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    mame5hannommoto

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    mame5hannommoto

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    松本が年上の女性に痛みを与えてもらう話
    性的な接触はありません。
    松本目線で痛みを感じている描写があるので苦手な方はお気をつけください。

    夏をいたむ 長い砂浜を走っていた。夏なのに誰もいないそこには台風で打ち上げられた流木や細々した塵が横たわっている。それを避けながら俺はひたすらに走った。
     砂浜はやわらかく、足を絡め取ろうとしてくる。それを振り切って、足をあげ、前に出す。平地を走るよりもエネルギーを消費し、いつもと違う筋肉を使う。毎日これでもかというほどトレーニングをしているのに砂浜で走るとあらぬところが筋肉痛になるのだ。
     いつだったか、河田が砂浜で走るのは実は体に負担がかかるらしいと言っていた。それを思い出しても俺は足を止めることができなかった。
     この体は本当に必要なのだろうか。
     そんな後ろ向きな気持ちでがむしゃらに走っていると、だだっ広い海に自分以外の人間を見つけた。
     薄い水色のワンピースを着た女の人だった。なんとなく目で追っていると、彼女は波打ち際に近付いていった。長い裾が濡れてしまいそうだ。しかし彼女は波打ち際からさらに進んで、ざぶんと海のなかに入っていく。ひらひらと淡い水色が波に揺れた。
     さらに海の奥へと進んでいく。その迷いのなさを見て、俺は背筋が冷えるのを感じた。
     足が勝手にそちらへ向かっていく。砂浜の途中で靴を脱ぎ捨てて海の中に入った。水温は意外と冷たい。
    「服のままじゃ危ないですよ」
     後ろから声をかける。その人は弾かれたように振り向いた。髪も肌も瞳も色素の薄い、人形のような容姿だった。
     もう胸の下まで水に浸かっている。
    「戻りましょう」
     手を差し出す。意外と大きい、白い手がちょんと乗ってきた。そのあまりの冷たさに驚いて、俺は思わず彼女の手を強く握った。
     砂浜に戻る途中、後ろを振り返る。濡れて透けたワンピースがぴったりと肌に張りつき体のラインが露わになっていた。カッと顔が熱くなって、すぐに砂浜に視線を戻す。あの様子だと下着まで透けていてもおかしくない。
     砂浜に辿り着いてから、Tシャツを脱いだ。あさってのほうを向いて、それを彼女に差し出す。
    「着ていたもので申し訳ないですが、これを服の上から巻いてください」
     そう伝えると彼女は小さな声で「あら」と言った。
    「気を遣わせてごめんなさい。ありがたくお借りしますね」
     衣擦れの音を聞きながら、脱ぎ捨てていた靴を履く。半袖でも腰に巻けるものだろうかと心配になった。音が止んでから、そちらに目線を向ける。
     彼女の細い胴は俺のTシャツですっぽりと覆われていた。安心して息をつく。
    「私のうち、この近くなので洗濯してからお返しします。寄っていってください」
    「いや、でも」
    「上半身裸ではまずいでしょう? 肌も日焼けしてしまうし」
     確かに上半身裸で帰ったら心配されるだろう。街の人たちにも顔を知られているからバスケ部の松本が裸で歩いていたと噂になってしまう。
    「では、Tシャツは濡れたままで大丈夫なので、ご自宅まで一緒に行ってすぐ帰ります」
     そう言えば、彼女はにっこりと笑った。
     気軽に誘うくらいだから家に家族がいるのだろう。そんな安直な考えでついていった俺はいかにも一人暮らし用といった趣のアパートの前で立ちすくんでしまった。
    「あの、ここで待ちます」
     二階の共用廊下で待つことを希望すると首を振られた。
    「裸の人がここに立っていたら人目につくから、なかに入ってください」
     にこやかで丁寧なのに、逆らえない威圧感があった。
     沓脱ぎに立ったままでいると手を引かれた。さっきよりもあたたかくなっていて安心した。
    「暑かったから、なにか飲みましょう」
     たしかにずっと水分補給をしていなかった。魔法にかけられたみたいに靴を脱いで部屋にあがる。キッチンと六畳の部屋があるだけの小さなアパートだった。ものが少ないせいか、あまり生活感がない。粘着テープや工具がキッチンに置いてあったから引っ越してきたばかりなのかもしれない。
    「着替えてくるから、座って待っていてくださいね」
     一人暮らしの女性の家で着替えを待つという初めての体験に俺は緊張していた。こんなことをしていていいのだろうか。今日は部活が休みだからなにをしていてもいいはずなのに、妙な罪悪感を覚えた。
    「Tシャツ、びしょ濡れだったから洗濯してました。この暑さならすぐ乾くだろうから、待っていてくださいね」
    「そんな、濡れてても良かったのに。面倒かけてしまってすみません」
     洗濯が終わって、服が乾くまでどれだけ短く見積もっても一時間はかかる。初めて会った女性と二人きり、しかも上半身裸という異常な事態に頭が回らなくなってきた。
     出してもらったスポーツドリンクを一気飲みする。だけど一向に頭は冷静にならない。どこかで金属を引っ掻くような不快な音が鳴っていて、それが耳に障った。
     視線を感じて顔をあげる。彼女は頬杖をついて楽しげにこちらを見ていた。
    「なにも悪いことしてないのに、ずっと申し訳なさそうな顔をしてますね」
     心臓がぎくりと動いた。
     彼女の言うとおり、俺はずっと申し訳ないと思っていた。もっと責められていいはずなのに誰も俺を責めなかった。
     おまえのせいで。
     そう言われて責められたら楽だろうと何度も思った。だけどチームメイトは心根が優しいやつばかりだし、おそらく本当に俺だけに責任があるとは思っていなかったのだ。
     楽になりたいから責められたい。責められたうえで再起したい。
     俺はそんな狡い考えを捨てきれないでいた。
     不快な音が大きくなる。扇風機からぬるい風が吹いていた。
    「俺が悪いんです」
     相手の名前も知らないし、相手も俺の名前を知らない。そんな彼女に俺は心情を吐き出した。
     じっと見つめてくる色素の薄い瞳のせいかもしれないし、不快な音を自分の声で消したかったのかもしれないし、単純に全く関係ない人物に話を聞いてもらいたかったのかもしれない。
     話し終えた頃、洗濯の完了を知らせる音が聞こえた。彼女は俺に微笑みかけてから立ちあがる。ベランダにTシャツを干して、網戸と窓を閉めてから戻ってきた。
    「ちょっと暑いね」
     なら窓を開けたほうがいいのではないかと思った。しかしそれを言う前に床に押し倒された。かなり力が強くて驚く。身長がイチノと同じくらいあるから、それなりに膂力があるのかもしれない。
     背中の皮膚にさらりとした夏用のカーペットの生地が当たる。覆い被さってきた彼女は俺の頬を一撫でした。期待よりもなぜだか胸が冷える感覚がする。
     窓を閉めても不快な音はまだ消えない。
    「代わりにならないかもしれないけど、私があなたに罰を与えてあげる」
     きいきいと耳障りな音が大きくなる。
     顔の横に銀色のトレーが置かれる。彼女はそこに様々な太さの針やペンチを並べた。一体これでなにをする気なのだろう。鼓動が早くなる。
    「俺、怪我とかするのだめなんです。部活あるから」
     彼女は目を見開く。丸い瞳の全容が見えて、虹彩の一部が緑がかっていることを知る。こんなときなのに綺麗だと思った。
    「部活があるから苦しんでるのに? それに本当に怪我をしてはいけないの?」
     替わりがいるのではないか? という意味にとれる問いに、喉がひゅっと鳴った。
     俺の替わりなんていないとは言えなかった。
    「この針見て。結構太いでしょ。これをあなたの体内に入れます。ちゃんと殺菌してあるから安心してね」
     腕の下にベルトがついた台を置かれ、固定された。体は自由なはずなのに自分の意思で動かすことができない。どこかから聞こえてくる金属を擦り合わせるような音が大きくなった。
    「そうだ。目隠ししましょう。そのほうがきっと痛覚が敏感になるから」
     彼女は優しい手つきで俺の目元にアイマスクをつけた。
    「爪を剥がしてもいいのだけど、あなたの爪よく手入れされてるからペンチで傷付けるのもったいないな。今日は針だけにしましょう」
     爪を剥がすという恐ろしい言葉に手脚が震えた。子供の頃、缶ジュースを足の爪に落としたことがある。あれだけでも泣くほど痛かったのに剥がすなんて。
    「ここわかるかな?」
     親指の先端をやわらかな皮膚でなぞられる。
    「爪と指の間。ここに針を入れると痛いの」
     彼女が言い終わった瞬間、左手の親指に激痛が走った。
    「っ! え、は? なんでこんな」
     痛みはさらに深いところまで入っていく。
    「ううぁ、あああっ」
     鋭くて熱い痛みにすべての神経を集中させてしまう。いつの間にか音は止んでいた。
    「ひぁあ!」
     ずぼっとなにかが抜けていって、それがまた死ぬほど痛かった。首がびっしょり濡れているのがわかる。
    「まだ終わらないよ」
     続いて人差し指を押さえつけられた。
     どこも拘束されていない。暴れて逃げ出すことだってできるはずなのに、俺はそれをしなかった。
     鋭い痛みが人差し指を貫く。真っ暗な視界に星が瞬いた。痛みがさらに奥深くを穿つ。唇を噛んで堪えようとしたが無理だった。
    「~~っ! ううう、あ、あ、」
     今度はそうっと痛みをもたらすなにかが抜けていく。ゆっくりされるのも痛みが永久に続くようで恐ろしい。
     アイマスクがひんやりする。涙が出ていたらしい。
    「中指、少しだけ爪が伸びてる」
     中指の爪が引っ張られる感じがした。先ほど見たペンチを思い出す。めりめりと爪が剥がれて、真っ赤な肉が現れる映像が勝手に脳内で流れ出す。
    「爪剥がすのやめてください。お願いします、それはいやだ」
     みっともなく震える声で懇願した。
    「本当にいや?」
    「いやです、おねがい」
     カタンと金属同士がぶつかる音がした。それからすぐに中指の爪の中に激痛が生まれる。
    「ああ、あ、ぅああっ」
     性急に進もうとする切っ先にじゅわっと唾液が溢れる。熱いのに肌が粟立つ。あまりの痛みに吐き気を感じた。
    「う、吐きそう」
     中指から痛みが抜けていって体を起こされる。まだ左腕は固定されたままだったので台も一緒についてきた。
     アイマスクが外されて昼間の明るさに目を灼かれる。下に目を落とすと洗面器があった。
    「吐いていいよ」
     背中をさすられる。汗で濡れているから滑りが悪そうだ。
     何度か体が痙攣するが吐けなかった。涙と鼻水が顔を伝っていく。
    「今日は終わりにしましょう」
     手をひんやりした綿で拭われる。体と顔は濡れたタオルで拭かれた。
     指先を見た。先ほどの痛みは少しも残っていないし血が出ている様子もない。なにを使ってどうされたのか気になって、道具を置いていた銀色のトレーを探す。しかし上に布がかけられていて、血がついた道具の類いは見えなかった。
     窓を開ける音がして、そちらに目をやった。彼女がベランダからTシャツを取り込んでいた。髪に光が当たって頭の輪郭を金色に縁取っていた。
    「もう乾いたみたい」
     振り返って笑う顔はひとつも邪気がない。どうしてあんなことをするのかわからなかった。
    「あなたは痛みを性的な快楽に変えられないんだね」
     彼女はTシャツを手渡してきながらそんなことを言った。
     それはそうだ。痛みは痛みであり、性的な気持ちよさとは全然違う。性器を扱いたときの輪郭の定まらない重い快感と、はっきりと点や線で感じる痛みは全く似ていない。
    「気持ちよくなったほうが良かったですか」
    「ううん。痛くて泣いてるほうが好き」
     それが恋愛感情からの好きではないことを俺はちゃんと知っていた。経験が少なくともわかる。観察対象としておもしろいかどうかだろう。
    「いつでもいいから、また痛くなりたくなったらおいで」
     人形みたいな顔が近付いてきた。俺は虹彩の一部分、緑のところを眺める。知らないうちに「また来ます」と言っていた。
     玄関を出ると蝉が鳴いていた。ふと、あの不快な音が痛みを感じている途中から聞こえなくなったことに気がつく。
     金属でできた階段を駆け下りる。少しだけ心が軽くなった。

     俺は三日も開けずに彼女に会いに行くようになった。部活に出ると否応なくあの試合のことを思い出してしまうからだ。人生のうちのほんの一瞬の時間にこれからずっと縛られていくのだろうか。それを振り切れるかどうかは自分次第だというのに俺は彼女がくれる痛みに頼っていた。
     本来なら不必要な痛みは自分へ与えられるべき罰のように思えた。
     彼女はいつ行っても部屋にいて、起きていた。化粧の有無はわからないが、どんな時間に行ってもいつも綺麗だった。
     いろんなところを痛めつけられたが、一番痛かったのは耳だった。脳と近いせいなのか、より敏感に痛みを拾うのだ。穴の中をなにかされたときは聴力に影響があるかもしれないという恐怖で泣き叫んだ。
     だけど彼女はいつも俺が本気で拒否すると止めてくれて、それ以上は無理強いしなかったし、終わってしまえば痛みの痕跡などなかった。
     すごくバカみたいだけど、俺は彼女を信用して縋っていたのだと思う。
     何度目かわからないが、もうすぐ夏休みが終わる頃に彼女を訪ねた。
     いつもどおり迎え入れてくれて、部屋では金属が擦れ合う不快な音が鳴っていた。
    服を脱いで目隠しをした。彼女はいつもと同じように淡い色合いのワンピースを着ていた。
     若い女性と男子高校生がそんな格好でアパートの一室にいればたいていの人は性的なことを想像するだろう。
     だけど俺たちは一切そんなことをしなかった。
    「今日はここにしようかな」
     彼女の大きくてやわらかい手が胸に当てられた。くすぐったさに身じろぐと笑い声が聞こえた。こんなところを触らてれも尚、性的な雰囲気にはならない。
    「いくね」
     覚悟するひまもなく、右側の乳首に激痛が走った。つねられたのか、潰されたのかわからない。だけど場所が場所だけに声を出すのが恥ずかしくて俺は歯を食いしばった。
    「ぅあああっ」
     それを咎めるように真ん中に針を刺されたような痛みを感じる。全身に鳥肌が立った。痛みを逃すように息を吐く。少しずつ痛みに慣れていった。それを待っていたかのように左側の乳首がなにか硬いもので潰された。
    「っあ、ううぁ、ぅ」
     あまりの衝撃に背中がしなる。涙がアイマスクを濡らした。
     いつも鳴っている不快な音が消えて、鼻唄が聞こえる。彼女がいよいよノッてきて、さらなる痛みが待ち受けていることがわかった。俺はこれからされることを想像して痛みに備えた。
     そのとき、来客を知らせるチャイムが鳴った。彼女はかちゃかちゃと音を立てて手早く片付けているようだ。
    「少し待っててね」
     そう言って俺のアイマスクをずらす。彼女は少し困ったように微笑んでいた。
     彼女が出て行って、部屋とキッチンを隔てる引き戸が閉められた。ガラスと木でできたその戸には防音効果なんてものはない。若い男の「こんにちは!」という挨拶が筒抜けだった。
    「ねえさん、今日ヤツから予約が入りました。急ですが、どうします?」
    「何時?」
    「夜の九時です」
    「じゃあ今日決行しましょう」
    「段取りつけときます」
     ねえさんと呼ぶ割には弟らしからぬ態度だった。どんな人間と話しているのか気になって、引き戸をほんの少し開けて様子を見る。玄関ドアは小さなキッチンを通り抜けて、ちょうど引き戸の真正面にある。
     彼女は髪を金髪に染めた青年と話をしていた。たぶん俺よりも四つくらい年上の、どうがんばっても品行方正には見えないような印象の青年だった。
    「この靴、誰のですか? まさか男連れ込んでるんですか?」
     青年は俺の靴を指差しているようだった。後ろめたさに心臓がぎくりと音を立てる。
    「べつに関係ないでしょう。もう操立てする人もいないんだから。それともまた痛い目に遭いたいの?」
     彼女が強い口調で言い返す。青年は両手を合わせて平謝りしていた。青年のすべての指に包帯が巻かれているのが見えた。
     俺は彼女が本当に人の爪を剥がせる人間なんだと悟った。
    「準備しておくから夜に迎えにきてちょうだい」
     そう言って彼女は青年を送り出した。俺は慌てて先ほど寝ていた布団の上まで戻る。
    「ごめんなさいね。中断しちゃって」
     そう言いながら引き戸を開けて入ってきた彼女は俺の隣に座った。
    「申し訳ないのだけど今日はそういう気分じゃなくなったの」
     なんだか忙しそうだし、それなら帰るしかないと腰を浮かせたら引き止められた。
    「ちょっとだけやってみたかったことしてもいい?」
    「痛いことですか?」
    「痛くないこと」
     爪を剥がされないのならまあいいかと思い、俺は頷いた。
     また体を布団に転がされた。あ、と思ったら彼女も横に寝転がり、ぎゅっと抱き締められた。鼻先に彼女の首筋があって甘い香りがした。唇が彼女の肩に当たっていて、肌の柔らかさを薄い皮膚で理解する。
    「あなたの名前教えて」
    「松本稔です」
    「稔くん、稔くんっていうんだ。もっと早く名前を聞いておけばよかった」
     頭から背中までを優しく撫でられる。初めて女性の体温を間近で感じて、俺は指先ひとつ動かせなかった。
    「私のことで知りたいことある?」
     突然そう聞かれても知りたいことがありすぎて絞れない。名前も知らないし、仕事をしているのか、家庭があるのかも知らない。名前を聞いたら教えてくれるのだろうか。
    「好きな食べ物とか」
     きっと名前を聞いてもそれはこの場で必要なコードのようなもので、本名ではないだろう。そう思って、つい小学生みたいなことを言ってしまった。
    「好きな食べ物はないの」
    「やっぱり」
     水だけで生きる植物みたいだと思っていたから、その答えに満足した。
    「だけど嫌いな食べ物はあるよ。お刺身とか、それについてくるツマ。食べてるところを見るのも嫌い。時間が経ってぬるくなった刺身の感触とか匂いを思い出すだけで胃がむかむかするの」
     生ものを食べられない人はそう珍しくない。海が近いこの街にも生の魚が食べられない人はよくいる。
     これを聞いたとき俺はただそう思った。
    「嫌いなものの話をしてごめんなさいね。私、嫌いなものが多いの」
    「いえ、ちょっとだけ人間っぽさが増した気がします」
     彼女はふふ、と笑った。その声が本当に楽しげだった。
    「好きなものもあるんだよ、海とか。ちなみに嫌いな場所は温泉。稔くんの好きな場所はどこ?」
     少し考えて、あそこしかないと思った。
    「バスケットコート」
     そう答えると、彼女は俺の背中に回していた腕に力を入れた。
    「稔くんの手はバスケをする手なんだね」
    「そうなのかな」
     今でもときどきホイッスルの音が頭のなかでこだまして絶望的な気分になる。一度の敗北をもう何週間も引きずっている。気にするな、前に進めと言ってくれる先生の言葉は耳を素通りしていた。
    「稔くんの手はボールとか、友達の手とか、好きな人の髪とか、すてきなものにしか触れないの。だから大丈夫」
     彼女は体をずらして、俺との間に隙間を作った。どうしていいかわからずに自分の体にぴったりと沿わせていた手を握られる。
     すぐ近くに左右対称の人形みたいな顔があった。カーテンがほんのわずか開いていて、そこから射し込む光が彼女の瞳を照らしていた。
    「あなたの目の色がちょっと緑っぽくなっているところが好きです」
    「本当に? 嬉しい。稔くんに会えて楽しかったなぁ」
     彼女の瞳の茶色と緑が曖昧に溶けて流れ出す。
     これが最後なんだと直感した。
     細い体を抱き込んで、彼女がしてくれたみたいに頭を撫で続けた。Tシャツが濡れていくのがわかる。
     しばらくして、ありがとうと小さい声が聞こえた。腕をゆるめると彼女が顔を出す。目元も鼻も赤くなっていて、今まで見たなかで一番人間らしくて可愛らしく見えた。
    「そろそろ帰らないと」
    「玄関まで送るね」
     狭い玄関で向かい合ったまま見つめ合った。手を伸ばして、彼女の髪に触れた。そのやわらかくて、さらさらとした手触りを忘れないようにゆっくりと撫でる。
    「部活がんばってね」
    「はい。お邪魔しました」
     スチール製のドアの隙間から見えた彼女は微笑んでいた。バタンとドアが閉まり、中と外に隔てられる。
     蝉の声はもう聞こえなかった。風が吹いて、濡れたTシャツを冷やす。乾いてしまうのが嫌で、俺は濡れた部分を手で押さえた。


    「なあ、これって怖い話っつーか、エロい話じゃねえのか?」
     友人が眉を寄せて言った。
     夏だから深津も交えて三人で怖い話をしようと言ってきたから、とっておきの高校三年の夏の話を披露したのに、お気に召さなかったようだ。
    「いやらしい雰囲気になんてなってないからエロくないよ。痛いことされただけだし」
    「いてえのはエロいだろうが」
     友人は尚も言いつのる。それは自分の嗜好を披露しているのと同じだが大丈夫なのかと呆れてしまった。
    「あとこれは続きがあって、それから間もなく地元のホテルで関西系のやくざの死体が見つかったんだ。人づてに聞いたけど、その死体は両手の爪が剥がされてて拷問の形跡があったんだって」
    「それはその女の人がやったということかピョン」
    「俺はそう思ってるよ」
     死体は爪が剥がされただけでなく、至る所に針が刺されていて、強力粘着テープを貼って剥がしたために皮膚がめくれていたらしい。
     さらにその数日後、あの砂浜に女性の水死体があがった。
     それを知ったとき、俺はなんとなく彼女が温泉や刺身が嫌いだと言った理由が理解できたのだ。とても過酷な人生を歩んだのだと思う。あの金髪の青年は本当の弟ではなく彼女の情人の弟分だったのだろう。
    「おい、急にマジでこえー話になってるじゃねえか! エロい話だったのに」
    「だからエロくないって」
     怖い話になったらなったで大騒ぎする友人にため息をつく。ぎゃんぎゃん騒いでいた彼は急にまじめな顔つきになり、こちらを見つめた。
    「なあ、松本。おまえがそういう痛みを受けたいって思うほど絶望したものってなんなんだ?」
     その質問に俺は息を呑む。
     おまえだよ、三井。
     そう言うのは悔しくて、俺は色の薄い、ときどき金色みたいに透ける瞳を眺めて「言いたくない」と言った。
    「ケチ!」
     三井の、ばかみたいに大きな声が部屋中に響いた。
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