回は、確かにそうかもしれない」
「お役に立てましたか?」
「うん。ありがとう」
礼を言えば、伏木蔵は「どういたしまして〜」と笑った。
雑渡も表情を緩めかけた時。
気配が近付いてきた。
土井だな。
その気配が一瞬、不自然に歩みを止めた事で、雑渡は確信する。
さて。
気分が高揚する。何しろ成就か失恋かの瀬戸際だ。
「どうかされましたか?」
不思議そうな声に、
「うん。ちょっとね」
答えになっていない答えを返す雑渡は、笑っていた。だから伏木蔵も笑って、そうですかと返した。
気配が再び近づいてくる。
ほどなく顔を出した土井は、雑渡を見て、少し眉を寄せた。いつも通りだ。
土井は雑渡に挨拶だけすると、伏木蔵に声をかける。少し顔色が悪い。あまり時間を取らせる訳にもいかないようだ。
膝の上から伏木蔵の重さが消える。彼が行ってしまえば、二人だけになった。
土井がこちらを警戒する様子さえ、好材料に見えるのだから、どうしようもない。
立ち上がった雑渡と向き合った土井は、静かに返した。
「私に何か御用事でしたか?」
この平静さを、どう崩すか。崩す事自体は難しくないだろうが、結果は予想がつかない。
願わくば、もう一度、笑って欲しい。笑いかけて欲しい。あの時と同じように。
雑渡は土井を見た。
まずは、この顔を崩す所からだ。
珍しく、祈るような気持ちが浮かぶ。まるで初恋に振り回される少年だなと思い、内心で笑う。
そのすべての感情を表に出さないまま、雑渡はゆっくりと口を開いた。
「最近、夢を見ましてね」
夢ではありませんように、と心の中で呟きながら。