無自覚から始まるやまみつ(始まる前) 目覚ましの鳴らない朝。カーテンを開けて差し込む光は既に朝日ではなくなっている。部屋着のスウェットのまま、眼鏡を手に取ってリビングへ向かった。
掃除機をかけていたミツが、部屋に入ってきた俺に気づいて動きを止めた。
「おはよーさん」
「もう早くねぇよ!」
ミツは掃除機のスイッチを入れ直して、おっさんオフの日だと絶対朝起きないよな、とかき消されないように大声で叫んでいる。だってオフの日だ。毎日毎日頑張って仕事して生きてるのに、休みの日に休まなくてどうする。なんて、同じくオフの日だが俺とは打って変わって朝から家事全般をこなしているミツに豪語するには若干気が引ける。
「真面目なもんだねぇ……」
「手伝ってくれてもいいんだけど?」
さほど大きな声で言ってなかったはずの言葉を拾われて返された。それには応えずミツの隣を通り抜けて、冷蔵庫に向かう。中から一本の缶ビールを取り出し、振り返って軽く持ち上げた。
「ミツもやっちゃうー?」
「こんな昼間っから飲むのはおっさんだけだよ」
呆れたように笑ってミツは、このあとオレ買い物にいくから、と続けた。どうやらちょうど掃除も終わったらしい。掃除道具を手元にまとめて片付けに、リビングから離れていった。その姿を見送って、もう一度冷蔵庫の中を覗く。何かつまみか昼飯になりそうなもの……。あまり冷蔵庫の中のラインナップは豊富じゃなくて、ミツが買い物に行くと言っていたことに得心がいく。結局冷蔵庫はただ開けただけで、缶ビール以外は何も取り出さずに扉を閉めた。
カップ麺でも食べるかな、と戸棚の中のストックを何個か取って眺めて戻した。なんとなく、気分じゃない、気がした。冷蔵庫の前に戻って再度開いて、閉じる。何度見たところで内容が変わるわけでもないのに、無駄な動きを繰り返していた。
「おいー、諦めんなよー」
部屋に戻ってきていたミツの声に、振り返る。
「いやー。何もないのよ、中に」
「つまみになるもの作れるくらいは残ってるだろ?」
何度も開閉された扉がまた開かれる。俺の隣でひょっこりと頭を出して、ミツも一緒に冷蔵庫の中を覗いた。すぐにいくつかの食材を手にして取り出していく。
「お、何か作ってくれるの」
「それ待ちだったくせに」
ミツはスライスチーズを手に持って、その肘で俺の横腹を押した。鈍い痛みに、へらっと笑って、その場で缶ビールの栓を開ける。一口飲んでから、全部ミツに任せちゃえ、と甘えてソファにだらしなく腰かけた。
「大和さんはさぁ」
「んー。何ぃー?」
「大和さんはさぁ。自分のためだと諦め癖あるよな」
トースターにアルミホイルをセットしながらミツが呟くように言う。その声は少し離れたところにいる俺にもはっきりと聞こえた。
「今もさ。きっと腹すかしてんのが環だったり陸だったりしたら、絶対何かしら作ろうと考えてただろ。なのに自分だったらすぐ諦めてんだもんなぁ」
そうかぁ?、なんて相槌だか懐疑だか自分でも分からないような声が出た。
「オレたちのためなら”一生懸命”、してくれてんじゃん。大和さん自身のことでも、それしてやりなよ。オレは、大和さんに大和さんのこと、大事にしてほしい」
「……何、ちょっと急に……してるよ大事に。だから今日は大事に休ませるためになーんもやってないんじゃん?」
”大事にして”と言うミツの声はどろどろに溶けたチョコレートみたいな響きで、そのチョコレートの沼に足を取られたかのように反応が遅れた。照れ隠しの発言を、茶化すなよ、と笑われる。その笑みは苦笑いだと、なんとなく感じ取って余計に気まずく思ってしまった。
ほんの少しの沈黙の後にトースターの焼き上がりの合図の音が鳴った。
「まぁ、今日は特別! オレが大和さんの代わりに大和さんのこと、大事にしてやるよ」
そう言ってミツがソファの前のテーブルに皿を置いた。同時に香ばしい匂いがふわっと香った。
「はんぺんにチーズと味噌つけて焼いただけの大和さん専用特製スペシャルおつまみデラックス!」
「じゃあ俺はミツからの愛を大事に食べよーと」
やたら大層な名前をつけられたつまみを一口頬張った。チーズが伸びて、熱々のはんぺんの淡白さに味噌の塩辛さがちょうどいい。上に振りかけられた七味も。堪らず、うま……と声が出た。
ふはっ、と息が漏れるような笑い声に目を向けると、案の定ミツが口を開けて笑っていた。大きな瞳が細められて代わりに眉尻が少し上がる笑い方はまるで太陽みたいだと、この間のライブレポートの記事に書かれていた。人を明るくさせる笑顔。こいつはすごい武器を持っているな、と毎度思う。自分を大事に、自分のことを諦めるな、と言うこの存在が、目を瞑ってしまうほど眩しかった。
「んじゃ、オレ買い出し行ってくるわ」
いてらー、と舌足らずで応えてもう一口はんぺんを食べた。扉の閉まる音と一緒にビールを胃に流し込む。一人になって静まり返った部屋で、ぼーっと明日からの予定を考えていた。仕事があって、衣食住が保障されていて、仲間がいて。自分のことを大事にするとか、自分のために諦めるなとか、その言葉にいまいちピンとこない。俺はもう既に満たされているし、十分幸せの位置にいると思った。
「ってわけ」
「は? つまり何ですか、ただのマウントですか」
帰宅して律儀に挨拶だけしてその場を離れようとしたイチを捕まえ、ミツからの俺専用特製スペシャルおつまみデラックスがどれだけ美味かったかを語って早数十分。頑なに立ったままのイチに、まぁまぁそこへ座れ、と無理やり椅子に座らせた。心底面倒くさそうな顔を隠そうともせず、それでも言われた通りちゃんと座っている姿が、決して口には出せないが可愛らしい。
「一人だったから誰かにこの美味さを共有したかったんだってー。あ、イチ腹減ってるか? 冷凍の食パンあったからフレンチトーストでも作るけど」
イチの返事を待たずにキッチンへ向かって冷凍庫から食パンを取り出した。そういえば自分の腹も減ってきてたな、と気づく。まぁ食べますけど、と歯切れの悪いイチの返事を聞いて、袖口を捲り上げた。
少しだけ砂糖を多めに入れた卵液に浸した食パンをフライパンで焼いていく。じゅっ、という音を聞きながらふと顔を上げると、こちらをじっと見つめていたイチと目が合ってびっくりした。
「なになになに、そんな見つめて」
「……二階堂さんに自分のことを諦めるなと言った兄さんの意見、私も同感です」
「イチまで……えー、俺ってそんなに自分のことないがしろにしてるか?」
「というか……自分を犠牲にする生き方が身に沁みつきすぎじゃありませんか」
年下からの憐れんだ表情にいたたまれなくなる。そんなことないだろお前らは俺を買いかぶりすぎだよ、と笑って否定しながらフレンチトーストをひっくり返した。
焦げ目がきれいな方に蜂蜜をたっぷりかけてイチの前に出す。自分の分の蜂蜜は控えめだ。
「別に私は兄さんみたいに優しくないのでこれ以上は言いませんけど。自分に本当に譲れないものが出来たら、そう簡単に諦めないでくださいよ」
なにやら忠告とでも言いたそうな言葉と共に、いただきます、と言ってイチはフレンチトーストを口に入れた。その瞬間に瞳が輝く。きっと口に広がった甘さが気に入ったんだろう。続けてもう一口、とフォークが進んでいる。髪色も雰囲気もあまり似ていないのに、こういうふとした瞬間の表情は兄弟でよく似ているなと思って、脳内に瞳を輝かせたミツを思い描いた。
ふっ、と口元が緩んだ俺を不思議そうに、いや、どちらかというと怪訝そうにイチが見てくる。何か言いたそうに口を開いた時、玄関が開いて特大の”ただいま”が聞こえた。
「たっだいまー。なんかいーにおいする、腹減ったー」
「お、タマおかえり。あれ、今日はソウと一緒じゃなかったか?」
「そーちゃんはまるっちとなんか買いもん? 行くから先帰っててーって。てか、いおりんうまそーなん食ってんな。俺にも一口ちょーだい」
「それより先に手を洗ってきてください」
鞄をその場に投げ捨てて手を洗いに行ったタマがものの数秒で帰って来た。本当に洗いました? なんて、イチに疑われている。その間に俺は手に持っていたフレンチトーストに蜂蜜を追加でかけて、イチの隣に置いた。
「さっき作ったばっかりだからそれ食べな」
「いーの やりー!」
すぐさまフォークを手に取ってフレンチトーストを頬張っている。タマの食いっぷりは見ていて気持ちがいい。どんどん食べろー、と声を掛けてソファに深く腰かけた。
「そういうところですよ」
イチからの視線に、苦笑を返した。作っている間の甘い匂いと、美味そうに食べるイチやタマの顔で空腹はいつの間にか紛れていた。いいんだよ、お前らがそうやって幸せそうに食べてくれるなら俺は心も腹も満たされるから。そんなクサい台詞を口にはしない代わりに、夕飯つまみ食いしようと思ってさ、と笑ってみせた。
「今日はミツが俺を甘やかしてくれる日らしいから、つまみ食いも許されるだろうなぁ」
俺のミツは優しいからなぁ、とわざとらしく言う。
「私の! 兄さんです」
「まーた、みっきーの取り合いしてんの」
「違います。二階堂さんが”俺の”なんて兄さんを物みたいに」
いおりんも私のって言ってたじゃん、とタマに突っ込まれながら、ツンとした顔をしてイチはフレンチトーストを食べた。その隣でタマは皿にこぼれた蜂蜜をフォークで掬おうと葛藤している。我が家の最年少二人が並んで甘いフレンチトーストを食べている、そんな微笑ましい光景をつまみにもう一杯いけるなと思う反面、脳内ではまた、ビールは一日一缶まで!と叱るミツが浮かんできた。