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    mame5hannommoto

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    mame5hannommoto

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    白🏍隊員の洋と三がご飯を食べに行く話
    交通事故の描写があります。
    洋の家族を捏造しています。

    夏至 夜の六時半だというのに空は薄青を保っていて、淡い桃色の雲がたなびいていた。水戸はカレンダーを頭に思い浮かべ、明日が夏至だということに気が付いた。血と埃が混じった匂いが鼻先を掠める。
     白バイを交通機動隊の車庫に駐めた。サイドボックスから取り出したウエスで車体を軽く拭いて、中隊部屋へと向かう。
     水戸が所属する第二交通機動隊は四つの中隊で編成されている。中隊は二つの小隊で編成され、小隊はさらに二つの分隊で編成されている。中隊それぞれが事務所を持っていて、書類の作成や食事はそこで行われていた。
     中隊部屋に近付くにつれてカレーやそばつゆの匂いが濃くなっていく。夕飯の出前がもう届いているのだろう。急がないとそばが伸びると文句を言われてしまう。交通機動隊では中隊の隊員が全員揃ってから食事をするという決まりがあった。もちろん取締りから逮捕事案に発展してしまったときや緊急事態のときは別である。
    「戻りました」
     中隊部屋に入って早速「遅えぞ!」と小隊長の声が響いた。室内を見回すと水戸以外の隊員はすでに戻ってきていた。
    「スイマセン、でもいっぱい取り締まってきたんで」
     手を合わせると、小隊長はさっさと座れというジェスチャーをした。水戸が自分のデスクに座るやいなや「いただきます」と号令が出る。どれだけ急いでんだよ、と苦笑してしまう。小隊長のほうを見るとかき揚げそばを啜っていた。伸びるうえにふやけるもんを頼むなよと思いながら水戸はデスクに配膳されたカレーのラップを外した。湯気がふわりと立つ。カレーをスプーンで掬ったところで、隣の席の橋田が覗き込んできた。
    「水戸班長ってカレー好きっすよね」
     水戸は分隊の班長を務めている。階級が巡査部長なので本来なら分隊長を務めることもできるのだが、年齢が若いのと空きがないという理由で今年の四月に第二交通機動隊に班長として異動してきた。周りは納得いかない様子だったが、上に行けば行くほど現場から遠ざかってしまうので水戸本人はこのままでいいと思っていた。橋田は水戸と同じ分隊の直属の部下である。
    「小隊長が作るカレーもめっちゃ好きですよね」
     橋田が重ねて言う。水戸はスプーンを口に入れた。あまり重くない、さらりとしたカレーだ。
    「小隊長のカレーは好きだけどカレー自体が好きなわけじゃねーよ。喉越しがいいから選んでるだけ」
    「えっ、もう嚥下がうまくいかないんですか?」
     生意気なことを言う橋田はカツ丼を食べていた。水戸はそれを見るだけで胃がもたれるような気がした。もしこのカレーにカツが乗っていたら完食なんてできないだろう。
    「なんか今頃の時期になると食べんのめんどくさくなんだよ」
    「最近蒸し暑いですもんね、わかります」
     橋田はカツ丼をかきこんだ。その様子を見ただけで水戸はスプーンが止まりそうになる。
     六月に入ると、自然と食べる量が減っていく。そしてもうすぐ夏至がくると気付いた日から、さらに食欲がなくなるのだ。今年は夏至の前日に気付いたのだからマシなほうだった。
     水戸は夏至が嫌いだった。嫌いというよりも怖いという気持ちに近いかもしれない。その原因ははっきりとわかっている。交番勤務から交通機動隊へ異動したばかりの頃に起きた出来事がきっかけだった。
     新隊員訓練を修了してから一ヶ月が経ち、ようやくひとりで白バイに乗って警らをできるようになった時期のことだった。高速道路を挟んで左右二車線ずつある県道の交差点で信号無視をした車がいた。水戸はすぐに追いかけ、邪魔にならないよう高速道路の高架下を通る左右の二車線を繋ぐ車道に案内し、歩道の奥にある広いスペースに停めさせた。幸いすぐに違反を認めて切符を受け取ってくれたアタリのドライバーだったので、まだ取締りに不慣れだった水戸は胸を撫で下ろした。手続きが終わり、先にその車を行かせて青切符をサイドボックスに仕舞っているときだった。県道から左折して高架下の道路に入ってきた軽自動車が車道を斜めに横切り、水戸のほうへと向かってきた。かなりのスピードが出ていて、車のシルエットはどんどん大きくなる。
     水戸は動けずに迫り来る車体をただ見ていた。やっぱり死ぬ機会って簡単にやってくるんだ、そう思った瞬間に軽自動車のドライバーが急ハンドルを切った。三十代くらいの男で、一瞬だけ目が合った。彼は驚いているような、悲しんでいるような、複雑な表情をしていた。
     軽自動車は水戸の体をすれすれで躱し、耳をつんざくような轟音を立てて高速道路の橋脚に激突した。ガラスやら車体の破片が飛んでくるなか、水戸はすぐに白バイのエマージェンシースイッチを押して県警本部に応援を呼んだ。無線で事故の状況と場所を伝え、軽自動車へと走る。
     軽自動車はフロント部分がくしゃくしゃに折りたたんだようになっていた。運転席側に回るとドアの下部から血が滴っていて、アスファルトがぬめりを帯びた光を反射していた。硫黄に似た匂いと血の匂いが混じり合う。細かくひび割れた窓から車内を確認する。あのとき視線を交わし合ったはずの男は一目見て命がないとわかる状態だった。
     救護活動はできない。現場から車道までは距離があるので今のところは交通整理は必要ないか? でも大きなガラス片や部品が飛んでいったりしている可能性もある。通行人がそばに寄らないようにしたほうがいいだろうか? しかしパイロンなんて白バイの標準装備にない。ガソリンタンクの損傷は確認できないが引火する危険性はあるだろうか? 頭にいくつも疑問が浮かんでは消えていく。初めて目の当たりにした交通事故と、あっさり消えてしまった命に、心臓が激しく脈打っていた。
     それから数分もしないうちに同じ分隊の先輩と所轄の交通課がやってきた。そのときの安心感は言葉にできないものだった。
     交通課に指示されながらパイロンを並べて現場保存をし、事故の目撃者として聴取を受けた。全て終えて帰隊したのは夜の七時を過ぎた頃だった。まだ明るく光る空を眺めていたら、先輩が今日は夏至だな、とつぶやいた。
     その日から水戸にとって夏至は単に一年で最も昼が長い日ではなくなった。
     釈然としない事故は捜査が終わっても水戸に子細が伝えられることはなく、ドライバーは即死だったという慰めにならない情報だけがもたらされた。目が合ったとき、たしかに生きていた人間はその数秒後にあっけなく死んだ。彼がハンドルを切らなければ死んでいたのは自分だったはずだ。
     あの日を境に、もともと希薄だった水戸の生への執着がさらに弱くなった。
     スプーンを持つ手が完全に止まってしまった。午後九時から翌日の午前三時まで飲酒運転の検問がある。しかも今日は金曜日だから飲酒運転する輩が山ほどいることが予想される。食べなければ体力が持たないとわかっているのに、胃がそれを拒否していた。
    「分隊長、聞いてくださいよ! 最近、水戸班長が怪しいんですよ」
     橋田が正面に座っている分隊長の木下に向かってそう言った。水戸は聞き捨てならないセリフに手放しかけていた意識を取り戻す。
    「怪しいことなんかねえって」
    「なんだ、水戸に彼女ができたのか?」
     木下がにやつきながら言う。
    「たぶんそうですよ。だって明日の当直明けのパチンコ断られたんですよ!」
    「今までだって毎回行ってたわけじゃねーだろ」
    「でも前は眠いからとかダルいって言ってたのに明日は予定があるからって言ったじゃないですか」
    「まあ水戸も今年二十八だからな、そろそろ身を固めてもいい頃だろう」
     この組織の人間はすぐ結婚させたがる。きっと早いうちに県警信用組合で住宅ローンを組ませて定年までこき使ってやろうという魂胆なのだろう。木下のことは嫌いじゃないが何かと結婚だの彼女だの、自分が幸せな家庭生活を送っているからってそんなことばかり言ってくることに腹が立つ。
    「彼女じゃないって。高校んときの先輩っすよ」
    「性別は?」
    「男」
    「なんだ、男かよ」
     木下はあからさまにつまらなそうな顔をする。
    「オレだったら高校のときの先輩と会いたくねえなぁ。ヤンキーばっかだったし、気遣いそうだし気詰まりっす」
     人に気を遣うことなんて一度もしたことがなさそうな橋田が言った。そんなものだろうかと水戸は思う。三井に対して、気を遣うから嫌だとか気が詰まるなんて思ったことはなかった。年上の三井を年下の水戸が一方的に殴ったという事実が本来のパワーバランスを歪ませているのかもしれない。だけど自分にとっては気兼ねなく話しかけられる相手だったし、三井だって最初こそ遠慮していたが時間が経つにつれて気安くなったと思う。用もないのによくお互いにちょっかいを出し合っていた。
     水戸は三井と再会した日のことを思い浮かべた。帰寮してすぐに電話をかけようとしたけど、無性に緊張してしまい深呼吸をした。通話ボタンを押すのにあんなに勇気を出したのは初めてかもしれない。ぎこちなく始まった通話はお互いの近況を話すうちに盛り上がり、自分の声はもちろん三井の声も明らかに弾んでいた。それがなんだか嬉しくて、食事をする日にちを決めた後も一時間も喋ってしまった。高校生かよ、と自分に突っ込みたくなる。
    「飯食うの楽しみ」と言った三井のやわらかい声が耳の奥で響く。縮こまっていた胃が温まって、緩んだ気がした。水戸は急に空腹感を覚えて、カレーをあっという間に平らげた。
     橋田が「水戸班長、なんかニヤニヤしてる! やっぱり女だ!」と叫んでいた。

     待ち合わせ場所は駅の近くにある書店を指定した。約束の時間までまだ十分ほど余裕があるが、水戸は店内に入った。まだ来ていないだろうと思いつつもスポーツ雑誌コーナーに行ってみると、三井が雑誌を立ち読みしていた。相変わらず人の目線を集める男だ。三井の周りにいる人たちはさりげなく彼に視線を投げかけていた。本人はそんなことに気付くそぶりもない。
    「ミッチー」
     誌面をなぞっていた薄茶色の瞳がこちらに向けられる。
    「早くねえか?」
    「それミッチーが言う?」
    「オレは休みでひまだったんだよ」
     三井は雑誌を棚に置いて、体ごと水戸のほうを向いた。ポケットに両手を突っ込んで、首を軽く傾げている。
    「で、どこに連れてってくれんの」
    「ついてきて」
     電話をしたときに三井はなんでもいいと言っていたので、何度か同僚と行ったことのある焼き鳥屋に決めた。焼き鳥はあまり食べなくてもバレにくいし、一本の重量が少ないから腹が苦しくなりにくいのだ。食欲がないのなら他人と食事をするべきではないのだろうが、これを逃したら二度はない気がした。
     書店を出て、人で賑わう駅前を通り過ぎ、小さな店が建ち並ぶエリアへ向かう。三井と二人で街中を歩くのは初めてだった。水戸は高校を卒業してから三センチほど身長が伸びた。それなのに三井との身長差はほとんど縮まっていない気がする。
     目的の店は焼き台が路面に向けて設置されていて、近くまで行くと炭火で焼けた肉の匂いが漂っていた。水戸はそこで立ち止まる。
    「うまそうな匂い。ここか?」
     三井は目を輝かせて、お世辞にも綺麗とは言えない店構えの焼き鳥屋を見ていた。
    「ここだよ。焼き鳥好きそうで良かった」
    「うん、好き」
     三井がにかっと笑う。普段こんな風に太陽みたいな笑顔を浴びていないから、あまりにまぶしくて焼け焦げてしまいそうだ。水戸は薄目でその笑顔を眺めた。
     時間が早いので店内は満席ではなかったが、二人はカウンター席に座った。広くない店なので油断すると腕がぶつかりそうになる。外ではわからなかった柑橘系の香りが三井から漂ってきた。
    「まず串盛りの塩とたれ両方を二人前ずつ頼んで、美味かったやつ追加してこうぜ。オレはビール飲むけど、おまえはなに飲む?」
    「オレもビール。あと野菜系の串も頼もう。ミッチー選んで」
     わかったと言った三井は大きい声で店員を呼んで、てきぱきと注文をしていく。こうやって色々決めてくれる人と一緒にいるのは楽だ。特に食欲のないときは。
     ビールがやってきたので乾杯をする。カチンと硬質な音が響いた。聞き慣れているはずなのに久しぶりに会う相手だと貴重な音みたいだ。
    「水戸と酒飲むなんて不思議だな。何年ぶりだっけ? 会うの」
    「十年だよ。オレらの卒業式んとき来たでしょ。それっきり」
     桜木や流川たち湘北バスケ部の門出を祝うために来たのだろうが、三井は水戸たちのところにもやってきてくれた。いくつか言葉を交わして、それが嬉しかったし、もうこの人と会うことはないという実感をかき立てて妙に寂しかったのを覚えている。
    「あんときか。たしかおまえにどこに就職したか聞いたら、はぐらかされたよな」
    「よく覚えてるね」
     不良だったくせに警察官になるというのが気恥ずかしくて、つい内緒と言ってしまったのだ。言ったところで、どうということもなかったのだろうけど。
    「やっぱりバイク乗りたくて警察入ったのか? 二年くらいのときバイクの免許取ってたよな」
     そんな些細なことを覚えていることに驚いた。水戸は二年生の夏休みに合宿で大型二輪の免許を取った。たぶんその前後に、バスケ部へ遊びにきていた三井に話したのだろう。意外と記憶力がいいんだ、なんて失礼なことを考える。
     串盛りの塩とたれが同時に運ばれてきた。どれも一種類二本ずつある。三井はねぎまの塩に手を伸ばした。肉に噛みついて、串から抜き取り、咀嚼する。たったそれだけの動作をするのに三井の表情がくるくると変わるのがおもしろかった。
    「美味い」
     そう言いながら目を丸くしている三井を見ていたら、唾液が溢れてきた。水戸も同じものを手に取り、かぶりつく。炭の香りが鼻に抜けた。弾力のある鶏肉から汁がじゅわっと染み出てくる。何度か来たことがあるはずなのに、こんなに美味かったっけ、と不思議になった。水戸がねぎまを食べ終わる頃、三井はレバーを食べ終わっていた。
    「これも美味い!」
     そう言って満足げにビールを飲んでいる。美味いからおまえも食えと勧めてこないのが好ましい。
    「ミッチー、オレの分のレバー食って」
    「好きじゃねえの?」
     水戸は頷く。ぐにゃりとした食感が苦手なのだ。それなのに交通機動隊のおっさんらは栄養があるからと無理に食べさせようとする。それで余計に苦手になった。
    「じゃもらう。次に頼むときはレバーなしにしような」
     その言い方が小さい子を相手にしているみたいで恥ずかしくなる。だけど自分でも認識していなかった甘ったれた心が満たされるようで、悪くなかった。前に一番美味しいと思ったつくねに手を伸ばす。なぜだか味がわからなくて、軟骨の食感だけがやけに舌に残った。
    「そういえば水戸はなんで警察になったんだ」
     中学と高校時代を知る人間ならば誰でも持つ疑問なのだろう。それは幾度となく聞かれた質問だった。そのたびに白バイに乗りたかったからとか公務員だから安定してるとか相手が納得しそうな耳障りのいい答えを適当に返していた。だけど三井には適当なことを言いたくなかった。いつか、あとになって嘘だと知られて不誠実なやつだと思われるのは嫌だった。
    「オレの父親、警察官だったんだ」
    「だった? 退職したのか?」
     三井が不思議そうな顔をして、覗き込んでくる。二の腕同士がぶつかった。水戸はその体温を気にしないように努めて、父のことを考えた。
     水戸の父は現在の組織犯罪対策課にあたる、県警本部捜査第四課の刑事で、暴力団を相手に取締りをしていた。ある日、暴力団の組長の愛人で父の情報提供者だった男と喫茶店で取引をしているときに刃物を持っている男に襲われた。男は水戸の父だけでなく、情報提供者まで殺そうとしたので身を挺して庇ったらしい。背中を滅多刺しにされて絶命した。父を刺したのは別の暴力団の末端構成員だった。店内には他の客もいたため多数の目撃証言があったことからすぐに逮捕された。
     さすがにここまで話すのは引かれるかもしれないと思い、水戸は掻い摘まんで話す。
    「喫茶店で知り合いとコーヒー飲んでたらナイフ持って向かってくる奴がいて、知り合い庇って刺されて死んだ。公務中だったから殉職だよ」
     三井が目を見開く。予想外の返答だったのだろう。
    「それで、親父さんに憧れて警察になったのか?」
    「面接のときはウケがいいから警察官だった父に憧れてとか言ったけど、本当はそういうわけでもないんだよね」
     肯定すれば綺麗におさまる。だけどそれは本心ではないし、夏至のせいかまだ心が剥き出しで上手に取り繕うことができない。もしかしたら誰かにこういうことを話したかったのかもしれない。
    「違うのか?」
    「警察官って結構あっさり死ぬんだって、それがなんかいいと思ったのと、死んだあとの家族の補償がちゃんとしてたから残された家族も安心かなって」
    「はぁ?」
     不機嫌そうな声を出して、三井は顔をしかめた。
    「それって死んでもいいやって思ってるってことかよ」
    「死んでもいいってわけではねえけど、痛いのやだし。でもあっさり死ぬのも悪くないかもって思ったんだよ。誰が困るわけでもないしさ」
     もちろん父が死んだときは悲しかった。水戸はまだ十歳だったし、母が泣くのを初めて見たから、これは大変なことなのだと思った。忙しくてあまり顔を合わせることがない父でも、ときどきは遊んでくれたから二度と会えないと思えば寂しかったことを覚えている。父の上司や同僚からの励ましも空しいばかりだった。警察官じゃなければ父は死なないで済んだかもしれないと考えたことも何度もある。
     だけど長じるにつれ、自分には死んでも守りたいと思うものとか、なにかへの執着がないと気付いた。懸命に恋をして、バスケットボールと運命の出会いを果たした親友を見ていると、それを喜ばしいと思う反面、自分は空っぽなのかもしれないという考えが強くなった。それなら死ぬ確率が高そうな警察官になるのもいいかもしれないと思ったのだ。うまくいけばバイクに乗れるし、というのも理由のひとつにはあった。
     あの夏至の日に軽自動車が迫ってきたときも、ついに死ぬのか、早かったなと思うばかりだった。ドライバーがなんの手の施しようもなく、目の前で死んでしまったことのほうがずっと堪えた。それから何度も死にそうな目に遭ってきたけど心を揺り動かされることはなかった。
     突然、両肩を掴まれて三井のほうを向かされた。いつもかっこよく上に向かっている眉が今は少しだけさがっている。
    「オレは水戸が死んだら悲しい」
     一音ずつゆっくりと三井は言った。琥珀の瞳はじっとこちらを見ていて、なんだかすごく大切に思われているみたいで、勘違いしそうになる。
    「それはこうやって会っちゃったからでしょ。身近な人が死ぬのはそりゃ悲しいよ。でも会ってない十年の間にオレが死んでも何も思わないよ」
     水戸の言葉に、三井は唇を突き出す。瞳が揺らめいて、今にも泣き出すのではないかと心配になった。
    「おまえにとってのオレはそうだったかもしれないけど、オレにとってのおまえはそうじゃなかった」
     両肩から三井の手が離れていく。大きい手に包まれていたところが急速に熱を失って寒さを感じる。ずっと掴んでいてくれたらいいのに。言葉がこぼれ落ちそうになって、水戸は口を噤んだ。
    「そういや、さっき死んだあとの補償がちゃんとしてるって言ってたけど、結婚の予定でもあんの?」
     重苦しい空気を振り払うように、三井が明るい調子で唐突な質問を投げかけてきた。水戸はビールを吹き出しそうになった。
    「あるわけないじゃん、そんなの」
    「じゃあ、いつかの結婚相手のためにそこまで考えてんだな。すげえな」
    「いや、母親と弟のためだよ」
    「弟いんだ。初耳だ」
    「言う機会なかったからね」
     水戸には年の離れた弟がいる。特別に仲がいいわけではないが、自分とは違って母のことをよく支えてくれる、いい弟だった。
    「ミッチーこそ、結婚しないの?」
     三井はバスケットボールのチームを持っている自動車メーカーに勤務していると言っていた。普通の企業なら警察よりずっと女性が多いはずだし、そうでなくても三井なら放っておかれないだろう。
     女性と結婚生活を送る三井について考えると胸がざわついて落ち着かない気分になる。久しぶりに会う先輩への感情としては少し変わっているかもしれない。
    「そういうの全然考えたことねえな。去年まではバスケのことしか考えてなかったし」
    「去年までって……今は? バスケのこと考えてないの?」
    「言ってなかったっけ? 去年のシーズン終わってから引退したんだよ」
     水戸は頭のなかが真っ白になった。よく考えれば三井は今年三十だし、引退していてもおかしくない。だけど水戸にとって三井とバスケは切り離せるものじゃなかったから、当然続けているものだろうと疑いもしなかった。
    「な、なんで」
     ようやく絞り出した声は自分でかわいそうになるほど掠れていた。
    「ひざの調子が悪くなって、自分の体が自分のもんじゃねえみたいに感じたから」
     そうだった。この人はひざの怪我のせいで一度道を踏み外したのだ。水戸との関わりだってそれが膨れあがった結果から始まったのに、試合中の三井があまりにまぶしくて、その影を覆い隠してしまっていた。
     予想していなかったぶん、ショックを隠せなかった。聞いてみたいことはたくさんあったが、なにを聞いていいのかわからずに言葉を紡ぐことができない。
    「おい、大丈夫か?」
    「わかんない、びっくりしすぎて」
     三井がスリーポイントシュートを打ったとき、魔法みたいにネットに吸い込まれるボールを見るべきか、綺麗に伸びた指先を見るべきか、いつも迷っていた。今回は指を見たから次はボール。そうは思っても試合に台本があるわけではないので、気付けば三井はシュートを放っていて、水戸はいつもその綺麗に伸ばされた指先を見ていた。懐かしさと、あのときの興奮が一気にやってきてまぶたが熱くなった。
    「オレ、ミッチーがバスケしてんの見るの好きだったんだなぁ」
     もう見られないとわかって、ようやく気付いた。おおばかやろうと心の中で毒づく。
    「おめーは桜木ばっか見てんのかと思ってたけど」
    「最初の頃はそりゃ花道をひやかしに行ってたけど、でもオレらミッチーのことも他のメンバーのことも見てたよ」
    「ちゃんとバスケを見てたんだな」
     三井が慈しむみたいに目を細めて笑う。それを見ていると喉が渇いてひりひりしてくる。
    「心配しなくてもバスケからまるっきり離れるってことはねえし、仕事も結構楽しんでやってる」
     そう言った三井の顔があまりに屈託がなくて、水戸のなかにあった不安や心配の種はあっという間に消えてしまった。
     その後は湘北バスケ部や大楠たちの近況などの話で盛り上がった。いつの間にか水戸は何本もの焼き鳥を食べて、たくさんのグラスを空けていた。三井といると胃があたたかくなって食べるのが楽しい。それは初めての感覚だった。
     店を出た時間は午後九時で、夏至といえどもさすがに空は暗くなっていた。水分を含んだ空気が肌を濡らしていく。まだ帰るには早い時間だし、どうしようかと思っていたら「甘いもん食べたい」と三井が言った。水戸は甘いものはあまり好きではなかったけど暑さのせいかアイスコーヒーが飲みたかった。
     繁華街のビルの二階にある喫茶店へ入った。アルコールのせいか、暑いなか歩いたせいなのか、体のなかに熱が籠もっている。水戸はアイスコーヒーを頼み、三井はホットケーキとホットのブレンドコーヒーを頼んでいた。
    「暑くねえの、その組み合わせ」
    「あちいけど、冷房が効いてるとこであったかいもん食べんの好き」
     そんなこと今日初めて知った。そもそも高校の頃はスポーツドリンクを飲んでいるところばかりを見ていた。水戸は改めてこの人のことをなにも知らないんだと思った。
     アイスコーヒーはクラッシュされた氷が入っていて、いかにも涼しげだった。三井の前には絵本に出てくるみたいな二枚重ねの分厚いホットケーキと湯気を立てているホットコーヒーが置かれている。ホットケーキには角切りのバターが乗っていて、三井がその上にシロップをかけていく。天井にあるオレンジ色の照明の光がシロップに反射していた。三井はホットケーキをナイフとフォークで切り分けて、二枚重ねの一かけを口に入れる。飲み込んでから、唇についたシロップを舌で舐め取った。
     それが美味しそうで、じっと見ていたら目の前に切り分けたホットケーキが差し出される。
    「食うか?」
     物欲しそうに見ていたことに気付かれてしまったらしい。水戸は頷いてフォークを受け取ろうとする。
    「口開けろ」
     そう言われて素直に開けてしまった。いつもだったら簡単に人の言うことなんて聞かないのに。
     口の中にホットケーキが入ってきて、フォークが引き抜かれた。シロップがひたひたに染みこんでいて、ばかみたいに甘い。美味しいけど、たぶん自分が食べたかったのはこれじゃない。では、なにを食べたかったのかという疑問と一緒にホットケーキを飲み込んだ。
    「おまえが白バイ乗ってるとこ、どうしたら見られんの」
     空になった皿を端によけて、三井が言った。難しい質問だった。取り締まる場所はその日の天候や街の催事などを考慮して決めている。この日にここで取締りをするという予告はできなかった。走っている姿に限定しなければ地域のイベントに出ることもある。しかしこれは基本的に若手の仕事なので水戸はほとんど出ていない。そういえば、と水戸は一番有名な仕事を思い出した。
    「オレはやったことないけど箱根駅伝の先導とか?」
     箱根駅伝の先導をやりたくて白バイ乗りになる警察官は数多くいる。志願すれば誰でもできることではなく、優れた技術と知識を持っていて、かつ人格者じゃないと選ばれない。水戸はあまり興味がなかったので志願したことはない。
    「まだまだ先の話じゃねえか」
    「しかもオレ、出る気ないしね」
     先導に選ばれるために訓練をしていた同期の姿を思い出した。水戸たちはヤジを飛ばしながらそれを応援していた。やることが高校のときから変わっていない。
    「あ、そういえば公開訓練っていうのがあるよ」
     月に一度、一般に向けて公開訓練がある。第一交通機動隊と第二交通機動隊で月替わりで行っており、さらに公開日に普通番に当たる中隊が担当するので水戸はしばらく参加していないから、すっかり存在を忘れていた。
    「それ見たい」
    「県警の広報誌見れば載ってるよ。オレがいつやるかは確認しないとわかんないけど」
    「水戸がいねえと意味ないから調べたら教えろよ」
     三井は頬杖をついて、こちらを見上げている。身長差のせいでいつもは下から見ていたから新鮮だ。公開訓練日をわざわざ教えるなんて、見に来てほしいみたいで恥ずかしいのだが三井にじっと見つめられると断れる気がしなかった。
    「わかったよ」
    「やった! すげえ楽しみ。バイクに乗ってる水戸かっこよかったから」
     きっとそのへんの小学生が持つ感想と同じに決まっている。だけど真っ直ぐに褒められるとみぞおちのあたりがむずがゆくなる。
     三井といると自分の色んな器官が騒がしくなる。丸二十七年生きてきて、初めて知った事実だった。

     送っていこうか? その言葉が出なかった。三井はさほど酔っているわけではなさそうだし、百八十を大きく超えた成人男性に対してそれを言うのは下心が透けて見えそうな気もする。ここで下心という言葉が出てくる時点で、だいぶ三井に参っているという自覚があった。
     気がつけば夏至は一時間強を残して終わろうとしていた。日中は仮眠していたし、起きてからも三井と会うことばかり考えていた。だから例年の鬱屈した気持ちを感じることはあまりなかった。
     三井と一緒にいるだけでもう少し生きることに積極的になってもいいんじゃないかという気になるから不思議だ。
    「こうやって会う前にミッチーが死んだって聞いたらオレも悲しかったと思う」
     あのとき余計なことを口走ってしまいそうで、なにも言えなかったことが気にかかっていた。自分にとっての三井がどうでもいい人間だと思われているのなら誤解をときたかった。実際どれだけの空白の期間があったとしても、そんな訃報があったら悲しかったに決まっている。
    「オレはなかなか死なないぜ」
    「そうだろうね」
    「おまえも長生きしろよ」
    「うん。死なないように気をつけるね」
     三井の手が伸びてきて、髪をかき混ぜられた。セットが崩れるとかそんなことはどうでもよくて、地肌に伝わる指先の熱が心地よくて泣きたくなった。
     この温もりさえ覚えていられれば、たぶん来年から夏至は怖くはない。水戸は縋るように三井のTシャツの裾を掴んだ。
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