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部屋に差し込む日の光が、現在の時刻をこれでもかと知らせてくる。南東に位置する解放軍リーダーに与えられた自室兼執務室は、常日頃から太陽の恩恵を受けていた。
起床直後はやわらかな朝日が部屋全体を包み込んでおり、こうして机に向かう頃には木漏れ日のような光が室内を照らしてくれる。
そんな中、不意に落としてしまった万年筆が、ティアの目の前で光を反射させながら机上を転がった。それに目をやってから、視線の先にある木製の扉がぴったりと閉まっていることに安堵する。
背後から伸ばされた、撓垂れる腕から逃れようと身を捩ったものの、逃がさないと言わんばかりに二の腕を手に取られる。
「……フリック」
何とか絞り出した声で発した名前に、感情を乗せる。そこから退いてはくれないかと願いを込めたが、背後の青年は動く気配はない。
部屋に入ってくるなり、挨拶もなく無言で抱き締めてきたフリックにティアの体は石のように硬直していた。
「良い匂いがするな」
項に顔を寄せる彼の表情は勿論窺うことはできないが、愉悦に満ちたその声色に、ティアは自然と昨晩の記憶を回顧し始めていた。
一人で入れる、と言っても聞く素振りのない仲間達に折れてからというもの、すっかり日常的になってしまった、グレッグミンスターではあり得なかった複数人での入浴。つい寝食を忘れて減ることのない仕事に没頭してしまうのを、半ば連れ込まれるような形で風呂に入ることになるのも珍しくはなかった。
今日も例外ではなく、こうしてビクトール達に浴場まで連れて来られ雑談をしていたのだが。
「おぅ、リーダーさん。今から風呂かい?」
「ああ。僕に用事があるんだろう?」
「用というか……ああ、すぐに終わる用事だからそのままでいい」
普段は番頭代わりに風呂の管理をしているサンスケが脱衣所に姿を表すことは珍しい。
ちょうど道着を脱ぎ終えたティアが再び袖を通そうとしたところを、サンスケが止める。
「これを使いてぇんだが、一応リーダーの許可を取っておこうと思ってな」
「……それ、何?」
差し出されたのは、綺麗なラッピングが施された花をあしらった何かだった。ラムネ菓子にも見える。
封を開け中身を手のひらに転がし顔を近づけると、仄かに花の香りが鼻孔を擽ってくる。そんなティアの様子にサンスケは「食いもんじゃねぇぞ」と高らかに笑ってみせた。
「ああ、こりゃあ入浴剤だな」
「入浴剤?」
横からのぞき込んだビクトールが口にした。聞き慣れない言葉を鸚鵡返しに呟く。
「一部の貴族達は香り付けのために湯船に香油を垂らしたり花を散らしたりするだろ?しかし花も高けりゃその後の処理も面倒。それを解消するのがこの錠剤ってわけだ。前から女子供から要望は出されてたんだが、俺はこういうものはてんで無頓着でなぁ」
「というと、これはサンスケが用意したものではないんだね」
「ご名答。これは頂きもんだ。麗しい女性陣からのな」
確かに、彼はこういう洒落たものは使わないだろう。どう見ても女性向けに作られたそれは、いぶし銀のようなサンスケの印象と合致しなかった。
とはいえ、風呂に関する代物に興味がわかないはずもない。折角だからと、女風呂に使用した余りを男風呂にも使用してみたいという要望だった。特に断る理由もなく、それを快諾する。
服を全て脱ぐ前に浴場へと足を踏み入れ、既に溜められていた湯船に錠剤の花を複数個落とすと、すぐさま現れた気泡と共に香気が浴場内に広がった。
「……何の匂いだろう」
「睡蓮だ」
ティアが知る由もなかった花の名前を、入口から顔を覗かせていたルビィが口にした。
「普段はここまで香りが強く感じられるものではないが、閉鎖された場に睡蓮を敷き詰めたらこれくらいにはなるだろうな」
噎せ返るほどではなく、しかし浴場にいればはっきりと知覚できるほどに漂う甘い香りが、毎年盛大に花を咲かせていた帝都の金木犀を彷彿とさせる。
「お前ら、今が良い湯加減だぞ。突っ立ってねぇでさっさと服脱いで入っちまいな。今なら匂い付きの湯も楽しめるぞ」
湯かき棒で湯船を掻き混ぜながら、まあ男には似合わねぇ匂いだがなぁ、とサンスケが笑っていた。
似合わないと口にしながらも両手で湯を汲み鼻を鳴らしながらも楽しそうに笑っていた、あの時の仲間の面々が脳裏を過ぎる。見慣れた風呂が、香りが異なるだけでこうも印象が変化するものなのだと驚きもした。
「昨日の入浴剤の匂いが残っているのかもしれない。良い香りだった。皆も楽しんでいたようだし」
「喜んでくれて何よりだ」
「……あれは女性陣からの差し入れでは?」
「元は遠征先で俺が貰った物だ。使わないからとマリーにあげたんだが、まさかこんなところで使用するとは思わなかったな」
焦慮に駆られて矢継ぎ早に話してしまった。それはこの状況では焦るだろう、と己を慰める。
心臓の音を振り払いながら、ティアは耳を澄ませる。仲間達の居住区と僅かに離れたこの場所に、人の近付く気配は感じられない。
全くもって疾しい気持ちなどないにしても、男が男に抱き締められている姿など、好き好んで見られたくはない。無理にでも抵抗すれば離れられるのだろうが、フリックがどのような体勢でいるのかも分からないままに暴れて、怪我を負わせてしまうことだけは避けたかった。どういう心境で抱擁に至ったのかは分かりかねるものの、不可抗力で彼を傷付けてしまうのは忍びない。
なるべく早く穏便に事を済ませ、あの扉が開く前にフリックを引き剥がしてしまいたかった。
「あの……用がないなら離してくれないか。そろそろマッシュのもとへ行きたい」
「用ならあるさ。入浴剤、どんな香りだった?」
これで会話は終わりだと、立ち上がろうとしたところに、両肩を抑え込まれて椅子へと沈められてしまった。
フリックが見た目とは裏腹に剛腕であることを、以前胸倉を掴まれた経験のあるティアは身を以て理解している。抗う気も起きずに、そのまま背凭れへと寄り掛かった。
「え、ああ、入浴剤ね……嗅いだことのない甘い花の香りがしていて……ルビィが睡蓮の香だと言っていた」
「お前には、ちょっと香りが強かったかもしれないな」
「いや、たまにはああいうものも良いものだと思ったよ」
「そんなに気に入ったのか?」
「元々、花の香りは好きだから。フリックのものだと知っていれば、錠剤を取っておいたのに。そうすればフリックも楽しめ────」
言うなり、ぐ、と首が締められる。道着の襟を後ろから引かれたのだと気付いたのは、器用に片手で首元のボタンを外された瞬間だった。
「それには及ばない。どんな匂いだったのか……今、確認させてもらう」
案外がっしりとした指で、解かれた独特な風合いのバンダナが摘ままれている。それがティアの目の前まで持ち上げられた後、あっさりと手放された。
綿の生地が机と書類の上に波を描いた。次いで、空いた手で髪を整えるように優しく、頭を撫でられた。
フリックの頬が項に当たる。くんくんと鼻を鳴らす様子に、道着の隙間から顔を突っ込んでいる図が簡単に想像できてしまって、ティアは人知れず顔を紅潮させた。
「フ、フリック!」
「微かに、花のような芳香がするな……」
肩と背中を行き来しながら、何度もフリックの鼻の頭が肌を滑る。これが動物ならば可愛らしいものだが、今現在フリックが行っているそれは、子犬の戯れというよりも獅子の舌なめずりだ。吟味するように触れる様に、ぞわりと、鳥肌が立つ。
「とても、良い香りだ」
耳元に息を吹き込まれて、過剰なまでに肩が跳ねた。そんな様子に、背後にいるフリックがくすりと笑う。
「そっ、そろそろ行かないと!」
「もう少しだけ」
「やめ……ひゃっ!」
生温かい濡れた感触に、つい出してしまった声が狭くはない執務室に響く。
やめない、と静かに呟いたフリックに異を唱えるため振り向いた拍子に目が合ってしまった。雄弁に語るその視線に、止めないという台詞が冗談ではないことが否が応に理解できてしまって、ティアは衝撃を受けるのと同時に振り向いたことを激しく後悔した。
「ティア……」
囁かれた声に反論しようにも、首筋を銜えるように歯を立てられて、竦み上がってしまった己には到底出来そうにもなかった。水音を立てて往復するフリックの頭の動きに合わせて、彼の前髪が僅かに揺れている様を視界の端に認める。
心の臓が煩いほどに早鐘を打つのに合わせて、カツンカツンと階段を上がる靴音が響いているのを、ティアは聞き逃さなかった。
「マッシュが来るから……」
「もう少しだけ」
「マッシュが来るって言ってるだろ!」
「……分かったよ」
「ん……っ」
ちゅ、と触れるだけの口付けを項に落としてから、フリックは寛げられた襟元を引き上げた。くるりとデスクチェアーを回転させて正面を向かされると、若干皺の寄った道着を左右に引っ張るように正される。
覚束ない足取りだったものの、今度こそ立ち上がることができたティアは放置されていたバンダナへと手を伸ばすが、フリックにその手ごと掌で包まれて握り締められた。
「俺が直す」
「……それくらい自分でする」
「いや、俺がやる。お前はそれよりも、真っ赤な顔をなんとかしたほうがいい」
「誰のせいでこんなことになったと思ってる?」
本当はこんな形で終わらせるのも癪であるし、想定外なんて言葉では不十分なほど意外なフリックの一面を垣間見てしまったのだが、今ここでその件に触れる勇気をティアは持ち合わせていなかった。
こちらとしては、精一杯の嫌味を言ったつもりだったのに、フリックは微笑みを絶やすことなく頭上でバンダナを被せてくる。
「嫌だったか?」
「全然、なんて言うわけがないだろう……」
「悪かった。後でお菓子でも持っていくから」
「食べ物で懐柔しないでくれ」
とは言ったものの、菓子一つで元の間柄に戻れるならそれでもいいとすら思えるほどに酷く緊張していた。
ティアにとってフリックは、頼りになる副リーダーであり、年の離れた兄のようでもあり、大切な人を目の前で死なせてしまった若干の負い目もあり、様々な要素を含ませた複雑な存在だった。
恨まれる可能性はあれど、フリックからこのようなことをされる所以に思い至らない。
そう、それはまるで、恋人のような──
その考えに至るより前に、ティアは勢い良く顔を横に振った。冷静にならねばならないというのに、自ら泥沼に陥りそうになる。
「ティア殿、おはようございます……おや、フリック殿もいらっしゃるとは」
控えめに扉を叩かれた後、マッシュが部屋に入ってきた。幸いなことに、軍師の興味は俯いている軍主ではなく、その横に立っていた青年に向いたらしい。
「ティア殿に何か御用でも?」
「ああ、話したいことがあってな。ティアのバンダナが曲がってたから、直してたんだよ」
「マッシュ。フリックはどうやら体力が有り余っているらしい。遠征するときは真っ先に声をかけてほしいと」
「お、お前なぁ!」
「そうでしたか。それは助かりますね」
悪びれる様子もなく嘘を吐くフリックに、これくらいの報復は許されるだろう。
マッシュとは裏腹に引き攣った顔で冷や汗を流すフリックを見詰めながら、ティアは未だに落ち着く気配のない鼓動に気付かないふりをした。
「坊ちゃん、フリックさんと何かありました? フリックさんの匂いがしてますよ」とグレミオに指摘され、卒倒するティアの姿が見られたのは、その日の入浴時間のことだった。