仗露道場2024/10/26「キス」(2022/12/4お題) ぼくの家は、ぼくがぼくのために建てたものだ。ひとりで住むにはデカすぎるとか大工連中にすら言われたが、ぼくがぼくに必要なスペースを熟考して割り出した結果であって、今振り返ってもその計算に誤りはない。諸事情でいっとき手放したこともあるがほどなく買い戻し、もう二十年も住んでいる。
だというのに、なじんだ我が家を今はやたら広く感じる。
思い当たる理由はあって、今朝から仗助がいないのだった。静に招かれ朋子さんと二人、ニューヨークへ行っている。ぼくも誘われたが四十年近くぶりの、それも無言の逢瀬の邪魔をするほど野暮じゃあなかった。実際、仕事も忙しかったし。
出勤したら必ず泊まりの仗助は、もともと週の半分は家にいない。ひとりは慣れっこのはずだった。ただ取材旅行もしょっちゅうのぼくとは違い、何日も続けて留守にすることはなかった。本来なら、今日は家にいたはずだ。
ふたり、ひとり、ふたり、ひとり。このサイクルが狂ったための違和感かとも思ったが、あいつが出発してまだ半日も経ってない。「サイクルが狂った」とかほざくには、いくらなんでも早すぎるだろう。
認めたくはないがいまいち筆も乗らなくて、あきらめて早々にペンを置いた。ジムでキツめのトレーニングをやり、帰りにカメユーに寄る。
作り置きしていこうかなんて過保護な申し出をつっぱねた手前、食事をおろそかにはできない。ポケットマネーでちょっと高めの食材を買い込み、むやみに時間のかかる凝った料理を作り上げた。無心に手を動かしている間は気が紛れ、できあがった時は達成感もあったが、いざひとりで食うとなると虚しさが漂う。しまった、康一くんでも招くんだった。とはいえ平日だし、いきなり連絡するわけにもいかない。プッツン由花子がキレまくるだろう。いちばん下の小僧は、確かまだ三つかそこらだったはずだ。
孤独な晩餐をそそくさと終え、早々に風呂に入ることにする。気に入りの入浴剤を溶かし、半身浴しながら二時間ほども読書した。仗助がいたらできないことだ。昔は習慣にしていたことで、そういえばこんな感じだったなあ、と若い頃を思い出したりした。
くり返すが、今だって週の半分はひとりだ。だがいつしかひとり暮らしだった頃とは、いろんなところが少しずつ変わっていたようだ。そんなことにも今の今まで気づかなかった。
念入りに髪を乾かし、日課のストレッチをする。あれだけ長湯したってのに、時間はまだまだたっぷりあった。何なんだろうな、これ。ぼくは現代人にしてはセカセカ時間に追われてないほうだと思うけど、それでも普段はいったいどう過ごしてたんだっけと首をひねった。
暇だ。そして、この暇がよくない。暇だとついつい仗助のことを考えてしまう。するとますます時間の経つのが遅くなる。この岸辺露伴に、こんな情けない一面があったなんてな。
電話が鳴って、うたた寝から飛び起きた。とっさにスマホを取り上げるとすでに十二時近い。
まさかと気が逸るまでもなく、こんな夜中に電話してくる心当たりなんか他にない。それ以前に、無粋な文明の利器はホーム画面に思いっきり発信元を表示していた。
『ろはーん、寝てた?』
約十三時間ぶりののん気した声だ。肯定するのと否定するの、余裕そうに聞こえるのはどっちだろうと考えながら、「まあな」と曖昧に返事する。
だいたい、いつぶりとか言うほどでもない。S市の空港まで車で送っていって、プライベートジェットが離陸する直前まで一緒にいた。時間的に、飛行機を降りたばかりぐらいのはずだ。どんだけ辛抱きかないんだよ、あいつ。
『すっげー寂しい。露伴も来られればよかったのに』
「仕事だっつったろ」
『そーなんだけどよォ』
ガキっぽいふくれっ面が目に浮かぶようだ。たわいもない会話をふたことみこと交わして、ぼくはとっとと電話を切った。
岸辺露伴はどこまで行っても漫画第一だ。他のものを漫画以上に大切にすることはない。その現実を、あいつは「仗助くんはちゃあんとわきまえてるっスよ。大丈夫、おれは漫画以外の露伴を全部もらうんで」と笑ってみせる。どんな時でも瞳の奥に一ミリグラムだけ残した理性をつめたく光らせながら。
だが仗助は知らない。漫画だけに人生を捧げるはずだった岸辺露伴が、何の因果か漫画と同じぐらい大切なものを持つに至ったことを。
ベッドサイドにスマホを置く時、自分の手が目に入った。左手のくすり指に、いつしかまるで生まれた時からつけてるみたいになじんだ指輪がそこにある。それまでそんな習慣がなかったぼくは、「描くのに邪魔だったら外すからな」と宣言していたが、結局十年以上前のよく晴れた春の日、仗助にうやうやしく嵌められて以来ずっとそのままだ。
小さく鈍い輝きに、ぼくはそっと唇を落とした。
この岸辺露伴にこんな一面があることは、誰も——仗助でさえ、知らない。