仗露道場2024/12/7「卒業」(2023/3/5お題)「今日は来てくれてありがとう」
相手の話がひととおり済んだところで朋子が述べると、差し向かいの青年はいぶかしげな表情になった。
「あたしのほうも、露伴先生とは一ペン話がしたいと思ってたのよ。絶対言っときたかったことがあったもんだから」
まるで心当たりがなさそうな様子を眺めやりながら、朋子はダイニングテーブルに肘をついてゆっくり両手の指を絡めた。
「あんた、あたしを理由に、ウチのかわいい息子を振ろうとしてたっていうじゃあないの。もしホントだったら、『てめー、ふざけんな!』とでも言ってやんなきゃ気がすまないわ」
天才漫画家はかしこまった姿勢のままで絶句している。こんな彼を見た者は多くはないのだろうと思うと、はなはだ愉快な心地になった。
「で、どーなの? あたしに孫抱かせてやれとかってしょーもないこと、マジにあいつに言ったりしたの?」
「いや……ぼくは」
「あたしも一方的に先生を疑ってるわけじゃあないのよ。あいつの取り越し苦労なんじゃあないのって気もしてて、だからちゃんと確かめとこうと思ったわけ。あのバカは一見温和だけど、根っこのとこじゃあ先生にも負けないぐらいブッ飛んでるからね」
「それは」
「ねえ、考えてもみてよ。自分とつき合ってるせいで先生のご両親に申し訳ないとか、仗助が一ペンでも言ったことある?」
水を向けると、露伴は初めて思い至ったようにハッと息を飲んだ。
「あいつは心の底の底では、世間だの常識だのクソくらえって思ってんのよ。ま、ある程度はあたしとジョセフの責任もあると思うけど」
「……」
「たいてい逆でしょ。そんなのくだらないって思ってても、最後のとこではないがしろにできない」
唯一無二の才能を持ち、独特すぎるファッションで町を闊歩しながらも、とっくに成人した息子にプロポーズさせてもらうとわざわざ断りを入れに来た露伴もそのクチだ。それを、教師の観察眼で朋子は看破していた——仗助も言っていたとおり、岸辺露伴は存外普通の人なのだと。
「だから、先生がそこんとこ気をもんだとしたって無駄なのよ、無駄無駄。だいたい幼稚園からあのアタマで通してるヤツが、外野のどーだこーだなんてまともに取り合うと思う?」
「……確かに」
露伴は細く息を吐き出した。呼吸することを、ようやく思い出したとでもいうように。
「あなたは、ぜひ確かめておきたいと。それでは言わせていただきますが」
露伴はいずまいを正すとおもむろに口を開いた。
「あなたが言ったようなことを、ぼくはあいつに告げたことも、考えたこともありません。それはぼくを選んだあいつの問題であって、ぼくにどうこうできることじゃあ……もっとはっきり言うなら、ぼくの知ったことじゃあない」
「ふーん?」
朋子は唇の両端を引き上げた。面白いことになってきた。
「あいつがあなたに、岸辺露伴はそんなことを気に病む人間だと言ったのなら誤りです。いや、ぼくはあいつになめられてるってことになる」
ムカッ腹が立ってきたぞ! とひとりでエキサイトしている露伴を、朋子は思わせぶりな上目遣いで見た。
「ねえ露伴先生、いいこと教えてあげようか。孫がかわいいとかってのも、大事な我が子の子どもだからこそなのよ。大好きで大切なのは、まず何よりも我が子なの。孫なんてそのオプションみたいなもん」
小さくない負担をかけて都会へ出してもらいながら、もう会えない男の子どもを宿しておめおめと帰郷した。曲がったことを許さない父親になんと言われるか、朋子は戦々恐々としていたが。
——後悔しないとおまえが言ってるのに、なんでわしらが文句つけるもんかね。おまえの子どもだと思えば、腹の子だってきっと愛せるさ。
その言葉どおり、いや以上に、両親は朋子と仗助を愛してくれた。見知らぬ男の面影を年々濃くしていく仗助を受け入れ、心底慈しんでくれた。
だが、一度だけ。幼な子を抱えた同僚が、若くして妻を亡くした時に。
——あのね、父さん。仗助の父親のことなんだけど。
——……。
——もしあたしに何かあったら、仗助の身内はもう父さんだけでしょ。だから。
——聞きたくないな。
——父さん……?
——一生絶対許さない男の話なんぞ聞きたくないし、おまえが大事に育てたあの子を、そんな野郎に渡すものか。だいたいおまえに何かあったらなんて、喩え話でも聞きたくないッ!
「こんな話、仗助には聞かせらんないけどね」
朋子がおどけて付け足すと、露伴は珍しいまだらの瞳をキラリと光らせて「それは興味深い」と述べた。
「ちなみに、ぼくは面と向かって言われましたよ」
「え?」
「ぼくは高校卒業直前に父親がこっちに転勤になって、ひとりで東京に残ったんです。母の実家があったので、そこに居候してました。一緒に暮らした祖母というのが、ぼくの性格は突然変異とかじゃあなくこの人からの隔世遺伝だろうと、一族郎党満場一致で——ま、ひとことで言うとそんな人でした」
ほんとにひとことだ。朋子はつくづく感心した。会ったこともない老婦人が目に浮かぶようだ。
「ぼくは在学中にデビューして、言うまでもなく目が回るほど忙しかった。それでもちゃんと卒業したのは、両親が『高校だけは卒業してくれ』とかうるさかったから、じゃあなくて百パーセント自分のためです。高校生活のリアリティを得ておくことが目的だったから、それ以外はどうでもよかった」
卒業式の直前に急な締切が重なり、漫画家生活で後にも先にもない三晩の徹夜を強いられた露伴は、心身ともに疲労の限界だった。いいや、予行でひととおり経験したしとサボリをきめ込もうとした露伴を、しかし祖母は容赦なくベッドから蹴り落とした。
——あっちから母さんが来るんだろ。あんたが無事卒業してくれたって、そりゃあうれしそうだったよ。
——そうだよ、卒業したさ。だから別にいいだろッ。式なんか出なくったって、お望みの高卒にはなれるんだぜ。
漫画を一生の仕事と思い決め、すでに成果も挙げている。そんな自分が、成績だって明らかに足りてないのに、形だけの学歴を得て何になる。睡眠不足で殺気立った露伴がとげとげしくまくしたてると、小柄な老女は眉ひとつ動かさずに言い放った。
——ああ、同感だね。免状のために学校に行くことも、あんたが一生懸命描いてる漫画とやらも、あたしに言わせりゃ等しくくだらないよ。
——だったら。
——でも、あの子がそれを望んでる。免状もらって立派になったあんたと門の前で写真を撮ることを、あの子は心底望んでるんだ。あたしの娘のささやかな望みをブチ壊すことは、いくらあの子の息子だって許さないよ。わかったらさっさと着替えなッ。
「そんなにも娘思いだったかというと、これが全然そんな感じじゃあなかった。ワガママ勝手で突拍子もないことばかり言う祖母に母はしょっちゅう振り回されてたし、母は母で祖母をまるで理解してなかった。それでも娘を取ることがぼくには実に興味深かったんですが、それはある程度一般的な心理だってことが、あなたの話で証明されたわけです」
こともなげに肩をすくめ、露伴はありがとうございますと上体を傾けて会釈した。
「とても参考になりました。いつか漫画に活かせそうです」
「ついでに、無事プロポーズもできそうだし?」
朋子がからかうと、席を立ちかけていた露伴が動きを止めて振り返った。
「まあ、そうですね」
「そーいうわけであたしのことは気にしなくていいから、存分に添い遂げてちょうだい」
はい、と露伴はまじめくさってうなずく。
「なんか、先生とは気が合う感じがする」
言ってやると、露伴は今日初めてニヤッと不敵に笑ってみせた。
「そうですね。あなたの息子さんよりよほど」