【空蝉日記 短編】空室1085あれはいつのことだっただろう。
中学時代の、寒い時期……というのだけ覚えている。
僕は生まれつき身体が弱く、頻繁に入退院を繰り返していた。正確な病態に関しては説明すると長くなるが、いわゆる心臓病の類で、全身に血液を送りきれずに貧血や過呼吸等を引き起こす……といったものだ。運動はおろか、走ることもままならない。
もう何度目の入院か、そろそろ数えるのが面倒になってきてやめた頃に……その娘と出会った。
隣の部屋の、黒髪の女の子だった。
真っ白な病室の壁に一際目立って浮き出たソレが、かと思えば壁と同化してしまいそうな程に青白く透明な肌が、不謹慎だけど幽霊みたいだったなんて。それが第一印象だった。
「今日もお母さん来てたね。」
何気なくかけた言葉に彼女は一瞬顔を歪ませたが、すぐにゆったりとした微笑に戻った。
部屋が隣で、同い年。珍しい同世代。
なんだか、戦友みたいだった。
「弦くんは寂しいの?」
ほぼ毎日彼女の部屋に出入りする、以前母親だと聞かされた女性の姿を見る度に、確かに僕は彼女の言う通り寂寞感を抱いた。
昔は過保護にしていた僕の両親は、隠していた僕の病気の事がバレてからというもの、色々と家族仲が拗れて……今では見舞いにすら殆ど来なくなった。気まずいだけか。心配していない訳ではないのだろうか。
まぁでも、来ても……僕なら余計な一言を言ってしまいそうだ。
「私の分まで弦くんがお見舞いされたら良かったのに。」
「……?でもそれじゃあお母さん来てくれなくなっちゃうよ?」
「来なくていいよあんなの。」
少し、いやかなりびっくりした。
非現実的な……まるで人でない何かのような美しさと儚さを持った彼女から飛び出た、棘のある言い方。
「あの人、お見舞いに来てるんじゃないの。」
どういうことかと聞き返す前に、答えが返ってきた。
「──お父さんが浮気してるって。愚痴を言えるママ友も居ないんですって。」
「なぁ、来月の頭、行け、そう……?」
申し訳なさそうに俯きながら、僕よりも遥かに高い背を縮こませて上目遣いで聞いてくる幼馴染がなんだか可愛らしく感じて少し笑った。
「うん、来週には退院できるから全然大丈夫だよ。永介の試合、絶対見に行くね。」
僕の言葉にぱっと瞳を輝かせた彼。もう見舞いに来てくれるのは幼馴染の永介だけになった。次の大会を控えて、部活の練習も忙しいだろうに。
「あっそうだ。ねぇ、隣の女の子。」
「あぁ、しずくちゃん?」
僕ですらあまり名前を呼ばないのに、彼は一度顔を覚えればすぐに名前も記憶する。
「うん。いつもお母さんの愚痴聞かされてるんだって。家族仲が良くないからって。いっそ独りの方が気楽だって、ずっとそう思ってたんだってさ。あと、」
一昨日、亡くなったんだって。
彼女──しずくから母親の一件を聞かされた数週間後、病態が悪化したらしい。
深夜に隣の部屋からナースコールが聞こえた時、嫌な予感はしたが……まさにその予感は、翌日僕の点滴を変えに来た看護師さんの回答で現実になったのだと知った。
多分、余命宣告はされていたが、僕には言わなかったんだろう。永介が、言葉を選ぶように静かに口元を歪ませた。
僕もいつか──あんな風に、急に彼の前から居なくなるのかな。
「最期に会えた弦が、唯一……だったのかもな」
唯一。なにが、とは聞かない。
切なげな笑みを浮かべて、永介はそう言った。
だとしたら……どうせなら、僕じゃなくて、それこそ、目の前の彼と出会った方が良かっただろうに。
僕では彼女の心の闇を晴らしてあげられない。
いや、あげられなかった。と思う。
「……沢山僕の話も聞いてくれる優しい人が、いつも見舞いに来てくれる人で良かった」
無意識にそう口にすると、永介は赤面して『なになにオレの事!?』とわたわたしだした。他に誰がいるんだ、と思いクスリと笑う。
ほら、無機質な病室なのにこんなに賑やか。
僕は、永介にはなれなかった。