▽
反乱軍と会議で名を付けられた、反勢力の集団を監視してほしい。
それは皇帝閣下直々の命ではなくアイン・ジードたっての願いだった。国の重鎮が表立って動くことがあっては帝国の──バルバロッサの威厳に関わるということらしい。概ねその提案は理由を含めて同調できるものだったため、サンチェスは少し思考を巡らせた後、同意した。
今思えば、そのときのアインは何とも言えぬ複雑な表情を浮かべていた。諜報員だと知れればこの身がどうなるか分からない。危険な任務を与えた故の思慮だと思っていたのだが、サンチェスは遠くないうちにその表情の意味を理解することになった。
反乱軍リーダーと遭遇したのは、寂れた街の酒場の一角であった。
酒場と言っても食堂を兼ねているような店だった。村に数件しかないという食事処はここの土壌の寂しさを払拭するかのように活気に満ち、それと共に情報にも溢れていた。酒場の隅で会話に花を咲かせながらグラスを傾けている集団。この姿だけを見ると帝国に楯突こうという輩には到底思えなかった。
「ワインはお好きですか?」
どう交流しようか。考え倦ねた結果、女性が手にしていた赤ワインが目についた。
屈強な男達よりも声をかけやすいだろうと判断したからだ。
動き一つひとつに品があり、凜とした佇まいの彼女は、もしかすると良家の娘なのかもしれない。雑多な酒場に似つかぬその姿は、サンチェスの目から見ても美麗な女性だった。
まさかその女性こそ反乱軍のリーダーとは露知らず。
「そうね……ワインは好きでもあるし嫌いでもあるの。忘れたいけど忘れてはならない味だから」
ああ、〝博覧強記のサンチェス〟だなんて呼ばれていたというのに。
あのときの、オデッサの表情が思い出せない。
いつの間にか、サンチェスは解放軍の一員となっていた。情報を盗むための仮初めの姿ではなく、国を思い、民を思い、このままの帝国ではいけないと行動する彼女の意志に感化されたのか、まるで仲間のように何かしてやりたいと思うようになってしまっていた。
己に潜む矛盾に苛まれながらも、サンチェスは望まれた役割を遂行するよう努めた。その信念は一度も曲げたことはない。帝国から反乱軍の情報が欲しいと言われれば望む物を与えてきたし、解放軍が知恵を貸せと言えば今の己に出来うる限りの情報を提供してきた。
だからこそ、サンチェスは新芽を摘むよう命じてきた帝国にアジトの場所を伝達し、その上で彼女たちが何とか逃げ延びることが出来るよう努めた。
まさか、あの場でオデッサが子供を庇って命を落としてしまうとは。
己の役目が終えることに安堵し、同時に寂しい気持ちになっていた。
オデッサが戦死したことで風前の灯火となっていた解放軍が、ビクトールが連れてきた五将軍の嫡男によって見る見るうちに立て直されていった。
烏合の衆が、帝国が恐れていた軍隊となっていく様は天晴れと言わずにはいられない。
軍主の魅力に感化された者、軍主の犠牲を伴って仲間に引き入れられた者、情勢の変化を目敏く感付いた者──年齢も性別も立場すら異なる面々が湖城へ集結していった。
オデッサが主であったなら、こうも着実に勢力を拡大させることはできなかっただろう。それは彼女に兵を纏め上げる器がなかったからでは決してない。
かの有名なテオ・マクドールの息子であるティアは、外見、年齢ともに未成熟な印章が拭えなかったが、戦争に関する判断に関しては迅速かつ的確で、血は争えないものだとサンチェスは背に冷たいものが伝う思いがした。
以前の帝国側の密礼は、何とかしてティアを浚うようにといった内容が多かった。
それは子を想う親の願いなどではなく、五将軍の嫡男が帝国に反旗を翻すなどあってはならないと、帝都に呼び戻した後見せしめにするためのものだったに違いない。
それが軍主の動向を監視するよう内容が変化したのは、ティアが実の父親をその手にかけてからだった。身内に手をかけることを禁忌としている赤月帝国にとって、五将軍とも呼ばれていた実力者が嫡男によって殺められたという事実は、瞬く間に全土へと広がっていった。
帝国を崇める者には畏怖を、帝国に思うところがある者には尊敬を集めた解放軍軍主は、テオが率いていた軍隊をも取り込み、その勢力を急激に拡大させた。
この頃には密かに恐れられていた真の紋章の存在など既に意味は無く、人々を導く才能を開花させた軍主はその能力を表立って使わずとも、帝国に対抗できるようになっていた。
──ティアは、既にうら若き少年の面影など残っていなかった。
それを悲しいと思ってしまったのは、サンチェスに残っていた憐れみの心なのかもしれなかった。
眠りに落ちた竜を目覚めさせるために各地を巡っていた最中に帰還したティアは、珍しくどこか憔悴しきった様子を滲ませていた。声をかける間もなく、それを見かねた周囲の付き人諸共どこかへ立ち去っていった。それは食堂か、酒場か、それとも浴場か。サンチェスには知る由もない。
機会は決して多くはない。サンチェスは自然ととある場所へと歩を進めていた。
「……おや。あなたが一人でここにいらっしゃるとは」
珍しいこともあるものだと、解放軍軍師・マッシュはそんな口振りで言った。
オデッサが率いていた反乱軍とは勝手が違う、片足しか属していない己が軍の動向に口を出すのが憚られ、軍師と面と向かって二人きりになることなど数えるほどしかなかった。
帝国に誠実であれ。解放軍に誠実であれ。
それは確かに守られているはずであるのに、胸に刺さる蟠りは確実にサンチェスを内部から侵食し、腐していた。
「ティアさん、何かあったんでしょうか」
「さあ、それは私にも分かりかねますが……心配することはない。彼は平気ですよ」
この場に残り香のように漂う不安を同様に感じているだろうに、マッシュはサンチェスの言葉に一笑して見せた。
それは軽んじているのではなく信頼の証なのだと、季節が移り変わっても傍で見続けてきたサンチェスは思った。壮年と若年、歪とも思える二人の要は多くの言葉を交わさずとも相手の挙動が見て取れるのだろう。
「実は、折り入って相談があるのです」
「……これはこれは。私で良ければどうぞお話を」
「己の為すべきことと感情の向かう先が異なる場合、どのように折り合いをつけていくべきなんでしょうか」
言葉を紡いだ後、サンチェスは思わず口許を手のひらで覆った。
まさか、己が内に秘めていた思考を表に出すなど思っていなかったからだ。それも、一番隠しておかねばならない人間の目の前で、だ。
マッシュは顎に手を当て、何かを考えている様子だった。
「失礼を承知で申し上げますと……その考えは実に烏滸がましい」
「烏滸がましい、とは?」
「そのような悩みに折り合いなど、決してつきはしない。この世は安易にそれが成立できるほど単純なものではないからです。その差異に悩み苦しんでいるのはサンチェス殿、貴方だけではない。この国に──いえ、この世界に生きる者は少なからず抱く悩みです」
「貴方も、それを抱いている、ということですか」
ついで出た言葉に、マッシュは返答せず薄らと笑みを浮かべた。
「ですので、折り合いではなく納得できる選択を。私が言えるのはこれくらいです」
言葉少なに、しかし言い当てられた迷いに、サンチェスは早鐘を打つ鼓動を抑えきれなかった。
その場しのぎの会話を繰り広げた後、マッシュの元を逃げるように去った。その足が震えてしまうのを床を踏みしめて抑え込む。
一面水に囲まれた本拠地は、常にひんやりとした空気を湛えている。温暖な気候の赤月帝国でそれを心地良いと思いはすれ、寒気を感じることなど無かったというのに。
感覚を研ぎ澄ますように普段は閉じている彼の人の眼が、サンチェスの言の葉に合わせて開かれていた。底をさらう力を孕んでいるような瞳だった。
この男はどこまで見抜いているのだろう。
その疑惑は、サンチェスの中に恐怖を芽吹かせるには十分であった。
──ああ、私は誠実ではなかったのだ。
帝国にも解放軍にも、己の本来の姿を露見したくなかっただけだ。
違和感に気付いてしまえば、堕落するのもまた、早かった。
深々と刺さった腹部のナイフとマッシュの表情を見比べながら、サンチェスは呆然と立ち尽くした。じんわりと、血だまりが広がっていく。
何てことを。何てことを。脳内で輪唱するように慟哭を響かせながら、体は勝手に動いていく。
命じられるがまま仕込んでいた油に松明を落とすと、風の煽りを受けて火は瞬く間に燃え広がりシャサラザードを包み込んでゆく。このまま全て燃え尽くしてほしいと願った心境とは裏腹に、彼らは作戦をやり遂げて戻ってくると、確信に近い予感がしていた。
程なくしてティア達一行は姿を見せ解放軍の面々が現場に出揃い、サンチェスは身柄を拘束された。当たり前だ。そうされるようなことを己はしでかした。
洗いざらい真実を吐き出すと憤慨したフリックが愛剣を引き抜き煌めかせた。サンチェスは自然と首を差し出していた。信念を忘れ矛盾に苦しむくらいなら、今この場で命を潰えたほうが遙かにいい。
それを止めたのは、あろうことか重傷を負わせたマッシュだった。解放軍の幹部であるサンチェスがこの場で殺されれば軍の士気に関わると宣った。
歯車はとうの昔に動き始め、人一人駆けたところで戦火の渦が鳴りを潜めるとは思えない。マッシュの提案は、サンチェスの介錯ではなくその先にある首都に攻め入る算段を既に立てていた故のものだろう。
応急処置が施されていく中、マッシュはただ、サンチェスを見詰めていた。
──貴方の選択は本当にそれで良かったのか。
その目から滲んでいるマッシュの感情は、己に対する憐憫なのかもしれなかった。