雑←土の下書き その日、雑渡昆奈門が忍術学園を訪れたのは、学園長に会うためだった。
そして学園長室へ向かう途中で、一年は組教科担当教師である土井半助と出会った。何の用事かと尋ねられ、隠す事なく、学園長に会いに来たと告げる。
すると土井は、
「学園長は先程、出掛けられましたよ」
と言った。約束を取り付けていた訳ではないから、想定内だ。
「入れ違いでしたか。お戻りはいつ頃です?」
「うーん……デートだと言っていたので、遅いかもしれません」
それならば仕方がない。雑渡の用件は、火急のものではない。半分くらいは、保健委員の顔を見に来るのが目的だ。
「それから、保健委員も揃って外出中です」
雑渡の考えを先読みしたかのように、土井が付け加える。
「……そうですか」
来訪の目的が揃って潰された。
さすがに気の毒に思われたのか、土井が、
「お茶でもどうですか」
と珍しい誘いをかけてきた。
「では、お邪魔します」
雑渡も、珍しく乗った。土井とはあまり話した事がないのだし、良い機会だ。そう思った。
土井と山田の部屋に招かれて、土井と向かい合わせに座る。土井は茶を出しながら、山田は補習で不在と言った。
「学園長は、よくデートに行かれるのですか?」
「ええ、まあ……。お元気な方なので」
土井は苦笑いを浮かべる。この学園の教師を一番困らせるのは、他ならぬ学園長だ。雑渡もそれを何度も聞いているし、見てもいる。
「さすが、お若いですな」
「はは……」
乾いた笑いを浮かべて、土井は茶を一口飲む。それから、ふと思いついたように聞いてきた。
「雑渡さんは、そういう方はおられるのですか?」
随分とストレートに聞いてくる。色の話が好きなようにも見えなかったが。まあ教師なのだから、生徒の前では好きでもそうした話はしないだろうが。
「今はあいにくおりませんな」
「そうなんですか」
土井は意外そうな顔だ。
「そう言う土井殿は、どうなんです」
「いやぁ、私もさっぱりで……」
この辺りまでは、世間話の範疇だった。
「ほう。意外ですな」
「出会いもありませんから」
「私も同じですよ」
「出会いそのものはあるのでしょう?」
「もうそんな歳でもありません。よほど心惹かれる相手であれば、別ですが」
忍術学園でこんな話をするのは、おかしな気分だ。ましてや相手は、親しいとは言い難い土井半助だ。
「なるほど。雑渡さんは、どういった人が好みなんですか?」
随分と突っ込んでくるな。単なる雑談なのか、それとも、何か探っているのか。考えてしまうのは、悪い癖だ。
「私の好みが知りたいですか?」
揶揄うような言葉に対して、土井は一瞬、返しに詰まった様子だった。珍しい。そう思ったから、改めて土井に目を向けた。
「……ええ。知りたいです」
妙に真面目な口調で、真面目な顔だった。
雑渡はストローの刺さった背の高い湯呑みを置く。のんびりした茶飲み話の空気が、変わったような気がしたからだ。
雑渡は何を答えてもいい。本当の事を言っても言わなくてもいい。土井も大人だ。茶化して終わらせようとすれば、普通に乗るだろう。
返す言葉は重要ではない。
いま雑渡を見る、妙に熱の籠った視線を、無視するかどうか。そちらの問題だ。
「それを知って、どうされます?」
「どう……と聞かれると、困りますね」
「興味本位ですか」
「いえ……。本当に知りたいと、思っています」
少々不器用な返しだが、それが逆に、土井の本心からの言葉であるように感じさせる。
「知りたいのは、私の好みですか?」
土井は少し考え込み、それから言った。
「いえ、少し違いますね。……私は雑渡さんの好みの範疇に入るか、と。私が知りたいのは、そこなので」
おや、そういう事だったか。
想定外の好意を察知して、雑渡は内心で少し驚いた。土井と二人きりで話す事はほとんどないし、警戒されているのも知っている。だからこの方向は予想外だ。
悪い気はしなかった。今の今まで、自分に想いを気取らせなかったのも、たいしたのもだと思う。
が、ではよろしく、と言うほどの好意はない。今の所は。
「さて……考えた事もなかったので、わかりませんな」
雑渡の返した言葉は肯定ではないが、といって否定でもない。考えた事がないというのは過去の話であって、先のことはわからないという事である。拒絶という程の言葉ではない。
雑渡としては、ここから話が始まるのだろうという感覚だった。
なのに。
「そうですか」
随分と、あっさりした答えだ。同時に、土井の纏っていた熱っぽい空気も霧散した。
その落差に、雑渡は戸惑った。と、その時。
「あ」
土井が声を出すと共に、外に目を向ける。つられて外を見れば、見知った生徒たちが遠くに見えた。
「保健委員が戻ってきましたね」
土井は立ち上がり、彼らに「おーい」と声を掛けた。
保健委員たちは素直に土井の元へ来て、雑渡を見つける。そうなればもう、いつも通りに雑渡は彼らと話を始めるしかない。
そして、いつの間にか、土井はいなくなっていた。
その日はそれで終わり。
それ以降も、何事もなかった。少し近付いたような気がした土井との距離は、元に戻った。雑渡を見かけても、土井は特別に話しかけたりはして来ない。目線があっても、「どうも」と事務的に頭を下げるのみ。
いや、あの空気は何だったんだ。
という話を雑渡が聞かせているのは、部下である山本陣内だった。
「あれで諦めるか? 普通は、あそこから始めるものでは?」
「はあ、そうですね」
山本の返答はおざなりだったから、雑渡は不満そうな目を向ける。
「返事が適当すぎる」
「適当にもなりますよ。その話、もう五回目ですからね」
片手を広げて「五回」と強調する山本は、呆れた様子を隠しもしない。
最初に聞かされた時こそ土井から雑渡への好意に驚いたが、今では雑渡の反応の方が驚きだ。
雑渡も昔からそれなりに、色々な方向からモテる男だ。好意の一つや二つで動揺するような可愛げはない。ましてや本人の言う通りの「どうでも良い」相手ならば、柔らかく無視するか、使えそうなら使うかの二択。
こんな風にぐだぐたと益体もない愚痴など、それこそ彼がまだ何者でもない若造だった頃以来だ。あの頃は普通に手を焼かされたな、と回想する山本は、もう雑渡の話を聞いてはいない。
ちゃんと聞いて、ちゃんと考えた言葉を納得した所で、雑渡の愚痴はまたぶり返す。何しろ、もう五回目なのだ。
「陣内。聞いてる?」
「はいはい。そんなに気になるのなら、組頭から土井殿に声を掛けられたら良いでしょう」
「声を掛ける理由はない」
これだ。
「では、私が土井殿に確認してきましょうか?」
「やめてくれ」
子どもの喧嘩に親が出て行くようなものだ。いや、色恋沙汰に首を突っ込まれるのだから、喧嘩よりも恥ずかしいだろう。
「単なる気まぐれか、気の迷いだったんでしょうよ」
「私を相手に?」
自分で言うかと思うが、確かにそうだ。少しでも理性があれば、雑渡を選んでそんな真似はしないだろう。
山本から見ても、土井から雑渡へ特別な感情を感じ取った事はない。土井の言動の真意など、わかりようもなかった。
ここで何を話そうが、不毛な話し合いにしかならないのだ。
よって、山本は話を打ち切った。
「ところで、そろそろ出掛けられる時間では?」
実際にはもう少し時間はあるが、山本はさっさと話を打ち切りたかった。
「ああ。ちょっと忍術学園に行ってくる」
「土井殿ですか?」
「学園長先生だ。……今回は殿の命で行くと、知っているはずだろう」
「ついでに、他にも行くでしょう。土井殿によろしくお伝えください」
「行くなら、保健委員の良い子たちの所だよ」
けれど土井がいたら、顔くらいは見に行くのだろう。などと余計な事は言わずに、黙って雑渡を見送る。
その足で、山本は押都の元へ向かった。
山本が訪ねた時、自室の押都は一人だった。好都合だ。
「邪魔するぞ」
少々乱暴に戸を開けると、押都は山本の顔を見るなり、笑った。
「どうした。また組頭から、あれを聞かされたか?」
あれ、で通じる程度には、もう馴染みの話題になってしまっている。
雑渡も、誰彼構わず話をしている訳ではない。相手は選んでいる。この件について話という名の愚痴を聞かされているのは、山本と、あとは押都だけなのは確認済みだ。
「まったく、いつまであれを聞かされるんだ」
「何度目だ?」
「五。おまえは?」
「その倍」
「はぁ!?」
素直に驚いた。回数以上に、それだけあんな話を聞かされて、嫌がるどころかむしろ面白そうにしている押都の態度に。
「困った事になったな……」
「なに、我々が聞けば良いだけの話よ」
「それが困った事だと言っているんだ」
山本はため息をつくが、押都は平静そのものだ。
「そのうち飽きるだろう」
「飽きる様子が見えん。あれが土井殿の手管なら見事なものだが、どうなんだ?」
「どう、とは?」
「とぼけるな。どうせ土井殿を調べているだろう」
「さて」
面に覆われても、押都が笑っているのは分かった。
「おい」
「知ってどうする」
「どうする、という訳ではないが……」
山本は困った顔で、先程の雑渡を思い出す。雑渡は土井への好意はないと言い切るが、口説いて来ない事に苛立つ程度には関心があるのは確かだ。
好意が本当にないとして、あれが単なる肩透かしをくらった苛立ちだとしたら。実際に土井がアプローチをかけてきたら、意外とそれだけで満足して、あっさり関心が消えるかもしれない。
「……というのは、楽観的か?」
自分の考えを話した山本に、押都の答えは簡単だった。
「楽観がすぎるな」
押都の笑いを含んだ声に、だよなぁ、と山本は肩を落とす。土井の本心はわからない。だが雑渡の方にはもう関心が生まれているし、育ちかけている。
どうやらそれは、山本だけが思っている事ではないようだ。
「……あれが続くと、うっかりお節介を焼きそうになるのが困る」
道理に合わない感情に振り回されるのは、忍者にとって良い事ではない。雑渡の立場なら、尚更だ。
だが、ならばそれを潰してしまえと思えるほど、山本は割り切れていない。
「成り行きに任せればいい」
「それで困った事になったらどうする。相手は忍術学園だぞ」
「その時は、それこそ我々が出張ればいい。そもそもの原因は土井殿だからな」
やりようはある、と押都に言われると、山本もそんな気になってくる。
そもそも、本当に雑渡のためにならない事なら、とっくに押都が動いている。山本よりも、よほど全体が見えている男だ。
「ではそれまで、私の愚痴はおまえが聞け」
山本が睨むように見ても、押都は動じない。
「わかったわかった」
と返すだけだ。
この男、さては楽しんでいるな。
その気持ちも、わからないではない。山本は、楽しむよりも心配が先に立つだけだ。
「諦めたか?」
からかうように言われて、山本は押都に険しい顔を向ける。
「言った言葉の責任は、持ってもらうからな」
「ああ。私の見立てでは、遠からず、何とかなるだろうよ」
「そう願う」
その結論が楽しみなような、不安なような。複雑な気持ちのまま山本はため息をついた。