制服 糊がきいた青い長袖シャツを羽織り、上のボタンから閉めていく。このシャツの右腕には神奈川県警のエンブレムがついていて、袖を通すたびに背筋が伸びる思いがした。
ズボンを穿いて、紺色のネクタイを締め、手錠や警棒を吊り下げるための帯革を装着する。さらにその上に耐刃ベストを身に付けた。一気に腰回りが重くなって、どっと汗をかく。警棒を差して、制帽を真っ直ぐにかぶった。
おかしなところがないか確認するために全身が映る鏡を見つめる。どこからどう見ても警察官の姿だ。
首筋を汗が流れた。ポケットからハンカチを取りだして拭う。今日も暑くなりそうだから気を引き締めなければいけない。
*
地獄のような警察学校をようやく卒業し、所轄の地域課に配属されることになった。水戸としてはのんびりした土地で交番のおまわりさんとして仕事を覚えたかったのだが現実は甘くはなかった。
水戸が配属されたのは県庁所在地ではないものの、県内で一番規模の大きい警察署だった。ときには警察庁から出向してきたキャリア様が署長を務めることもある重要な拠点である。
署員の数は四百人を超え、直属の機動隊も配備されている。管轄内は関東系と関西系の暴力団の事務所が多数存在するため県内有数の治安の悪さを誇っていて、110番件数は県内どころか関東でも上位に入るほどだ。本署の地域課は十四の交番を有していて、水戸はそのなかでも三番目に忙しいとされる交番へ勤めることになった。一番栄えている駅前の交番ではなかっただけでも良しとするべきなのかもしれない。
「なあ、水戸。おまえさ、ひとりで職質やったことねえよな?」
迷い犬を署に届けて、もろもろの手続きを終えてようやく交番へ戻る途中に水戸のペア長がいきなりそんなことを聞いてきた。やる気に溢れすぎておらず、書類仕事が恐ろしく早いというアタリのペア長なのだが、ときどき突拍子もないことを言うのが玉に瑕だ。水戸は思わず、なに言ってんだこいつ、という顔をしてしまう。しかしハンドルを握ったペア長は真っ直ぐ前を向いていて、水戸の表情の変化なんて微塵も気付いていない。
「はあ。まだないです」
正直なことを言えば、そんなことをする暇なんてなかった。自転車の窃盗やら自動車事故やケンカだなんだとひっきりなしに無線は鳴るし、応援要員として他の課に駆り出されることも少なくない。交番に腰を落ち着ける時間があれば書類を作成しなければならないので不審者を求めて近所をうろうろする時間などなかった。
「んじゃ、今からやってみろ。ちょうどひまだし。はい、降りて降りて」
「はあ?」
帰ったら手をつけていない書類を整理しようと思っていたのに、あの机の山どうすんだよ。
もちろんそんな口答えはできない。警察は上下関係が厳しい。特に新任時代のペア長の言うことは絶対に聞かなければいけないのだと警察学校で一期上の先輩から教えられた。高校時代の自分を考えるとずいぶん丸くなったなと思う。社会の歯車になっただけという見方もあるが。
ペア長にぐいぐいと押され、水戸はパトカーを降りるしかなかった。
「なんかあったら無線で呼べよ、近くにいるから。どんなやつに職質すればいいかわかるか?」
「顔つきがいかにも悪そうなやつ、警察官から目をそらすやつ、きょろきょろして落ち着きのないやつ」
「よし、覚えてるな。それでは貴官の健闘を祈る」
ふざけた敬礼をして、ペア長は本当に水戸を置いてパトカーでどこかへ行ってしまった。
「なんなんだよ、クソ」
悪態をついたあと、電柱に表示された住所を見て、自分がどのあたりにいるのかを確認する。途方に暮れていても仕方ないので水戸は歩き始めた。
現在歩いているところは四車線の国道が通っていて、それを挟むようにビルが建てられているオフィス街のような様相をしている。国道沿いの歩道はいかにも会社員という見た目の人間ばかりであやしい者を見つけるのは難しい。
変な路地とか、もう少し不審者がいそうな場所で降ろしてくれたらいいのに。そう心のなかで愚痴りながらビルとビルの間の小径に入った。しばらく進むと民家や昔からあるような古い会社が現れ、道幅も狭くなる。
どこかで風鈴の音が聞こえて、汗が背中を流れていった。半袖から出た腕を太陽が焦がし、帯革をさげた腰は汗まみれだ。ちゃんとケアしないとあせもになるからな、とペア長に言われたことを思い出す。
なんでこんな苦労をして警察なんてやっているのだろうと自分で疑問に思う。
同じく警察官だった父親の最期のあっけなさに憧れのようなものを抱いたから、というのが理由なのだが、こんな苦労をしてまでやるものでもない気がした。とはいえ、暑い日にプロテクターを持ってグラウンドを何周も走らされた警察学校をようやく卒業したのだから、これくらい屁でもない。あれを乗り越えたのにやめてしまうのはもったいない気がした。恐らくそう思わせるためにバカみたいに厳しい学校生活を課せられたのだろう。
考えに耽っているうちに、どこかで人が言い争うような声が聞こえてきた。水戸は立ち止まって耳を澄ませる。届く声はクリアで、屋内から聞こえてくるものではないようだ。音が聞こえてくるほうへ足を進めた。
*
人に親切にしなさいと親から言われて育った。だから道ばたでうずくまっている老人に声をかけただけなのに、どうしてこうなってしまったんだろう。オレは数分前の自分の親切心と行為を心底後悔した。
「この人があたしに車をぶつけたんだよ!」
老婆は腕の痣を制服を着た警察官に見せながら言った。もちろん事実無根である。
「ぶつかってないです! 具合悪そうだから路肩に停車して声をかけただけです。このおばあさん、嘘言ってるんですよ」
「双方の意見が食い違ってますね。うーん、免許証見せてもらえますか? 念のため」
警察官が手のひらをこちらに向けた。仕方なくカードケースから免許証を取り出す。暑いのと焦りで額の汗が免許証に落ちた。めんどくさいので水滴をつけたまま渡す。免許証を受け取った警察官はシャツの袖口で水滴を拭って、何やらメモをとっていた。
「今、仕事中? これから署に行って取り調べするけど時間は大丈夫ですか?」
「取り調べって……オレは事故なんて起こしてないです」
これから得意先に行く途中だった。三十分くらいなら余裕があるが、取り調べがそんなに早く終わるとは思えない。そうなると会社や得意先に連絡をして今日の予定をキャンセルしなければいけない。
そもそも事故がなかったことをどう証明すればいいのか、そして社用車で事故を起こしたことにされたらどんな処分があるのか──。そんなことを考えると頭が真っ白になる。
「お兄さん、治療費出してくれたら警察に届けなくてもいいけど」
老婆が言った。ここで時間をとられるよりは金を払うほうがマシかもしれない。警察官に視線を送る。警察官は無言でうなずいた。どうやら双方で話し合えということらしい。
「治療費っていくらくらい?」
「三十万。治療費と痛くて仕事できないぶんの」
想像の十倍くらいの値段を言われて目を剥いた。起こしていない事故のためにそんな金額払えるわけがない。クソババア、と心のなかで毒づく。
「事故の記録は残っちゃうし、免停とか免許取り消しなったら大変ですよね。払ってしまうのもありだと思いますよ」
「そもそも事故なんて起こしてないんですけど!」
吹っかけているとわかっているのに払うように促す警察官に腹が立つ。
「あんた、警察だろ? 市民守るためにいるんじゃないのか!」
「だから守ってんじゃないですか。このご老人を。どう見てもこちらが被害者でしょう」
「なんだと税金ドロボーが」
「もういっぺん言ってみろ!」
胸倉を掴まれて、信じられない気持ちで警察官を見る。こちらが手を出したら公務執行妨害で逮捕されるのに逆は許されるのだろうか。
「さっさと金払えよ!」
警察官は卑しい目つきでこちらを睨み、襟を揺さぶってきた。本当に税金を払っているのが馬鹿らしくなってくる。このクソポリが! オレはそう罵倒しようと口を開いた。
*
道路にはみ出た庭木の影を通って、ほんの少しだけ涼やかな気分になる。水戸は足音を立てないように走り出した。音がすぐそこに迫っている。T字路の前で一旦スピードを緩めて、塀の影から顔を出す。
警察官の服を着た男と会社員風の男が口論していた。会社員風の男は揺さぶられているようだ。近くには老婆が地べたに座っている。水戸は無線のマイクを口に当てる。
「S山駅前交番。三区内で偽物と思しき警察制服を着た男と会社員風の男が口論。けんかに発展する恐れあり。応援を要請する」
「笠田了解」
ペア長の声が聞こえた。恐らく近くで待機しているはずなので、すぐにやってくるだろう。水戸は元来た道を戻り、右に曲がる。次の角でもう一度右に曲がってまっすぐ進むと偽警察官の背後から出ることができる。T字路から道路に侵入し、気配を消してそっと近付く。
「お疲れ様です。このあたりパトロールしてたら声が聞こえたので応援に来ました」
声をかけた瞬間、偽警察官の肩が大きく跳ねた。振り向いた顔は青ざめている。
「このあたりだとS山交番の管轄ですよね。そちらの所属ですか?」
偽警察官はほっとしたような顔をしてうなずいた。騙し通せると思ったのだろう。
「でもおかしいな。オレもS山交番ですけどあなたみたいな警察官、会ったことないです」
偽警察官が逃げようとするので腕を掴んで後ろにひねりあげる。無様な叫び声が道に響いた。やりすぎかと思ったが、逃げられては元も子もない。
この男は明らかに警察官を騙った。警察官と見紛う格好をすることも、警察官のふりをするのも軽犯罪法違反にあたる。よく見ると男が着ている制服は神奈川県警のエンブレムがついており、本物のようだ。誰かが不正に売り払ったのを手に入れたのだろうか。そのうち監察課から警察備品を売ってはいけませんというありがたい講話があるだろうと容易に想像できて、ため息をつきたくなる。
「おまえ、偽物だったのか!」
口論相手の会社員風の男が叫んだ。
この男が偽警察官と口論していた理由はなんだろう。なにか後ろめたいことをして警察ごっこをしていた男に注意されたのだろうか。水戸は周囲に目を走らせる。前方には車体に社名が入ったバンが停まっていた。まさか交通違反の取締りのふりをして反則金を騙し取ろうとした? では、あの老婆はなんだ?
様々な憶測が頭のなかを走り抜けていく。
老婆が見た目とは裏腹に素早い動きで立ちあがる。逃げるということはこいつもグルだったか、と水戸は舌打ちをする。偽警察官を押さえながら老婆を確保するのは不可能なので応援を待つしかない。
早く来てくれ。そう思ったとき、会社員風の男が老婆の進路を塞いだ。よくやった! と心の内で褒める。できれば手を触れず、怪我をさせないで保ってほしいところだ。
パトカーのサイレンの音が近付いてくる。
「もう無駄だ。暴れんな」
暴れようとする男を塀に押しつけ、身動きをできなくする。
「オレがなにしたってんだよ? こんなことしていいのか?」
「警察に酷似したコスプレしたり警察のふりすんのは軽犯罪法違反だよ。知らねえの? それにやましくねえなら逃げねえだろ」
パトカーが停車して、ペア長が降りてきた。続いて近くにいたらしい捜査課のパトカーも到着して、ばたばたと二人の男が出てくる。
「すいません、その老人確保してください!」
捜査課の刑事に叫ぶ。屈強な刑事に老婆はあっけなく確保されたが、進路を塞いでいた会社員風の男は手にひっかき傷を作っていた。老婆に引っかかれたのだろう。
当事者の三人を引き離してひとりずつ路上で聴取をする。水戸とペア長は会社員風の男の担当になった。彼の話を鵜呑みにするならば親切心につけ込まれて金を巻き上げられそうになったらしい。
「車を調べればすぐにわかると思いますよ」
そう伝えると彼は「税金払ってて良かったぁ」と泣いていた。
「おーい、水戸くん! ちょっとこっち来て」
偽警察官を聴取していた刑事に呼ばれた。どうやら偽警察官はこの場で自供したらしい。
「被疑者にわっぱかけんの初めてでしょ?」
手錠を渡された。偽警察官は大人しく腕を前に突きだした。袖口から高そうな時計がのぞいている。それを眺めながら手首に手錠を嵌める。金属が奏でる硬い音が響いた。
「十一時三十分、被疑者確保」
刑事が時間を読み上げる。初めて手錠をかけるという行為になんの感慨もわかなくて、水戸はそれに驚いた。もっと昂揚するものだと思っていた。
「げえ、まじでうちんとこの制服じゃん。よく偽物だってわかったなぁ、水戸」
いつのまにかやってきたペア長が偽警察官をのぞきこんで言った。
「だってもう六月なのに長袖なんてありえねえっすよ」
「確かに! 詰めが甘かったなぁ、夏服さえありゃ捕まんなかったのかもしれねえのに」
ペア長が笑う。偽警察官は悔しそうに唸り声をあげた。
「さあ、オレらも署に戻って聴取の手伝いすんぞ」
パトカーに向かうペア長を追いかける。お手柄だとか、おめでとうとか、褒められないことに水戸はなぜだか安堵した。