他人の子は知らぬ間に大人になるもの 経過観察が必要ですから。朝倉省吾とその父に言われてドクターTETSUが和久井譲介が一緒に住み始めてしばらくが経つ。寛解したもののこれまで散々無茶をしてきた身であるから主治医が近くにいた方が良い……などと無理のある説得が老獪な闇医者に効いたのは朝倉先生親子のおかげであると譲介は理解している。寛解した途端どこかへ行こうとする彼の手首をひっつかみ、このままロスに留まってできればこの部屋で暮らしてくれと、最後は胸ぐらを掴む勢いだった譲介には頑として頷かなかったのに。
TETSUによる大いなる譲歩があったとしても、そこから始まった新しい関係が今ではキスどころかセックスまで許されるようになったのは譲介にとって奇跡に近い。
杖なしで歩くようになったドクターTETSUはいま、クエイド医療財団の非常勤医師の肩書を持ちながら勤務日以外は日本にいたころのようにやっぱりハマーを転がして往診に行く。日本と違い国民皆保険制度のないアメリカでは、病院にかかることのできない者も多い。華々しい観光地や世界に名だたる映画の殿堂を擁するサンフランシスコもその例にもれず、ドクターTETSUの手を必要とする者もそれなりにいるようだった。そういうわけで、こちらに移住したかつての患者以外はドクターTETSUの客層もすっかり変わったらしい。
そうやって往診に行くようになった当初は次のクエイドの出勤日まで帰宅しないこともあったが、譲介からの鬼電が面倒になったのか、今ではきちんとその日のうちに帰宅するし少し遠くに足を延ばすときには主治医に一報入れるようになった。
そのドクターTETSUが夕飯を携えて帰ってくるという。ありがとうございますお願いします、とスマートフォンのメッセージアプリに返信を打って帰りを待つ。呼び出しがあればすぐに病院に駆けつけないといけないとはいえ、今日は退勤間際の急患もおらずそう遅くもない時間に帰宅できた。ライフワークバランスは大事、と言いつつもそうはいかない場面もあるのが医者という仕事だ。
幸運だったな、と思って2人暮らしの自宅に戻ってポケットからカギを取り出すとそれより先にガチャっと音がしてドアが開いた。
「……帰ったか」
顔をのぞかせたのは同居人で元保護者で今は恋人のドクターTETSUこと真田徹郎。
「今戻りました。……不用心ですよ、それからそんな薄着で表に出ないで」
医者として体調のことも気になるし同居人として防犯面も気になるし恋人として人目に付くところに無防備な格好でいてほしくないし、とつい小言を言ってしまう譲介に彼は呆れながらもとりあえず聞き入れてくれる。ついでにハグをしても抵抗されず、しかし彼が譲介の背に腕を回すことも無い。
「もういいだろ」
そう言ってあっさりと離れて室内に戻り、ソファに引っ掛けていたカーディガンを羽織る。
「それよりとっとと手ェ洗え、メシにすんぞ」
TETSUの言葉にハイ、と返事して譲介は手を洗いながらふと考えこむ。
(いろいろ僕に許してくれるようになったけど)
でも、求めるのはいつも譲介からだ。TETSUは抱かれることに抵抗もしない、それなりに気持ちいいと思ってくれているのは分かるけれど、かといって自分から求めることはしない。
(僕ばっかりで申し訳ないというか、嫌がられているわけではないけれど……)
うぅん、と考え込むもここしばらくの悩みがこの一瞬で解決するわけもなく、ダイニングに入る。
「夕飯の調達ありがとうござい……ます」
譲介が思わず言葉に詰まったのも無理はない。買ってきた本人は平然とした顔をしているが、テーブルの並んだ近所のデリの料理の数々はどう考えても2人では食べきれない量だ。
「……さすがに多いんじゃないですかね、これ」
半ば呆れたような譲介の声にTETSUは「そうかァ?」と首をひねる。
「あの頃は結局おめぇひとりで3皿も食べてただろ」
すると正面に立っていた譲介が一瞬ポカンとしてから目を細めて声を上げて笑った。
「あはッ、あははははッ、いつのことを言ってるんですか」
「そんなに笑うこたねぇだろ」
「いや、だって……」
ああもう、と腹を抑えながら目じりに浮かんだ涙をぬぐいながら譲介は微笑む。もう10年以上前のこれと言って何があったわけでもない平凡な夕飯の席のことを覚えていたのかという驚きと喜びがあった。
「もう僕も三十路なんですからね、十代の頃みたいにはいきませんよ」
僕もあれから10歳以上年取ってるんですよ、と言って苦笑する譲介の目元に出来る笑い皺。壮年に差し掛かった男の顔。
徹郎さん、と名を呼ぶその顔を見つめながら、真田徹郎はゆっくりと目を見開いた。
「……そんなに経ってたか」
新鮮な驚きのにじむその言葉にハイ、と譲介は返事して彼の背に腕を回す。
「そんなに経ってるんです」
最近はちょっと徹夜もきつくなってきたし、と歌うように言うと31も年上の男はハハ、と声を上げて目を伏せて、わずかに体を震わせてを震わせて笑う。心底愉快な時にする笑い方だということを今の譲介は知っている。
「いいじゃねぇか」
声が近づいて、譲介の背に暖かな体温が添えられる。
「……そうですね」
初めて抱擁されたことに目を細めながら譲介は静かに返事した。
この人と生きていく。その最後を見届ける。そう誓った気持ちはもうあの日からずっと変わっていない。もう少しこうやって抱きしめ合っていたいと思ったが、それより先に譲介の腹の虫が機嫌を損ねた。その派手な主張に恋人はまた愉快そうに笑った。