坊ちゃんと世話係 ※獣軸暗がりの中、カチャカチャと食器のぶつかる音がする。音の発生源へと足を進めると、幼い少年がお気に入りの人形を抱えながら食事を採っていた。私を見るなり、ぱぁっと表情が明るくなる。檻を隔てて、少年と向き合った。
『おはよう、Q。今日は少し外に出ようか』
「おはようお姉さん!それ本当…!?僕、外に出るの久しぶりだから凄く嬉しい!」
此処はポートマフィア拠点ビル。幹部級の人間でしか入れないその部屋に、少年は一人閉じ込められていた。夢野久作___通称Q。純新無垢なその性格とは裏腹に強力な異能を持っているため、首領の許可がある時以外は監禁されているのだ。
『ご飯食べたら支度しておいで。首領の所行ってくるから、また後でね』
「はぁい!」
『あんまり急ぐと喉に詰まらせちゃうよ』
Qは精神操作系の異能力の持ち主。幼いながらに牢に閉じ込められている為、精神が不安定になりやすい。それは彼の身を預かっている私たちポートマフィアにとっても危険であるということで、気分転換として外に連れ出すことがある。
この子がポートマフィアに来た時に、私は既に此処に所属していたのでよく面倒を見ていた。首領が同僚である太宰治に代わった際、直々に世話係を命じられたのだ。
『首領、柳生です。失礼します』
「…おはよう、伊織。今日は如何したんだい?」
『おはようございます。Qの外出許可を頂きに参りました』
ポートマフィアを統べる者。彼の名は太宰治。冷徹で腹の底が読めない男。同僚で幹部の中原が云うには、私は彼に気に入られているらしい。理由は身に覚えもないけれど、割と自由にさせて貰っている自覚はある。
「鳴呼、その事か。彼の管理は君に一任してあるから、好きにするといい」
『ありがとうございます』
「…伊織」
こうして彼は、時々私を引き留める。優しく、友人の名を呼ぶような声で。
「君は赤より、青の方が似合うよ。新しいブラウスを用意させようか」
私の朱色に染まったブラウスを見て、嘆くような言葉を放った。その瞳に何が映っているのかは判らない。きっと私には一生、理解できないものだ。
『折角ですが、業務上血で汚れてしまうので結構です』
「…そう。引き留めてすまなかったね。気をつけて行っておいで」
首領室を出て、真っ直ぐQの元へ向かう。Qは既に着替えも済んで準備万端だった。
今日はQの欲しがっていた玩具を見たり、お昼はファミレスに行ったり。ついでに、表向きは一般企業として経営している、うちの管轄下の店舗を視察したり。仕事もこなしながらQの世話係としての任務は果たせた。
「ふんふふーん♪お姉さんとお出かけ楽しいなぁ……わっ!」
そろそろ帰ろうとしていた時、Qが男の人とぶつかった。幸いQに怪我もなく、本人もご機嫌だった為然程気にしてはいないようだった。
『坊ちゃんが失礼しました』
「否、こっちこそ。
お詫びと言ってはなんだが…これ、良かったら。うちの坊ちゃんのお気に入りだ。美味いぞ」
「わぁ!ありがとうお兄さん!!」
衣嚢の中からお菓子の小包を取り出してQに差し出してくれた男。見覚えがある。異能力者のデータべースに載っていた。敵か、はたまた本当に偶然か。
思考を巡らせてみたが、この男の目は信じられないほど真っ直ぐ此方を見据えていた。慈しむような瞳でQを見て、優しくその頭を撫でる。害はないと判断した。
「ねぇ僕疲れた〜」
「そうか?じゃあおぶって行くよ。…俺たちはこれで」
彼の後ろから一人の青年が来たことにより、私たちは別れた。優しい空気感。互いに互いを大切に思っているのだろう。傍から見れば兄弟のような後ろ姿が、日陰で生きる私には到底明るすぎて、私はそっと目を背けた。
Qは幹部以外と接触したことがなかったけれど、心配は要らなかったみたいだ。表情がとても柔らかい。
「優しいお兄さんだったね!」
『…そうだねぇ』
彼は、私たち同様この街を拠点とする異能力者組織___武装探偵社の一員だ。彼が坊ちゃんと云っていた青年は江戸川乱歩。巷を騒がせる名探偵。彼には常に優秀な世話係が付いていると訊いていたが、先刻の彼がそれらしい。
Qは彼に貰ったお菓子の袋を開けて、嬉しそうに頬張っている。その小さな左手は、私の手を掴んだままだ。
『Qは、私に異能使わないね』
「うん…?」
『いいんだよ、使っても。……逃げてもいいんだ』
あの二人を見て、羨ましいと、思ってしまった。少しだけ、望んでしまったんだ。日向で生きることに。
でも血で穢れたこの身体は、彼らと同じ方を向いては歩けない。だからせめてこの子だけはと、世話係の彼に希望を持ってしまった。
『きっと私より、あのお兄さんの方が優しいし、君を大切にしてくれる』
以前、中原に「情が湧いたか?」と問われたことがある。私は否定出来なかった。きっとそうなのだろう。情が湧いたんだ。この暗い世界から逃がしてやりたいと、思ってしまった。この子は私が居なくなったら、一人ぼっちになってしまう。何時死ぬか判らない世界で、こんな子供を背負ってなんて生きていけない。
泣かせてしまうくらいならいっそ、明るい方へ送り出してやりたいと。
「お姉さ、」
「___鳴呼、やっと見つけた」
そっと、肩に手を添えられた。私は無意識に背筋を伸ばして彼に向き直る。
『首領…何故ここに』
「一寸用事があってね。ついでに君達を迎えに行こうと思っていたんだ。合流出来てよかった」
落ち着いた口調、変わらぬ表情。鳴呼、先程の言葉は聞こえていたんだな。
「駄目だよ。君は部下やQ…私を、置いていくのかい?」
『…いいえ。私の御身はマフィアに捧げています。出ていくことは有り得ません』
「そう。それならいいんだ」
首領がQを抱き抱えて、空いた手で私の手を引く。
そうだ。私の命は、過去の清算は、全て首領のお陰だ。この人を置いていくなんて、あってはならない。
「お姉さん、僕、お姉さんのこと好きだよ」
『…ありがとう。私も好きだよ、坊ちゃん』
頭を撫でると、坊ちゃんは嬉しそうに笑った。
この世界に正しさなどあるのだろうかと、自分に問うことが稀にある。その答えは未だ出ない。判らない、判らないけれど……優しさなら、あった。
探偵社の世話係くんのことを、きっと私は殺せないだろう。眩しくて、温かくて、恨めしいから。
もう二度と会わないように願いながら、私は暗闇の中に身を潜めた。