ヤプーパロ続き③ タイガーは船の近くに降り立つと、翼を畳みながらゆっくりと船へと足を進めた。数週間ぶりの帰船だ。好きで放浪しているとは言え、久しぶりに仲間に会えると思うと不思議と心が躍る。政府にいた頃はこんな感情を抱く事は無かったが、ここ数年ハートの海賊団で過ごす内にこうやって心動かされる事が増えた。タイガー自身は自覚していなかったが、ハートの海賊団で情緒が育まれた結果であった。
S(セラフィム)・タイガーは政府に作られたトラファルガー・ローのクローンであり、生物兵器である。生まれた当初は政府の命令に従っていたが、紆余曲折あって現在はクローン元のトラファルガー・ロー率いるハートの海賊団所属になっている。所属といっても、クローン元の影響もあるのか最近では放浪癖があり、ハートの海賊団を一人離れてフラフラしている事も多い。もともと生物兵器のセラフィムとして生を受けた彼をどうにか出来る者なんて限られていたし、少年期から青年期へと成長しつつある彼に対し、ハートの海賊団もそう過保護になる事もない。……そもそもハートの海賊団は船長の放浪に慣れていたのもある。と言うわけで、タイガーは気の向くままにこの広大な海を自由に大きな翼を広げて飛び回っていた。
今回も数週間前に船を離れて近隣の島々を旅していたタイガーだったが、一人の冒険にも飽きてきて久々に仲間の元に帰る事にした。船長のトレードマークによく似た帽子にはベポのビブルカードを仕舞い込んでいる。旅先から帰りたくなったらカードの進む先へと翼を広げればいい。
休み休み半日ほど飛んだところでハートの海賊団の船は見つかった。気候も波の流れも穏やかな入江に停泊している。
しかし、タイガーはハートの海賊団の船に近付くにつれて違和感を感じた。いつもはタイガーが帰還すると、直ぐにクルーたちが気が付いて笑顔で迎えてくれるのが常だった。それが今回は勝手が違う。タイガーがいくら船に近付いても、誰か歓迎してくれるどころか誰一人として見当たらない。まさか何かあったのではないか、と不安に駆られて足を速める。襲撃か、それとも……。物騒な想像が脳裏に過ぎるが、自分でも未だ敵わない船長がそう易々とやられる筈がないと心を落ち着ける。それでも急いで、しかし慎重に船に近付いた。
「げ、」
そして、やっと見覚えのあるクルーを見つけてタイガーはほっと息を吐く。しかし、タイガーの反応とは打って変わってタイガーの視線の遥か下にいる子供は慌てたように視線を彷徨わせ始めた。
「……アイ、他の皆は?」
「麦わら屋とユースタス屋が喧嘩を売ってきたから、父様……、キャプテンが飛び出して行って、ほとんどそっちについてってる。こっちには船番ぐらいしか残ってないよ」
アイ―――、この子供もこの海賊団のクルーであった。その面影は船長を思わせる。それもそのはずで、正真正銘の船長の子供であった。敬愛する船長の子供という事でハートの海賊団のクルーたちに甘やかされて育ち、未だ齢八つであるが船長によく似て利発と言う事もあり今やこの海賊団において№2の発言力を誇っている。見た目こそこの子供より十ほど年上に見えるタイガーだが心というものの発育で考えれば、そう年は変わらない。ハートの海賊団に身を置いた当初はよくこの子供と遊ばされたものだ。二人揃って子供扱いされ微笑ましく見守られていたのを覚えている。
「そうか。……それでお前はこんなところで何してるんだ」
しゃがみ込んでアイに視線を合わせる。船長が悪友たちに唆されて張り合っているのは理解出来た。殆どのクルーがそれについていっているとしても、船長に溺愛されている幼いアイがたった一人でこんなところにいるのはおかしい。……いや、正確には一人ではない。アイは小さな体で人を一人背負っている。ただでさえ幼いのにアイは同じ年の子供たちよりはるかに小柄だ。そんなアイが痩せているとはいえ、大人一人を背負っているのだ。タイガーでなくとも、不思議に思うだろう。それに加え、背中の人物が服を何一つ身に付けていないのでタイガーは皿に眉を寄せた。
「……秘密だ」
「それで納得出来ると思うのか」
アイから背中の人物を受け取り、タイガーは傷付けないように丁寧に抱き抱える。アイは不貞腐れていたが、やはり相当無理をしていたのだろう。丸い頬を赤く染め、肩を大きく上下させている息遣いは荒い。タイガーが彼女を引き受けてやると気が抜けたように息を吐いた。
「ほら。何をしていたのか言え」
「……」
それでも、口を割る気は無いようだ。赤い頬を膨らませてタイガーを睨み付ける。タイガーは呆れながら、今し方受け取った人物を見た。
当然彼女もタイガーには見覚えがあった。アイの母親だ。確か彼女の名前も船長と同じくローだったと記憶している。彼女もハートの海賊団のクルーでありながら、記憶に薄いのは彼女が普段部屋に籠りっきりだからだ。宴の際なんかに、たまに船長に連れ出されているのを幾度か見た事がある程度だ。その際も船長のマントに包まって船長に凭れ掛かり、ぼんやりとどこかを眺めているだけだった。不思議に思って古参のクルーに尋ねてみても、昔いろいろあって足が不自由で口が利けないのだと、時間を掛けて療養中なのだとしか教えて貰えなかった。
そんな彼女を今、アイが連れ出している。ローはこんな小さなアイに背負われて引き摺られていたにも関わらず、眠っているようだった。何も無いと言う方がおかしい。
「ほら。言わないならキャプテンに言い付けるぞ」
「う……、散歩!散歩だよ。母様と散歩しようと思って」
「それで誤魔化せる筈がない事は分かるだろ?」
静かに見下ろすタイガーにアイは暫く唸っていたが、やがて観念したらしい。むすっとタイガーを睨みつけながら重々しく口を開いた。
「仕方ないだろ。こんな時じゃないと母様を連れ出せないんだから」
「連れ出す?」
「そうだ。父様が過保護だからずっと母様には見張りがついてるんだ。おれも一人で外に出させてもらえないし」
「見張り?」
「そう。お陰で母様は部屋に監禁状態だ」
タイガーはいろいろと不自由な彼女の為に、クルーの誰かが常に彼女に寄り添っていたのを覚えている。それがアイには違って映っているようだった。それに幼いアイが外に出る時、誰かがついているのは当然の事だ。
しかし、これでアイがどうしてこんな事をしているのか合点がいった。クルーが少ない今この時に母親を外に連れ出そうとしているらしい。理解は出来たが、タイガーもハートの海賊団の一員としてこの勝手な行動を許す事は出来なかった。
「キャプテンが戻った時に説得すればいいだろ」
「ダメだ。このチャンスを逃すわけにはいかない」
タイガーとしては、あの船長なら話せば理解を示してくれると思うのだが、アイは違うようだ。一歩も引く気はないようで真っ直ぐにタイガーを見抜いてくる。キッとタイガーを睨み付けてくるアイだったが、一歩も引かないタイガーに諦めたのだろう。やがて覚悟を決めたように息を吐いた。そしてはっきりとした声で告げた。
「こうなったら、お前にも付き合ってもらうぞ」
「は?」
タイガーの返事も待たずに、ローを抱き抱えるタイガーに両手を伸ばしてくる。「ん」とタイガーを急かしてくるので、タイガーは溜息を吐きながらしぶしぶアイを抱き上げた。思い返せば昔からこの幼馴染に勝てた試しは無い。
青年になりかけているタイガーは既に四メートル程の背丈がある。普通の人間であるローとアイ二人を持ち上げる事なんてそう難しい事ではない。タイガーは二人を抱き上げるとばさりと黒い翼を広げた。
「どこに行くんだ?」
「どこか無人島。浜辺のすぐ近くに森があるところがいい」
よく見るとアイは小さなリュックを背負っていた。小さな体でローを背負い、その上荷物まで用意しているとなると最初からそれなりに遠くに行くつもりだったようだ。タイガーにはただ船を出るだけで体力を使い果たしていたようにも見えるが、果たして何処まで本気なのだろうか。まさか本気で散歩なんかが目的では無いと思うが、それなら尚更アイがたった一人で目的を達成出来たとは思えない。
「……それなら戻る時にちょうど良い島を見つけた」
「やった!」
二人を抱えてタイガーは空へ舞い上がった。帰って来たばかりのはずなのに、今来た空を引き返す。腕の中のアイを見ると嬉しそうに顔を綻ばせている。……全く、本当にここで今自分と会えなければどうするつもりだったのだろう。タイガーとて、勝手にこんな事をしていい筈がないとは理解している。それでもアイが喜んでいる姿を見てタイガーはなんだか自分まで嬉しくなってきた。放浪が趣味の彼だが、幼馴染との冒険に心が弾んでいる。
「しっかりしがみ付いておけよ」
「分かった!」
タイガー自身も二人をぎゅっと抱え直すと無限に広がる大空を旋回する。
三人を見送る者は誰もいなかった。
***
「そう言えばどうしてローは眠ってるんだ?……いや、それ以前になんで全裸なんだ」
空を舞いながらタイガーは疑問を呈した。あれだけアイに引き摺られても目を覚ます様子は無い。余程深く眠っているようだ。それと当然の疑問。服を着ていないのがおかしいのは世間知らずを自覚しているタイガーでも分かる。
「母様は服が着れないから。眠ってるのはおれが父様の麻酔を借りて打ったからだ」
「は?」
「急いでくれ。母様には薬が効きにくいから、もうすぐ目を覚ますと思う。急にこんな空の上だと、きっと怖がるぞ」
アイの言葉がタイガーには全く理解出来なかったが、こんな空の上で怖がって暴れられても困るので少しスピードを上げる。アイは強まる風圧に目を細めるが、気持ち良さそうに微笑んでいた。
暫くすると、タイガーが見つけた無人島が見えてきて、タイガーはゆっくりと降り立つとアイを島に下ろした。
「おお、いい感じだ」
「それは良かった」
島を見渡してアイは感嘆の声を上げた。アイの言ったように静かな浜辺があり、その直ぐ後ろには木々が生い茂っている島だ。
「もうちょっと小さな島ならもっと良かったんだけど」
そんな事を言ってリュックをタイガーに押しつけると、アイはあろう事か着ていた服を脱ぎ出した。タイガーはぎょっと目を見開いて嗜めるが、アイがそれを止める事は無い。下着や靴まで全て脱ぎ去ると、もう必要無いと言わんばかりにそれらを投げ捨てる。
「タイガー、こっちだ」
そして、森の方へ向かって駆け出した。タイガーもついてくるよう急かしてくるが、タイガーはアイが脱ぎ捨てた服を拾い集めてアイのリュックに詰めてからゆっくりと後を追う。空からこの島には危険な生物が生息していない事は確認済みだ。タイガーが直ぐに駆けつけられる範囲なら少しぐらいアイと離れても問題は無いだろう。
「ここ、ここ。ここにローを降ろして」
「分かった」
浜辺と森のちょうど境目をアイは指さした。ローが直接地面に寝ころばないようにアイがリュックの中からシートを取り出す。そこにアイに言われるがままに優しくローを寝かせる。眠るローの顔をアイが覗き込む。その顔には抑えきれない笑みが浮かんでいて、如何にこの瞬間を待ち侘びていたのかが察せられた。
「……そんなに母親が恋しかったのならキャプテンに言えばいいじゃないか」
母親がこんな状態なので、親子であってもこの二人が一緒に居られる時間は制限されていると聞いている。しかし、アイももう分別がついているし船長に相談したらなんとかして貰えるのでは、と思っての提案だった。
しかし、アイはそんな提案を鼻で笑う。
「そんなんじゃねェよ。……ロー、ロー。そろそろ起きよう」
タイガーを振り返りもせずに、アイはローの頬を幾度かペチペチと叩いた。
暫くすると、ローが目を覚ます。寝惚けているのだろう。少しの間、ぼんやりと辺りを見渡して、やがて見慣れない景色に気が付いたのか狼狽え出した。
「……ぅ、……ぁッ」
「ロー、大丈夫。大丈夫だ」
今にも取り乱しそうなローをアイが優しく抱き締める。なかなか落ち着かないローだったが、根気よくアイが宥め続けているとだんだんと落ち着いてくる。今にも嗚咽を上げてしまいそうな状態でもう一度辺りをキョロキョロ見渡し、自らを抱き締めるアイと視線を合わせる。
「……ぁ……ぃ?」
「そうだ!アイだ!ロー」
ローが不思議そうに消え入りそうな声でアイを呼ぶとアイはその顔色を喜びに染めた。そして未だに状況が掴めず呆然とするローを抱き締める力を強める。
「まさか生き延びていたなんて。すごい、すごいよ。ロー。頑張ったんだなぁ」
「ぅぁ……?……、……………」
「そう!そうだ‼そのアイだよ」
「……⁉……ぁ、ぁ……ッ」
「ローがおれを産んでくれたから、こうやってまた会えたんだ。……ありがとう、ロー」
「ぁぁ………ッ!」
「本当にすごいよ。偉かったなァ。ロー」
今度はタイガーが全く状況を理解出来なかった。目の前では親子が抱き合って、二人とも大粒の涙を流している。ただの親子の触れ合いには決して思えなかった。しかし、二人の間には何か深い事情があって、それは到底タイガーには立ち入る事の出来ないものだと察した。
抱き締め合う二人を少し離れたところから静かに見守る。タイガーにはそうする他無かった。
***
「……ぅ、ぁ?」
「ああ、あいつはタイガ……いや、あいつもアイだ。ちょっとおれたちとは違うから色が違うし、デカいけど……ローの顔だろ?だから、安心していい。ここにはローの味方しかいないよ」
静かに二人を見守っていたタイガーだったが、やがてローがタイガーに気が付いたらしい。タイガーに視線を送りながら、不安そうに何かをアイに尋ねている。アイが紹介する自分は決して正しいものとは言えなかったが、話を合わせろというアイの視線を受けてタイガーは控えめに頭を下げるに留めた。
「そうだ。ロー、少し待ってろ」
「ぁ……」
放っておかれていたタイガーだったが、ローがタイガーに興味持った事で漸く二人の間に入れて貰えるようだ。不安そうにするローを置いてアイがタイガーの方へやって来る。タイガーはやっと何が起こっているのか分かると安堵する。
「おい、これはどういう事だ」
「悪い。説明している暇は無い。ローが不安がる。黙って魚を取ってきてくれないか?網ならリュックに入ってるから。タイガーなら簡単だろ?約束だったんだ」
否、アイはタイガーに何も説明する事無く、ただそんな指示を出してさっさとローの元へと戻っていく。文句を言いたいタイガーだったが、アイが戻ると焦ったようにアイに縋り付き、今にも泣き出しそうなローを見れば、それも出来なかった。ローの背中をポンポンと叩いてあやしているアイを尻目に海へ向かう。
(なんで、おれがこんな事)
アイの言ったように魚を取るのはそう難しい事では無かった。海の上を低空飛行し、魚が集まっているところで軽いビームを放つ。するとプカプカと魚が浮いてくるのでアイのリュックに入っていた小さな網を使って五匹ほど掬う。
それを持って二人の元へ戻るとローが驚いたように目を見開いてタイガーを見ていた。
「ローはビームを初めて見たから驚いてるんだ。今度はこれを焼きたいんだけど……。薪木探し、ローも一緒に行くか?」
「……ぅ!」
アイの言葉にローは嬉しそうに顔を綻ばせるが、当然ローは一人で移動する事なんて出来ない。アイの視線で全てを察したタイガーは溜息一つ吐いて、ローを優しく抱き上げた。怖がるかと思ったが、意外にもローは高くなった視界から、恐る恐る地面を見下ろしては目を輝かせている。
「ほら、お前も」
「おれはいいよ。自分で歩く。ローを頼むよ」
「それならせめて靴を履け。それが出来ないなら大人しく言う事を聞け」
アイは先導しようとしていたが、靴さえ捨て去ったアイにそれを許す事は出来なかった。浜辺ならまだしも薪木を集めに森に入るなら、裸足は危険だ。半ば無理矢理持ち上げると、アイは難しい顔をしていたが直ぐ隣で嬉しそうに手を伸ばしてくるローを目に入れると、大人しくタイガーに身を委ねた。タイガーの腕の中で、ローに抱き締められている。
「どっちに行く?ロー」
「……ぅぁ、」
「右だ」
「はいはい」
ローとアイの指示に従ってタイガーは森を進む。大きな体では生い茂る木々が煩わしいが、上手く枝葉を避け、間違ってもアイとローに当たって怪我などさせないように細心の注意を払ってゆっくりと歩いた。幸いな事にやはり脅威となる動植物はいないようだった。
「ぁ、ぁ……、」
「ストップ!ローが何か見つけた……、ッ、凄いぞ!ロー‼ミヤマだ‼」
「ぅ!」
「……ほら、これが欲しいのか?」
ローの指差す先にいたクワガタムシを採ってやるとローは興奮した様子でそれを眺めている。アイに促されて、戸惑いながらもクワガタムシに触れるとキラキラした視線をタイガーに寄越してきた。それに微笑んでやると殊更にローが嬉しそうにするので、なんだかタイガーの心まで弾んでくるようだった。たとえ声が出せなくても彼女の感情が伝わってくる。心が壊れてしまっていると思っていたが、こんなにもローの感情表現は豊かだった。
「あ、待って。あっち、あっち!」
暫く歩いていると、今度はアイが声を上げる。アイの視線を追えば、その先には果物が実っていた。乞われるがままそちらに向かい、腰を屈めてやるとアイが自分でその果物をもぎ取った。
「おい」
「平気だよ。前にも食べた事がある」
躊躇いなく得体の知れない果物を口にしようとするアイを嗜めるが、アイはそれを無視して齧り付いた。するとみるみる内にアイの顔が真っ青になって、慌ててそれを吐き出したので、タイガーは焦って声を上げる。
「おい、毒か⁉どこか苦しいのか?」
しかし、タイガーの心配を余所にアイは幾度か唾を地面に吐き出すと、慌ててリュックから水筒を取り出して水を飲む。飲み終えたアイは呆れたように笑みを浮かべていた。
「おい、」
「大丈夫だ。すごい不味かったから」
「お前な……、食べた事があるんじゃなかったのか」
「あの時は味覚なんか無かったから……。ロー、こんなの食べさせて悪かったな」
アイの言葉にローが一瞬きょとんとした後、ふるふると首を振った。
「ぁ、……ぅ、」
「……やめとけ。こんなの食べると舌が腐っちまう」
タイガーには二人の会話が全く分からなかったが、口を開けて果物を乞うローをアイが笑いながら嗜めているようだった。代わりにと先程自身が口にした水筒をローの口元に差し出している。ローは暫くじっとそれを見つめていたが、口を付ける気配は無い。困ったようにアイに視線を送るばかりだ。
「はぁ……、仕方ないな」
するとアイは驚くべき行動に出た。水を自分が口に含むとそのままローに口付けたのである。そのままアイの口からローのそれへ移ったのか、ローの喉がごくりと動く。一度の嚥下では終わらず、一度口を離してアイが再び水を口に含むと更にもう一回。
「な……、」
異様な光景だった。実の親子が目の前で口付けあっている。
呆然とそれを眺めていたタイガーとローの視線が交差する。瞬間、ローははっとしたように目を伏せた。慌てたようにアイから口を離す。
「……ぇ、……ぃ」
急に震え出したローにタイガーはたじろいだ。そんな反応をされても困る。戸惑っているのはタイガーの方だ。そんな二人に助け船を出すのは当然アイで、アイは呆れたように息を吐くとタイガーの腕の中で優しくローを抱き締める。
「ロー、大丈夫だ。こいつもアイだって言ったろ?こいつもローの味方だって。だれにも言ったりしないさ。……なァ、アイ?」
アイの言葉に瞳を揺らしながらローがタイガーを見上げる。相変わらず状況もアイの言葉の意味も全く理解出来ていないが、こんな状態のローを見ると肯定する道しかタイガーには残されていなかった。
「……はぁ。大丈夫だ。おれはお前の味方だ」
その気持ちを伝えるように抱き抱える手で軽く頭を撫でてやる。
「……ぅぁ?」
「ああ。何も不安に思う事はない」
本当に?と尋ねてくる声が聞こえた気がした。タイガーははっきりと頷いてやる。こんなにも不安定な彼女を突き放すなんて出来る筈が無かった。ローの柔らかい髪をもう一度優しく撫でてやる。するとローはタイガーの腕に顔を伏せてしまった。しかし、タイガーの腕をぎゅっと抱き締めてくるので、彼女の信頼は得られたようだった。
「ここにはローが不安に思う事なんて何も無いさ」
ローに声を掛けながら、アイがほっとしたようにタイガーを見上げていた。決して言葉にはしなかったが、アイの安堵が伝わってくる。後で必ず問い詰めると決意して、タイガーは黙ってこの茶番に付き合うのだった。
それからは、また暫く薪木集めと言う名の散策は続いた。
「ぅぁ、」
ローがか細い声を上げると、地面にちょうど良い大きさの枝が転がっている。それを拾って手渡してやるとローは嬉しそうにそれを抱え込んだ。アイがローを褒めるのも忘れない。幾度かそれを繰り返すと、いつの間にかローの手は薪木でいっぱいになり、元いた場所に帰る事にする。
帰り道も楽しいものだった。ローが虫や珍しい植物を見つけると声を上げ、その度にローの納得のいくまでそれらを観察する。時折、アイの方がローの興味を引きそうなものを見つけて声を掛けてやる場面もあった。
「ローはさ、本当は好奇心が強いんだ。今は閉じ籠ってばかりだから、連れ出してやりたくて」
ローが行きに捕まえたクワガタムシに夢中になっている間にこっそりとタイガーに耳打ちしてくる。
「……それなら船長に言えばいいじゃないか。あの海賊団なら、理解してくれるだろ」
この不思議な旅の当初からの疑問だ。彼女を連れ出すのも、こうやって遊ばせるのもあの海賊団で何が問題なのか分からなかった。仲間思いな彼らに反対するものがいるとは思えなかったし、むしろ楽しませようとする方が簡単に想像出来る。どうしてアイがこうやって、こそこそと彼女を連れ出しているのか疑問でしかない。
「駄目なんだ。あいつらが側にいるのは。ローがローでいられないから」
「は?」
「……おれだけは大丈夫だったのに。何があったのか、おれにまで壁を作るようになっちまって。だから、今日ローを連れ出せて良かったよ。これですっかり元通りだ。ありがとう、タイガー」
「……?それはどう言う……」
「ロー。そろそろ、そいつ逃してやれ。十分遊んだだろ?」
タイガーの言葉に被せるように紡がれたアイの言葉に、タイガーはアイがもうそれ以上語る気が無いと知る。納得がいかなかったが、ローがこちらを振り返ったので話は切り上げざるを得なかった。
「……ぅぁ、ぁ、」
「そうだな。楽しかったな。今度はヘラクレスを探そう」
「ぁ……、……ぅ、……ぁぅ」
クワガタムシを逃すと興奮気味に何かを語るローにアイが相槌を打つ。もうローの言葉はタイガーには喃語にしか聞こえなかったが、相変わらずアイにはそれが言語としてちゃんと伝わっているらしい。
浜辺に着くまで楽しそうに何かを話している二人をタイガーは静かに抱え、歩き続けた。
***
パチパチと炎が弾ける。ローはそれを飽きる事なくじっと見つめ続けている。
「ロー、触るなよ。火傷するぞ」
「……ぅ」
「分かってるって?ほんとかぁ?」
もう日も落ちてきていた。
タイガーはアイに言われるがままに採ってきた魚を焼いている。組んだ足の上にはローとアイが凭れるように座り込んでいる。
「……もう良いだろう。火傷するなよ」
焼けた魚をアイに渡してやる。アイはフーフーと息を吹き掛けて魚を冷やすと小さく魚に齧り付く。
「あつ……ッ」
「ほら……、言っただろ」
「ロー、ちょっと待って。……ん」
アイは暫く魚を口に含んだ後、急かすようにアイに視線を送っていたローに口付ける。……森で口移しで水をやっていた時と同じだった。ローは一度タイガーを見遣ったが、タイガーが微笑んでやると安心したようにアイに身を委ねた。
「美味しいか?ロー」
「ぁぅ」
「はは、約束だったもんな。遅くなってごめん」
嬉しそうに次の一口を急かすローを見るにどうやら魚はお気に召したらしい。アイは魚を齧ってはローに口移しで食べさせるのを繰り返す。親鳥が雛に餌をやる光景によく似ていた。
タイガーはもうそれを気にするのは止めた。きっと二人にしか分からない何かがあるのだろう。まるでとても甘美な誘惑を受けているようだった。しかし、タイガーには決してそこに入り込めない。今だってローの口から離したアイの口には銀色の淫靡な糸が伝っている。もっともっとと急かすローのとろりと溶けた瞳はタイガーの理性まで溶かしてしまいそうだ。そんなタイガーを牽制するかのようにアイは一瞬タイガーに鋭い視線を送ると次の一口を淫らに口付ける。
「……ローは粥しか口にしないと聞いていたが」
なんとか思考を変えようと搾り出したのはそんな言葉だった。本当はもうそんな事はどうでもいい。今、この島はどこか現実からはかけ離れている。これまでのタイガーの認識なんて簡単に覆されてしまう事なんて、なんとなく気が付いている。
「だから、こうやって食べさせてるんだ。……お前もやる?」
嘲笑うように告げられた言葉にタイガーは静かに首を振った。この二人に割って入るなんて出来る筈が無かった。
「んぁ……っ、」
アイの手がローの股に伸びたところでタイガーは目を背けるように魚に手を伸ばす。それに齧り付くと焼きすぎたのか焦げた苦味が口の中に広がった。まるでタイガーの心の内を表しているようだった。
食事が終わって少し休憩した後、とローとアイはタイガー背に凭れたまま一冊の本を広げ始めた。随分と分厚い医学の本だ。
「ローが本を読んでくれるんだ」
アイはこんな本までリュックに詰め込んでいた。最初からこれを乞うつもりだったのだろうか。
「……ぁ、ぅぁ……」
「良かったらタイガーも聞いてくれって」
「ああ、頼む」
タイガーには勿論ローの言葉は分からないのだが、ローの喃語のような言葉の読み聞かせは不思議と心地良いものだった。時折、アイが口を挟むのだが、それに応えるように頁を行ったり来たりする。解説でもしてるのだろうか。こんな状態であってもローにはしっかりとした医学の知識があるようで、説明をするローの瞳は真剣そのものだった。アイだけでなく、タイガーの方も気に掛けてくれて、ちゃんとついてこれているか時折こちらを心配そうに見上げてくる。
―――母というのは、こんなものだろうか。
ふと、そんな事を思った。いつの間にかタイガーの唇は僅かに弧を描いていて、気が付けば膝の上の二人をそっと抱き抱えていた。
タイガーの突然の行動にローが一度きょとんとした後、おかしそうに笑いかけてくる。それがどうにも嬉しくて、タイガーはこの静かな読み聞かせに確かに安らぎを感じていた。
「ローはさ、面倒見が良いからこうやって頼ってやった方が喜ぶんだ」
やがて、疲れたのかローがタイガーの膝を枕に船を漕ぎ始めた。そんなローの背中をポンポンと叩いてやってローが眠りについた頃、アイがポツリとそう切り出した。
「好奇心が強くて、面倒見が良くて、意地っ張りで負けず嫌い。けっこう子供っぽいんだ」
「……」
「タイガーが来てくれて助かったよ。おれ一人じゃ、ここまではどうしたって無理だっただろうから」
それはそうだろう。どうするつもりだったかは知らないが、小さくて非力なアイがローを抱えて遠くへ行けたとも思えない。
到底、親子の関係とは言い難い二人の行為を見せつけられて、流石のタイガーも二人の関係を船長らに知られるわけにはいかないと察している。何度も船長らに言えば良いのにと思ったが、言える筈が無かったのだ。こんな事知られてしまった日には海賊団として、また親子としての絆も崩壊しかねない。
「……おれは知ってしまったけど、良かったのか?」
仕方なかったとしても二人の秘密を知ってしまったタイガーをアイはどう思っているのだろう。タイガーだってハートの海賊団の一員だ。きっと本当はタイガーにさえ知られたく無かったに違いない。
「いいよ。……もし、おれが居なくなったらローを頼む。これでタイガーもアイなんだからさ」
「それは、どういう……」
「……さぁな」
それだけ告げて、アイもタイガーの膝に顔を伏せてしまった。もう話はこれで終わりという事らしい。
随分前から空には満天の星空が広がっている。朝起きたら急いで帰らないとな、と思う。きっとアイとローの脱走に気が付いたハートの海賊団は今頃大騒ぎだろう。戻った時の事を考え、タイガーは気が重くなる。それから逃げるように、二人を腕の中に抱え直すとタイガーも夢の世界に旅立った。
***
早朝、タイガーはアイを起こす。未だどこか夢見心地のアイはうとうととしながら、立ち上がる。声を掛けるも覚醒には程遠いらしく、覚束ない足取りで辺りを彷徨っている。それでも、流石にもう帰らなければならない。早く帰らなければ、ビブルカードを元にハートの海賊団がここまでやって来かねない。
「おい、アイ。さっさと服を着ろ。それでは帰れないだろ」
「……捨ててくれて良かったのに」
「ばか言うな」
リュックに詰めていた服を差し出すとそんな巫山戯た言葉を返された。溜息を吐きながら、再度さっさと着るよう促すが、アイは服を手に持ったまま固まっている。
「おい、早く」
「なァ、タイガー」
尚も急かすタイガーをアイは遮る。そして耳を疑う言葉を吐き出した。
「このまま、おれとローはここに置いて行ってくれねェかな」
一瞬言われた意味が分からなかった。冗談は止めろと一蹴してしまいたかったが、どこまでも凪いだ瞳でローを見つめるアイがとても冗談を言っているようには聞こえなくてタイガーは言葉が詰まる。
ローを見ていた瞳がタイガーへと移る。まるでそれはタイガーの知るアイではないようだった。いや、昨日から気が付いていた。アイの中には……いや、目の前の存在はタイガーの知るアイでは無いのだと。じっとアイの中に潜んで様子を窺っていたのだ。それがタイガーがチャンスを与えたから、こうやって姿を現した。
どうする―――
アイの本気を感じ取り、逡巡する。
置いていく?そんな事をすれば、二人はどうなる?……危険のない無人島とは言え、この二人が生きていけるとは思えなかった。きっと数日の内に命を喪うだろう事は容易に想像がつく。
「……ッ、馬鹿な事を言ってないでさっさとしろ」
絞り出せたのはそれだけだった。
タイガーの言葉を聞いて、アイは一度こちらをじっと睨み付けた後、もうそれ以上何か言う事は無かった。黙って昨日脱ぎ捨てた服を身に付けている。
アイが服を着るとタイガーは静かにアイと眠ったままのローを抱き上げる。そして、来た時と同じように大きな翼を広げて空に舞い上がった。黙ったまましがみついてくるアイの手が、震えていたのには気が付かない振りをした。
暫く飛ぶとハートの海賊団の船が見えてきた。どうやら、タイガーの予想は当たっていたようで空から見下ろしても分かる程にハートの海賊団は騒がしかった。もしかしなくても、アイとローが行方不明になった為だろう。
「……大騒ぎになってるぞ」
どうするんだ、とアイに話しかけたつもりだった。しかし、タイガーの問いに答えはない。腕の中を覗き込むとアイも飛んでる内に眠ってしまったようだった。心なしか顔が赤い気がする。
幾度目かも分からない息を吐いて、タイガーは船の近くに舞い降りる。直ぐにタイガーに気が付いたハートの海賊団の面々が足早にこちらへやって来た。
「タイガー、アイとローを知らないか⁉」
「昨日からいなくなって、どうやらアイがローを連れ出したらしいんだ。船に残ってたやつら麻酔で眠らせてまで!」
どうやらタイガーと会う前にアイはとんでもない方法で抜け出していたらしい。タイガーは顔を顰めながら腕の中で眠る二人を差し出した。
「え、タイガーと一緒だったの⁉」
「キャプテン!こっち‼二人ともいた!」
「アイちゃん、熱上がってるッ!早く部屋に戻さないと!」
クルーたちが目まぐるしく動いていく。タイガーはどうしたら良いか分からなくて、立ち竦む事しか出来なかった。しかし、直ぐに船長がやって来てシャチに抱き抱えられたアイに顔を顰めた。
「〝ROOM〟」
辺りを青いサークルが包み込む。それから暫くして、船長が静かに口を開いた。
「……大丈夫だ。部屋に寝かせて点滴繋いどけ。後でおれも行く。説教は回復してからだ」
そう言ってアイをシャチが運んで行くのを見送った後、船長は今度はローをペンギンから受け取った。
「どうせ、アイが我儘言ったんだろ?お前が居てくれて助かった。お前も怪我とかしてないな?」
「……ああ」
そう労われていると、周りの騒がしさにローが目を覚ましたらしい。船長の腕の中で身動ぎして細い声を上げる。
「……おかえり、ロー。何をして来たんだ?」
「……ぅ?……ぁ?」
そんな優しい声を掛けながら、船長は部屋の中へと消えて行った。
後に残ったペンギンがタイガーへと歩み寄って来る。
「……船長はああ言ってるし、お前へのお咎めは無いと思うけど本当に心配してたんだ」
「ああ」
当然だろう。それはタイガーも予想していた。
「居なくなったってだけじゃねェ。お前は気が付かなかったかもしれないが、アイはまた調子を崩してて数日前から寝込んでたんだ。だいぶ良くなって来てたんだけど、ありゃぶり返したな」
「……すまない」
「もうちょっと、人を見る練習はした方が良いかもな。体調を崩すって事がお前にはよく分からないかもしれないが、大事な一人娘が体調不良の上、行方不明だ。落ち着いているように見せているが、キャプテン、内心穏やかじゃ無かっただろうさ」
俯くタイガーにペンギンは困ったように頭を掻く。厳しいように言っているかもしれないが、ペンギンがタイガーにだって気を使ってくれている事は分かっている。身体ばかり大きくても心が未発達なのはタイガー自身理解している。ペンギンはタイガーの為にも伝えてくれているのだ。
「……それと一応言っておくが、」
そして、ペンギンはそう前置きして再度口を開く。
「ローにも注意を払ってくれ。……いや、おれたちの誰かが必ず側にいるようにはしているんだが。……あいつ、前に海に身投げした事があってな。その時はキャプテンが気が付いてたから大丈夫だったけど……。悪いな。もっと早く言っとくべきだった。だから余計に心配で」
嗚呼、成程。だから、アイはこのチャンスを逃すわけにはいかないと告げたのだ。
ペンギンたちの心情は理解出来る。しかし、アイとローと〝昨日〟を過ごしたタイガーの心境は複雑だった。今の話を聞いても、昨日のあの二人の時間を否定する事なんてとてもじゃ無いけれどタイガーには出来ない。きっと二人でしか紡ぐ事の出来ないかけがえの無い時間だ。
『このまま、おれとローはここに置いて行ってくれねェかな』
アイに告げられた言葉がちくりとタイガーの心を刺す。
連れ帰った事が間違いだったなんて思わない。もう少し帰るのが遅ければアイの命を危険に晒したかもしれない。
……それでも。
船に連れ戻される際に見た、船長の背中越しのローのどこまでも昏い眼差しがタイガーの脳裏に焼き付いて離れない。まるで、夢から覚めて辛い現実に戻って来たような。
―――嗚呼、自分は間違えた
タイガーの脳裏にはそんな考えがこびり付いて、終ぞ消える事は無かった。