路を選ぶは自己の意志『___勝った』
天人五衰に、勝った。探偵社の無実が証明された。そう思った瞬間、力が抜けて地面に座り込んでしまった。身体中が悲鳴をあげている。地面に横になると、見上げた空は何処までも澄んでいた。探偵社の皆も満身創痍ではあるが無事のようだ。安心したら睡魔が襲ってきて、私は其れに逆らえず目を閉じる。落ちていく意識の中、脳裏に浮かんだのは苦しそうに顔を歪めて此方に銃口を向ける少女だった。
『すい、ちゃん…』
✳✳✳
ドストエフスキーが死んだ。告げられたその言葉は、意識が戻ったばかりの私の頭を一気に目覚めさせた。
『暫く此処を空ける。後始末は頼んだよ』
「おい待て伊織!何処へ行く心算だ!」
『…通して独歩。疾く翠ちゃんの処へ行かないと!』
「落ち着きなよ、伊織」
立ち塞がる独歩と力ずくでも通ろうとする私を、治はやんわりと手で制した。
___翠ちゃんはドストエフスキーに心酔していた。彼のことを恩人だと、自分の生きる意味だと云っていた。天人五衰と敵対すれば、勿論翠ちゃんとも敵同士になる。そんなことは判っていた。けれど、彼女の苦しみに歪んだ表情が、頭にこびりついて離れないのだ。
「君だってまだ万全では無いんだ。そんな状態で動いた処で、何の成果も得られやしない」
ぐっと言葉に詰まった。全く以て治の云う通りだ。だけど、だとしても、私は翠ちゃんを扶けたい。如何すればいい?今の私が、彼女の為に何をしてあげられる?ぐるぐると色んなことが頭の中を駆け巡って、それでも答えなんて出なくて、私は強く瞼を閉じた。
「何時もの直感はどうしたのさ」
棒キャンディを片手に、乱歩さんが医務室へ入ってきた。普段と何ら変わりない表情で、私の前に立ってじぃと此方を見詰めてくる。
「何を不安がることがあるの?武装探偵社には名探偵である此の僕が居る。翠の件なら、もう敦達が動いてるし。
うだうだ考えるなんて君らしくもない」
飴を此方に向けて笑顔で云い放つ彼に呆然とした。そうだ、何故私は何時までも一人の心算で居たのだろう。先の事件を解決に導いてくれた乱歩さんが居る。長年連れ添った友人である治がいる。私と同じように、翠ちゃんを大切に思う仲間が居る。怖いものなんて、何も無いのだ。そう思うと自然と口角が上がり、周りの皆も安堵したように肩を竦めた。
『…その云い方じゃまるで、普段私が何も考えていないみたいじゃないですか』
「あながち間違ってないだろ?」
『ふは、酷い云われようだなぁ』
拳を握ったり開いたりする。大丈夫、怪我は与謝野先生が治してくれた。携帯を開き、フォルダから翠ちゃんとの写真を開く。彼女と出会ってからそう時間は経っていないけれど、数え切れない程の思い出が出来た。
彼女の笑顔は、きっと私が___。
「居場所は僕が特定する。だから伊織は、必ず翠を連れ帰ってこい」
『はい!』
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肩で息をして、ただひたすらに階段を登る。乱歩さんから連絡があり、翠ちゃんの居る場所が判った。翠ちゃんはとある建物の屋上に居る。如何せん、今の翠ちゃんは何時“死”という選択をするのか判らない。一刻も疾く彼女の元へ行かなければ。
『っ…待って!!』
扉を開けると、彼女の柔らかい髪が重力に逆らってふわりと靡いているのが目に入った。心臓を鷲掴みにされていると錯覚した。息が詰まる感覚がした。私は反射的に異能を発動させる。
『異能力___朱殷に染まれ!!!』
「わっ…!?」
ワイヤーを創造して彼女の身体を引っ張り上げる。自殺嗜好の友人がいるのだから、飛び降りを阻止するのなんて慣れたものだ。
彼女の身体を抱きとめると、その温かさに安堵して足の力が抜けた。嗚呼…生きてる。
『良かった…間に合った……』
「なんで…、なんで…?」
状況が理解出来ていないと云うように、何度も同じ言葉を繰り返す。
共喰いの時に対峙して以降、翠ちゃんを見かけることは無かった。其れに私は安堵した。彼女を前にしたら、私はきっと戦えなかっただろうから。けれど、今強く思う。どれだけ手を伸ばしても届かないのは、恐ろしく怖い。
『翠ちゃんが…ドストエフスキーの死を、知るのは…今日だって……乱歩さんが…っ推理して、くれたから…』
「……………違います」
震える声と指先。翠ちゃんは俯いた儘だ。其の言葉の意味が判らなくて、私は息を整え乍ら首を傾げた。
「なんで私を助けたのかって意味です。…分かってた筈じゃないですか?私が、人を手にかけていることなんて」
『…うん』
「私があの人に忠実なことも、好きなことも」
『…分かってる』
「………もう、戻れないことも」
楽しく夜中まで電話して、遊んで、お泊りして、ご飯を食べて騒いだ…あの頃の思い出が脳裏を駆け巡る。同時に、私は翠ちゃんを抱きしめた。
「…ねぇ、離してください」
『嫌だ』
「……離して」
『やだ!』
強く云うと、彼女は小さく肩を震わせて押し黙った。
『だって、離したら翠ちゃん、死んじゃうでしょ。駄目だよそんなの』
翠ちゃんはまだ十九歳。自立したてで、周りの大人が導いてあげなければならない。彼女が誤った路を進むなら、死ぬという選択をするのなら、私が手を引いてあげるんだ。絶対に、死なせない。
『まだ翠ちゃんは戻れる。戻れないことなんてないんだよ』
だって、私がそうだから。変われるの。今からだって遅くはない。
『ねぇ、最後のお願い。私と一緒に来てくれない?』
「……!」
漸く翠ちゃんが顔を上げた。唇を噛んで、何かを耐えるような表情をしている。そんな顔しないでさ、ねぇ、何時もみたいに笑ってよ。
「なんで、何で止めちゃうの。なんで、わたし、わたしは、もう生きる意味なんてないんだよ?ねぇ、伊織さんがどれだけ止めてくれても、もう、人を殺したんだ。頭目のことも、忘れられないよ」
これから少しずつ償えばいい。忘れなくていいんだよ。
翠ちゃんの大きな瞳から、滴が零れ落ちる。
『それでも、翠ちゃんを此処で死なせる訳にはいかない。私も、翠ちゃんが大切だから』
翠ちゃんにつられて、私も我慢していたものが溢れ出てきた。歪んだ視界の先で、翠ちゃんが目元を擦り乍ら私の服の袖を掴むのが見えた。
「………迷惑かけちゃう」
『いいよ』
「もしかしたらまた人を傷つける」
『その時は私が止める。絶対に』
迷惑なんて、かけてなんぼだよ。私たちは友達なんだから。
嗚咽を漏らし乍ら泣く彼女を、私はただ抱きしめていた。私よりも幾分か小さな身体。壊れないように、そっと頭に手を伸ばし、触れる。
ドストエフスキー。最初から最後まで気に食わない奴だった。……けれど一つ。たった一つ感謝できる処と云えば、翠ちゃんを残してくれたことだ。何を考えているのか判らないような奴だったけれど、そんな彼にも居たのだ、大切な人が。自分の命が尽きようとも、守りたい女の子が。
『…ほら、帰ろう、ヨコハマに』
泣いて、泣き止んで、それから。
私たちは互いの手を取って立ち上がった。今度こそ離さぬようにと、しっかりと手を握る。
一緒に歩もう。多くの人を手にかけた私たちは、きっとこれからも沢山辛いことを経験する。けれど二人なら、一人じゃないなら、乗り越えていけるはずだから。君が立ち上がって笑うなら、私は幾らでも手を貸すよ。罪を背負って、路を進もう。
「大好きでした。フョードルさん」
涙が一粒地に落ちた。
彼女の想いは、風に乗って空へと消えた。