青春Nightに僕らの未来「……モー娘の新曲だな」
コンビニの店内、隣に立つ譲介が、あの和久井譲介が呟いたので黒須一也はぎょっとして彼を見つめた。店内には確かに女子グループアイドルの楽曲が流れているが、こんな難しそうな曲、しかもワンフレーズを聞いただけでそれが分かったのか、と一也はますます目を見開く。
「……なんだよ」
じろりと譲介が睨んだ。あのハマー乗りの闇医者そっくりの長い前髪の合間から覗く左目の迫力に気圧されて一也は黙り込む。
「お前だってモー娘。くらい知ってるだろ、僕らは世代だし、どこ行ったって流れてたし、ラブマシーンとか」
「あ、いや、その、譲介はアイドルとか興味ない、というか好きじゃないと思ってたから」
「別に興味はないし好きでもないぞ」
「えッ」
「お前たちのせいだよ」
吐き捨てるように譲介に言われ、一也はますます戸惑った風になる。「お前」ならわかるけれど「お前たち」というのがよく分からなかった。
店内スピーカーからサビらしき部分が流れてくるが、あいにく一也に共感できる部分はあまりなかった。どちらかといえば彼は想い人に10分後と言わずノータイムで追いかけて手を握ってもらった側だったので。ついでに言えば最近の譲介は想い人を追いかけるためにもう100年も足踏みしている気分になっている。さらに言うなら自身も腕の良い医者であるあの人の信頼に足る医者になりたくて相談すべき医者もすぐそばにいるのに、いざそれを相談するのはためらわれた。あの鋼のような高潔な倫理観の第2の師に元養い親の話をすれば良い顔をされないのが分かっていたので。
「自覚もないのか……」
泉平高校の元同級生はため息交じりに言ってコンビニを出て、近くのケーキ屋に向かう。診療所の年上たちの誰もが「そんなの気にしなくていい」と言うけれど、一也と譲介で遊びに出た時にはケーキを買って帰るのがお決まりになっていた。
別に今日は計画して二人で遊びに出たわけではない。たまたま昼から休みだった本屋に行きたい一也と、同じく昼から休みで外で食事でもしたいし本も買いたい譲介がたまたま一緒に村から降りることになり、そのまま一緒に行動しているだけである。
「昔はアイドルなんて嫌いだった」
何でもないことのように譲介は言う。一也は別段驚かなかった。代わりに10代のころに彼が見せていた烈しさと妙に熱っぽい目を思い出し、さっきの自分の発言がオブラートに包んだ表現だったことを自覚する。本当は「嫌いだろうと思ってたから」と言いたかった。
「結婚したって感謝する両親もいないし、景気はクソわるいのに底抜けに明るいフリして、恋してそれでお気楽に生きていけるほど人生は甘くないし」
声はわずかにかすれていた。ケーキ屋の扉の手前で立ち止まる。
「絵空事ばかり歌うから、アイドルなんて嫌いだった」
だった。
すぐに平坦さを取り戻した言葉の末尾を一也は噛みしめる。
「けど、いつだったかテレビで偶然モー娘。の曲聞いて、うわぁコレお前の恋愛相談以下の話を聞いてやってる僕じゃないか!って思ってなんか嫌うのもバカらしくなったんだよ。それ以来あのグループの曲はたまに聞く」
譲介が腕を組んで苦々しい顔で一也をにらんだ。身に覚えがあったらしい、数年前に片思い歴が5年を超えた同僚は大柄な体を縮こまらせ顔を真っ赤にしている。
「まったく、悩みたいのは僕の方だってのに」
ため息をついた譲介がケーキ屋の扉を押し開ける。
「え、なんだよ、譲介も好きな人がいるのか?」
「誰が話すか。それより、ショートケーキで良いよな。朝倉先生もいるから……」
「あ、うん。すみません、ショートケーキを7つ……」
店員の女性たちにほほえましく見守られながら店を出た二人はT村行きのバスに乗り込み、後ろの方の席に座る。
「……なあ一也」
だんだんと乗客の少なくなる車内、しばしの沈黙の後に譲介は妙に真剣な声を上げた。
「本当に宮坂のことが好きなら、ちゃんと言った方が良いぞ」
「なッ」
「照れてないで聞け」
突然10年来の同期で片思い相手の女性の名を出されて一瞬拒否反応を示した一也だったが、今ばかりは譲介は彼をからかわなかった。代わりにグイと彼の手首を掴む。師匠から医学の基礎と共に学んだ技術なのか、膂力で遥かに勝るはずの一也は譲介の拘束を振りほどけないでいる。
「時間は限られてる。研修が終わった後も宮坂が診療所に残るとは限らないだろ」
言われて、一也の体から完全に力が抜ける。彼もどこかで気にしていることらしい。
「それに宮坂はお前がきちんと言わなきゃ分かんないだろう。なんたって七夕の短冊に診察の精度向上って書く女だぞ、願い事じゃなくて宣言だぞ?!」
診療所の玄関に飾っていた笹飾りを思い出し、一也が目を輝かせる。
「結局そうなれるように頑張るのは自分でしょ?」
可愛げよりも覚悟と高潔さの勝る小さな同期は何でもないことのようにそう言って、にこりともしなかった。もういっそ七夕の原典に倣って縫合技術の向上って書けよ、と言ってやったのも譲介の記憶に新しい。
とにもかくにも宮坂詩織という医者の卵のそういうところが一也は好きだし、譲介もまた彼女のそういうところが実はかなり、結構、相当好きなのだが、それを言うと面倒なので黙っておく。
「とにかく宮坂は医者であることが最優先の女だから、結婚したいとか思ってるならきちんと言っとけ」
そこまで言って譲介は盛大にため息をついた。
「ホント、なんで他人の恋愛話の答えはすぐに出るのに自分のになると」
クソ、と毒づいて彼が顔を伏せる。
「これじゃほんとにあの曲のまんまだ」
「……なあ譲介、もしかして、あのさ」
しばしの沈黙の後に一也がひどく頼りない声で言った。
「その……オレの勘違いかもしれないし、違ってたらすごく失礼な話だし、ただの邪推なんだけど」
「なんだよ、はっきり言え」
「譲介の好きな人って、その……ドクターテ」
ツ、まで言いそうになった口を譲介がとっさに塞ぐ。
「それ絶対K先生の前で言うなよ!」
「分かってる……」
モゴモゴと一也が返事する。自分の恋愛はさっぱりなくせに他人の分になるとカンが良くなるのはもしかしたら万人に共通することなのかもしれない。そんなことを思いながら譲介は深々とため息をつく。
「でも譲介、K先生の気持ちとかは関係なくあの人はさ」
「分かってる」
一也の気遣わしげな声を無理やり断ち切る。31も年上の重病人、しかも自分から縁を切ろうとしている男に執着するなどバカげている。けれど今も譲介がもどかしさを感じながらも欠かさずテキストを広げ、あるいは最前線に立つ医者として中途半端な立場ながらも患者のもとを訪ねるのはドクターTETSUへの執着を振り切れないからだ。
「もっと早く気づいてれば、あの人を引き留められたか?」
顔を伏せ、答えを求めない問いかけが唸るような声が譲介の喉で紡がれる。
恋だった。確かに恋だった。あの人がいなくなったがらんどうの27階で泣きながらようやく自分の中に息づく感情に恋という名前を与えて、けれど行き場を無くしたその熱はひとりでに形を変え、今ではなんだかよく分からない衝動になっていた。
拒絶したいような、果てもなく受け入れたいような、暴きたいような、汚したいような、永遠に見つめていたいような、真綿でくるみたいような。でもその衝動にまた別の名前を付けるのも難しく、結局譲介はこのよくわからない衝動のことも「恋」と呼んでいる。
「……いや、無理、無理だよなぁ」
否、別に名前は重要ではない。
「譲介、その、なんていうかオレはさ、譲介が一番幸せになれると思うようにしたら良いと思う」
隣の同期が頭を抱えている間黙っていた青年がおずおずと言った。あまりに月並みで正論を極めた答えだった。そのうえ、それがあの件のアイドルの曲と同じことを言うので譲介は眉をハの字にして声を上げて笑ってしまう。
「ク……ククッ、お前が言うなよ」
「人がせっかくアドバイスしてやったのに! あと笑い方がちょっとドクターTETSUに似てきてるぞ!」
「そりゃあ3年も一緒に生活してたんだからな。あと、さっきのセリフそのままお前に返してやる。どうせお前は宮坂が一緒にいた方が幸せになれるんだからな」
「いや、でもそれは宮坂さん次第で……!」
ようやくいつもの調子を取り戻して言い争ううちにバスが止まった。ケーキを抱えて顔なじみの車掌に会釈して降車した一也の後ろで、本の入ったビニール袋を下げた譲介は地面に片足を付けながら付けながら言った。
「あのさ、一也」
手すりから手を放し、もう片方の足も地面に降りると背後でバスの扉が閉まる。
「僕、クエイドに行くつもりだ」
一也が振り返る。視線の先には譲介が美しい立ち姿でたたずんでいた。
「多分それが、幸せ……かは分からないけど、一番後悔が無いと思うから」
その背、宵の口の空には今まさに満ちようとする月が浮かんでいた。