白バイ続き
昨夜のことを反芻しながら機嫌良く出勤したら、分隊長の木下に声をかけられ廊下の隅のほうに連れていかれた。分隊長は腕を組んで、なにやら思い悩んでいる。今日も忙しいから早くしてほしい。そう思いながら見ていると、ようやく口を開いた。
「水戸、おまえ付き合ってる人いないよな?」
その質問なら「まだいませんけど」としか答えようがない。付き合いたい人はいるが、それは聞かれていないから答える必要はない。
「これは隊長から副隊長、続いて中隊長から小隊長、そして分隊長であるオレに下りてきた提案なんだが」
隊長はもちろん第二交通機動隊のトップである。そんなところからの提案なんてほぼ命令に等しい。さきほどの質問からの流れを考えると、ろくなことではないだろうと察しが付く。
「水戸、交通部長のご令嬢と一日遊んでくれないか?」
あまりに突飛な命令、もとい提案で、水戸は声も出なかった。交通部長の娘といえば公開訓練のときにテントの下で見学していたのをちらっと見たが、全くなにも覚えていない。容姿どころか年齢すらもわからない。
「なんでもこの間の公開訓練で水戸のことが気になったみたいでな。もちろん結婚とかそういうのではなくて、あくまでちょっと話をしてみたいらしいんだよ」
結婚なんてとんでもない。水戸は顔を引きつらせる。
「これ、隊長じゃなくて交通部長からの命令ですよね?」
「まあそうなるな。それじゃあんまりショッキングすぎるかと思って端折ってやったんだ。それと命令じゃなくて提案だから」
「へえ。じゃ、拒否権あるんですね? 行きません」
そう言って背を向けると腕にしがみつかれた。水戸は無言で振り払う。
「水戸~、頼むよ。交通部長の覚えがいいほうがいろいろ都合がいいんだ。それに本当に付き合ってほしいとかじゃないんだ。だって大きい声じゃ言えないけど交通部長なら娘だって政治の道具に使いそうだろ。偉い人の息子と結婚させたりさ。だからたぶん一回だけでも娘に年相応の青春を味わってもらいたいんだろうよ。娘さん、二十歳の大学生なんだって」
命令だと高圧的に言ってくれれば突っぱねることができるのに、あけすけながらも下手に出られると困ってしまう。しかも政治の道具に使われる若い女の子なんてあまりにも気の毒だ。しかし水戸は顔も覚えていない人間のために一日を使ってやるほどお人好しではない。
「でもオレになんのメリットもないしなぁ。昇進もしたばっかりで、これ以上は興味ないし」
分隊長はわざとらしくコホンと咳をした。
「もうすぐ黒バイの試験導入があるから、もし水戸が興味あるなら推薦する。どうだ?」
それは甘い誘惑だった。
黒バイとは白バイの覆面車両のことで、名前の通り黒い塗装を施したバイクである。昨年、和歌山県警が暴走族対策として全国で初めて黒バイを導入して検挙数が二倍になったのをきっかけにその他の県でも検討されるようになった。神奈川県警でも導入の噂はあったが、末端の職員である水戸には噂としての情報しか届いていなかった。
「夜も走れるんですか?」
「暴走族相手だから夜も乗れるときもある。覆パトに乗る二名と組んで、三人でやる予定だ」
もうそこまで決まっているのかと驚いた。分隊長まで話が来ているのなら、信憑性が高い。夜もバイクでパトロールできるというのは水戸にとってかなり魅力的な話だった。
「黒バイへの推薦と、そのご令嬢と会うのも休日出勤みたいなもんだから有給とってもいいスか?」
「受けてくれるのか?」
「その二つの条件を約束してくれるなら」
「推薦は絶対にしてやれるし、有給も約束する」
「いいっすよ。場所とか全部決めてくださいね」
分隊長が飛びついてきたので、水戸はそれを交わした。おじさんとの抱擁はまっぴらだ。その有給を使って三井と休みを合わせようと決めた。
交通部長の娘との約束の日は三井が休日出勤で会えない日曜日だった。ちなみに平日も三井の仕事が忙しいようで残業続きらしく、全く会えていない。三井と会えないのに、なぜ自分は水族館なんかに来ているのだろうとばからしくなる。
大人一枚と告げてチケットを買った。支払いで気を遣わせたくないのか、入場をしてからの待ち合わせだった。ゲートを通り抜けて家族連れやカップルたちでごった返す屋外の広場を見回す。
交通部長の娘である坂田香奈未の目印は神奈川県警のマスコットキャラクター、ピーパルくんのぬいぐるみだった。非売品なので人違いの可能性はほぼない。きょろきょろしているとすぐに黄色いヘルメットをつけたピーパルくんが見つかった。わざとなのか香奈未は黒いワンピースを着ていて、それが余計にピーパルくんの黄色を際立たせていた。
「こんにちは。第二交通機動隊の水戸です。坂田香奈未さんで間違いないでしょうか?」
自己紹介と確認を兼ねて声をかける。香奈未と見られる女性は目を瞬かせて驚いた様子だった。もしかして人違いだっただろうか。ピーパルくんのぬいぐるみを他に持っている人間がいるという可能性を見落としていた。
声をかけたことを後悔し始めたとき、香奈未が口を開いた。
「初めまして、坂田香奈未です。あの、今日は女性のかたが来ると思っていたのですが……三糸さんはなにか急用ができたのでしょうか?」
今度は水戸が目を瞬かせる番だった。
「もしかして坂田さんは今日三糸とお会いするつもりでしたか?」
「はい、父には公開訓練で一位だった三糸さんとお会いしてみたいと話しました」
三糸と水戸はよく似た名字だ。恐らく交通部長は娘の要望を正しく理解し、隊長に伝えたのだろうが女が会いたいというのは男に決まっているという凝り固まった考えの小隊長か分隊長あたりで三糸を水戸と勘違いしたのだろう。水戸はため息を飲み込む。
「すいません、上司が三糸とオレを間違えたみたいです。今から三糸に電話かけるから少しだけ待っててもらえるかな」
「え、でも」
慌てる様子の香奈未を無視して、水戸は三糸に電話をかけた。
「水戸班長、おはようございます。珍しいですね」
「三糸さんさ、今日オレが交通部長の娘さんと会うって話、知ってる?」
「知ってますよ。最近うちの小隊はその話題で持ちきりでしたから」
誰かわからないが情報源の口の軽さに舌打ちをしたくなる。水戸は先ほど判明した事実を三糸に話した。
「それはかなりまずくないですか? 交通部長は香奈未さんが女性と会っていると思ってるんですよね」
三糸に指摘されて事の大きさに気がついた。娘が同性と会っていると思っていたのに、部下の勘違いで男と会っていると知ったら気分がいいものではないだろう。もちろん個人的なことで異動などさせることはありえないが、使えないヤツとレッテルを貼られることはあるかもしれない。自業自得と言えばそうなのだが、そもそもくだらないことを言い出した交通部長が怒るのはなんとなく受け入れられない。
「私、すぐ行きます。水族館ですよね?」
「うん、もう中に入ってるから」
「わかりました。バイク飛ばして行きます」
急いだ様子で電話が切れた。水戸は香奈未に向き合う。
「今から三糸が来るので、それまで一緒に待ってもらえますか?本当にすみません」
「いえ、こちらこそ隊員のかたにお会いしたいなんて非常識なことを言ってしまって申し訳ありません」
何度も頭をさげる香奈未を止めて、水戸は屋外のフードコートに行くことを提案した。売店で二人分のジュースを買い、テーブルに置く。財布を出そうとする香奈未を押しとどめた。
「まだ学生なんだから」
「すみません、水族館もわざわざ入場させてしまって」
香奈未は恐縮しっぱなしだった。伝言ゲームがどこかでねじれたために望んだ相手ではない人間が目の前にいるから仕方ない。だけど香奈未をひとりにしておくこともできないので三糸が来るまでは一緒にいるしかない。遠くに見えるペンギンのプールを眺めながら、夏は暑くないのだろうかと途切れがちにどうでもいい話をする。
誰とでもそつなく付き合える性質だと自分では思っていたが、いかにも厳格な父に育てられたという印象がある女性と話をするのは初めてで、さすがの水戸も戸惑ってしまう。
特に会話が盛り上がるということもないまま、いたずらに時間が過ぎる。
「水戸班長!」
自分の名前を呼ぶ三糸の声が聞こえたとき、助かった、とガッツポーズしたい気分になった。
三糸は走って水戸たちがいるテーブルまでやってきた。長袖のシャツとロングパンツにブーツ、手にはジャケットを持っていて、いかにもバイク乗りという格好をしている。近くにいた女性たちが振り返って三糸を見ていた。背が高くて髪が短いから、たぶん男と勘違いしているのだろう。
「香奈未さん、手違いがあって申し訳ありません。三糸です。今日一日よろしくお願いします」
座っている香奈未の目線に合わせるように三糸が腰をかがめる。まるで王子様のような三糸の仕草に香奈未は顔を真っ赤にしていた。自分のときと全く違う反応に水戸は吹き出してしまった。
「んじゃ、オレは行くよ。あとは若い二人でごゆっくり」
そう言って立ちあがろうとしたら二人に止められた。
「せっかく水族館に来たんだし、三人で回りましょうよ」
三糸は必死な顔をしている。さっきまでのスマートさはどこに行ったと思ったが天上人の娘に緊張しているのだろう。
「お金もったいないですし、館内見ていきましょう」
香奈未はまだ入場料を払わせてしまったことを気に病んでいるようだった。意外と庶民的な金銭感覚の持ち主らしい。
「わかった、水族館は一緒に見るから。それ終わったら二人でごはんでも食べてきな」
そう告げると二人はあからさまにほっとした顔をしていた。
水戸が真ん中に挟まれて歩き回ることになった。一体なぜ。そう思いつつもそれが話しやすいのなら仕方ないと諦めた。
水戸は水槽の中の魚について、魚だなとか大きいあるいは小さいという以上の感想は持てなかった。恐らく三井と来たらまた違ったのだと思う。魚に対する感想は変わらないが、魚を見ている三井を見るのはすごく楽しそうだ。
でっけー!とか、おいおい食われちまうぞとかいちいち大きな声で感嘆するに違いない。
そんなことを考えていたら、女性二人はいつの間にか水戸を追い越して並んで歩いている。ずいぶんと打ち解けた様子だ。
水族館は真上から見るとドーナツのような形をしていて、真ん中には中庭がある。そこに行ってみると何やらイベントをやっているらしく人が集まっていた。
「アシカのバスケショーですって」
三糸が言った。バスケという言葉に目を凝らす。看板には三井が所属していた企業チームの名前が書いてあった。水戸は急いで中庭の真ん中にあるステージへと向かう。
人混みの隙間から首を伸ばしてステージの上を見た。そこにはチーム名が入った赤いポロシャツを着て、アシカにボールをパスする三井がいた。
三井からパスを受け取ったアシカがリングにボールを放る。ボールはリングをぐるぐる回り見事ゴールした。拍手と声援が鳴り響く。
「あれ、あの人って公開訓練に来てた班長のお友達ですよね」
水戸の隣にやってきた三糸が尋ねる。
「よく覚えてるね」
「私、人の顔覚えるの得意なんです」
スピーカーからイルカショーの案内が流れる。イルカを見に行くためか人だかりが半分ほど減ったので水戸はすかさず前に詰めて、ステージ全体がよく見える場所まで来た。三糸と香奈未も一緒にやってきて、ステージを見つめている。
「オレに付き合わないでイルカ見に行ってもいいけど」
「でもアシカがバスケするところも見たいです」
香奈未は三糸と一緒ならどっちでもいいのか頻りにうなずいていた。
ステージにはアシカと三井の他にアシカのトレーナーと女性の司会者がいた。
「サーラちゃん、五回連続でシュートできました。皆さん盛大な拍手を送ってください」
観客たちが拍手をする。サーラちゃんというアシカは拍手のなかをトレーナーと一緒に帰っていく。もう終わりかと思っていたら司会者が舞台袖のほうを確認してから三井に向き合う。
「それでは三井寿さんにもシュートを見せてもらいたいと思います。見たい人は手を挙げてください!」
水戸はどうしようか迷って、子供たちの声が響くなか顔を俯けて手を挙げた。三井のシュートを見られるのなら見てみたい。
「皆さん手を挙げてくださいました。それでは三井さん、お願いします」
「わかりました。ちょっとゴールが低いですけど入るかな?皆さん応援してください」
三井が客席に笑顔を向ける。それだけで何人かの観客がどよめいていた。
スタッフがアシカ用に設置されていたゴールの高さを限界まであげる。それでも本物のゴールよりずっと低いし、ボールだってアシカ用の小さなものだ。いつもと勝手が違うだろうにできるのだろうかと思っているうちに、三井はボールを顔の少し上で構えた。
会場がしんと静まる。
三井が手首のスナップを使ってボールを放つ。軽い動作だった。三井は少し目を細めてボールの行く先を見ている。ぱすっと音がして、水戸はシュートが決まったことを知った。また三井のことばかりを見ていた。
観客たちの拍手が沸き起こる。水戸も夢中になって拍手をしていた。たった一回のちゃちなボールとゴールでのシュートなのに、やっぱり三井は三井だった。どうして現役のときに一度も試合を見にいかなかったのだろうと後悔の念が押し寄せた。
三井は笑顔で観客を見回していた。水戸はただそれを見つめていた。やがてかちりと視線が合った。三井が目を見開く。だけどそれは一瞬で、すぐにまた笑顔へと戻る。
「それではこれから白川選手と後手選手のトークショーが始まります。楽しい話が聞けると思うので皆さん見ていってくださいね」
三井がそう言ってマイクを司会者に返し、ステージから捌けていった。軽快な音楽と共にユニフォームを着た選手たちがステージにやってくる。水戸は観衆から抜け出した。
ステージの後ろにはテントがあり、そこが出演者の控え室になっているようだった。ちょうどステージの裏側から出てきてテントに戻ろうとしている三井を見つける。
「ミッチー」
声をかけると三井は複雑な表情でこちらにやってきた。暑いし、休憩の邪魔をしてしまったかもしれないと水戸は申し訳ない気持ちになる。
「おまえ、なんでここに」
「同僚と偉い人の娘さんと来てた」
疚しいことがないので事実をそのまま答えた。三井の顔は冴えない。水戸はそれを疑問に思う。
「仕事は何時に終わるの? このあと用事ある?」
「四時には片付け終わると思うけど」
「待ってていい?」
「オレはべつにいいけど、おまえはいいのかよ。どっちか彼女なんじゃねえの」
「はあ?」
予想もしない言葉に水戸はつい三井の両腕を掴んだ。三井は下のほうを見ていて、なかなか目が合わない。その態度に苛立ちが募る。
「彼女なんかいるわけねえよ。わかんねえの?」
今までの水戸の態度を見て、好意に気付いていなかったとでも言うのか。それなら三井の水戸に対する態度も単に仲のいい後輩に向けただけのものということになる。体の内側がひりひりした。
「この間、居酒屋で告白するっていうの聞こえたから付き合ったのかと思った」
野間との会話が聞こえていたのかと思えば恥ずかしさに顔が熱くなった。どうして相手が自分だと思わないのか甚だ疑問だが。
「付き合ってないよ。とにかく待ってるから終わったら連絡寄越して」
三井は返事をしない。水戸は掴んだままの腕を揺らした。
「お願い、ちょっとでいいから時間ちょうだい」
「わかった」
それだけを言って三井は腕を振り払ってテントのほうへと向かっていった。
ステージの前に戻ると三糸たちは律儀に選手のトークショーを見ていた。
「ちょっと用事ができたから、このへんで失礼します。坂田さん、今日は報連相がうまくいってないせいで変なことになってすみません。お父さんにはオレが来たこと内緒にしてもらえると助かります」
「いえ、こちらこそご迷惑おかけしました。父には三糸さんとお会いできたことだけ話します。お気遣いいただいて助かりました」
「三糸さん、坂田さんのことよろしく。それじゃ」
「お疲れ様でした。お気をつけて」
二人に別れを告げて背中を向ける。今度はイルカを見に行こうとはしゃぐ、楽しそうな声が聞こえた。
四時になるまでにまだ一時間以上あった。再入場は不可なので水族館から出ることはできない。水戸は館内をぶらぶらする。夕方に近付くと水族館にはひとりの客が多くなり意外と悪目立ちすることはなかった。
建物から出て屋外の広場に出る。ペンギンコーナーの前にベンチがあったのでそこに座った。ここに座ってペンギンを眺められるようだ。
水戸は狭い空を眺めながら先ほどの三井について考える。三井はひどく不機嫌そうだった。当たり散らしてこちらを振り回すような不機嫌さではなく、嫌な気持ちを飲み込んで消化しようとしているのに漏れ出てしまった感じに見えた。
もしかして嫉妬だろうか。
それはあまりに自分に都合が良すぎる。でもそうだったらいいのに、と思ってしまう。もしも三井が女性といるのを見かけたら自分だっておもしろくない態度をとるに違いない。三井も同じように嫉妬でそっけない態度をとっていたのなら嬉しい。
そんなことを考えていたらペンギンの飼育員が水戸の前にやってきた。
「ペンギンの餌遣り体験に参加してみませんか?」
「え、いいです。そういうのって子供とかのほうがいいんじゃないですか?」
そう言いながらあたりを見回す。なぜかペンギンコーナーの周りには誰もおらず水戸ひとりきりだった。
しばし無言のときが流れる。
「じゃ、ちょっとだけ」
「ありがとうございます!助かります」
飼育員はバケツを差しだしてきた。その中には小さなアジが入っていた。戸惑っていると「素手で大丈夫ですよ」と言われた。なにが大丈夫なのか正直よくわからない。
水戸はアジのしっぽの付け根を掴んで、柵越しにペンギンたちに腕を伸ばした。ペンギンはすぐにやってきて、ぐわっとくちばしを開ける。
「うわ」
思っているより大きく開いて結構怖い。
「まだいっぱいありますよ~」
もうあんたがやってくれ。そう言いたいのを我慢してアジを掴む。たぶん手が生臭くなっているだろうがもう仕方ない。よちよちと小さいのがやってきたのでそれにあげようとしたら大きいペンギンに横取りされてしまった。
「あっ」
もう一度アジを掴む。柵が高いのか水戸の腕が短いのか、どうしても小さなペンギンに魚をやることができなかった。小さなペンギンはつぶらな瞳で水戸を見つめる。今度こそ、とバケツに手を突っ込もうとしたら「オレも餌遣り体験していいですか?」と声が聞こえた。
もちろんです! と言って飼育員はバケツをそちらに向ける。声で予想はついていたが、三井が立っていた。赤いポロシャツから私服に着替えたらしい。
三井は手をバケツに突っ込んでいる。
「うわ、ぬるぬる」
「ゼイゴに気をつけてくださいね」
三井は難なく小さなペンギンの口元にアジをぶら下げた。ペンギンはチャンスを逃さず食らいつく。やはり水戸の腕の長さが足りなかったらしい。
「おまえ腹減ってたのか」
ペンギンに笑顔を向ける三井を見ていたら、気まずげな顔と目が合った。とっさに言葉が出ない。
二人でもくもくとペンギンに餌をやる。水戸と三井以外の誰も餌遣りに参加せず、最後まで二人でやる羽目になった。
「ありがとうございました! 洗面台をご案内しますね」
案内された銀色のドアを通るとバックヤードだった。喧騒から遮断された静かな場所にバケツやら水槽やら色んなものが並んでいる。業務用の大きなシンクを使わせてもらい、魚の匂いをとるというステンレスの丸い塊に手を擦りつけ、ドラッグストアでは売っているのを見たことがない強力そうなハンドソープで手を洗う。
同じように手を洗い終えた三井が指を水戸の前に出してきた。
「臭うか?」
「いや?」
水戸も三井の鼻先に手を広げる。三井は大丈夫、とうなずいた。
バックヤードから出て再び喧騒に戻る。なかなか貴重な体験をしたかもしれない。そう思いながら水戸は三井を盗み見る。
三井の態度を見るに、このままうやむやにして夕飯を食べに行くこともできるだろう。だけどそうしたら三井のなかにわだかまりは残るだろうし、なによりこれ以上進展する見込みがなかった。
それに隣に立って三井の匂いや体温を感じたらもうだめだった。好きだと思う気持ちが抑えきれない。
水戸は三井の手を握る。
「あのさ、ミッチーのこと好きだよ」
手の中でぴくりと三井の指が動く。
「告白しようと思ってた相手はミッチーなんだよね、実は」
なにも言わない三井を不安に思い、水戸は顔をあげた。
三井は顔を真っ赤にして口元を押さえていた。
「ミッチー?」
見上げたまま握った手を引いてみる。
「おまえ、そんなの早く言えよ」
「だって会えなかったんだから言えないじゃん」
「さっきのオレ、ばかみてえじゃねえか。変な態度とって」
「どっちかが彼女かもしれないって拗ねてたの?」
三井は口を引き結んでそっぽを向いた。からかいすぎたかもしれない。
「ミッチー、ごめんって。オレさ、ミッチーに会ってから飯うまく感じたり、もうちょっと生きてみたいかもって思うようになったんだよ」
三井がようやくこちらを向いた。薄い色の瞳が揺らめいている。
「ミッチーと一緒にいると楽しいから、もし振られて会えなくなんのキツいって日和ってた」
かっこ悪い告白だなと我ながら思う。水戸はつい俯いてしまった。
「振らねえよ」
静かな声が聞こえて、顔をあげる。
「これから、もうちょっと生きてみたいかもなんて曖昧なもんじゃなくて、死にたくない、絶対生きてやるって思わせてやる」
三井は目を潤ませたまま、にやりと笑った。
こんなふうに強い力で引っ張り上げて、太陽を浴びさせてくれるようなところが好きだと思った。恩着せがましくない明るさと優しさがどうしようもなく愛しい。
「もうミッチーなしじゃ生きられないね」
「そうだよ。一生、オレなしじゃ生きられないようにしてやる」
本人は気付いているのかわからないが、プロポーズみたいな言葉に笑ってしまう。
「ずっと一緒にいるよ」
三井は唇をへの字に結んで、腰を屈めた。
「水戸、好きだ」
耳元を掠めるような囁きだった。耳から全身へ、熱が広がっていく。
オレも! という声は後ろのペンギンたちの合唱でかき消された。