日陰 スカラビア寮地。太陽光を遮る雲は無く、余すことなく地表の砂を焼く。燦々と輝く太陽の下で、より一層オアシスは煌めいていた。
そのオアシスを中心にして開かれた宴では、今がウィンターホリデー、冬の只中であることなど誰もが忘れている。
陽気な音楽に合わせて歌い踊り、豪華な料理の数々に賑わいを見せた宴も中盤。各々が自由に過ごす合間──
目まぐるしいホリデーだ。オクタヴィネルの寮長、アズール・アーシェングロットは賑々しい光景を見て思う。オーバーブロットの不祥事など、まるで夢の中の出来事であった様だ。普段海の中にいる人魚があげく砂漠の果てまで飛ばされたなど、それでさえ校内の出来事であるから笑える話である。
そんなことを考えながら、アズールは額に浮かぶ汗を拭った。
「暑い」
オアシスの喧騒から少し離れた一角。砂地に設けられた、円形のテーブルと椅子。その中心には、海辺のリゾートを思わせる大きなパラソルが差されている。日差しこそ遮ってくれているが、周囲を包む熱気までは防ぎきれない。
アズールの口から思わずといった具合に言葉が溢れたのは致し方ないことのようだった。しかしながら、アズールは着ている寮服のジャケットを脱いだり、シャツの袖を捲くるようなことはしない。
オクタヴィネルの寮服。スーツを隙なく着込んだ装いは、この灼熱の砂漠の中ではひどく場違いに見える。その視界に入れるだけで体温が上がりそうな外見は、実のところ素肌でいるより幾分暑さを感じにくいのだ。各寮の個性を掴むためにも、寮服は他寮の気候を度外視してデザインされている。それ故ある程度の気温や湿度の変化に適応する特別な魔法繊維を用いて作られていた。強い陽射しと、それに焼かれた砂漠の熱に挟まれていても然程暑さを感じない。
──とはいえ、『然程』だ。
「そうですね」同じような暑苦しい格好をした長身の男がアズールの独り言を拾う。
「アズールもほら、泳いできたらいかがですか?」
「寮長の僕が、他寮の寮長の前で無邪気に泳げと?」
同じテーブルに座るオクタヴィネルの副寮長、ジェイド・リーチは「ええ」といつもの敵を作らない笑みを浮かべて肯定した。涼し気な顔をしているが、アズールと同様に額に若干の汗を浮かべている。
「カリムさんはそういった体裁にこだわる方ではないでしょう。衒いない方です。アズールがまるで十七歳の男子高校生のようにはしゃいだところで気にされませんよ」
「カリムさんがどうという話ではないんですよ」
アズールはジェイドをジロリと一瞥し、手前に置かれた自らのグラスを取る。無糖のソーダだ。喉を刺激する冷たい炭酸が、皮膚を刺す熱を一時忘れさせる。
──寮長というものは面子を大事にしている。七つの寮に優劣を作らせないためには勿論、実力主義の風潮があるNRCでは寮長としての能力を自らの寮生に知らしめるためにも威厳が必要なのだ。
スカラビアの寮長は、やはりその点に置いておおらか過ぎる。それを彼の良さと捉えることは出来るが、今回の一件を思うと頷けない。
グラスの底を啜るストローからズズ、と音がなる。「同じもので?」ジェイドが聞いた。「お願いします」アズールがグラスをジェイドに寄せれば、ジェイドはテーブルに置かれた瓶を取って慣れた手つきでソーダをアズールのグラスに注いだ。
「アズール、自分の姿が分かりますか? 見ているだけで汗が吹き出しそうですよ。他寮の行事に参加している手前ではありますが、些かTPOに欠けると思いませんか」
「分かっていますよ。同じような暑苦しいのが、目の前に居ますからね」
「『郷に入れば郷に従え』と言いますでしょう。自然体でこそ喜ばれるはずです。フロイドなんて見てください」
ついに元の姿に戻りました。その言葉にアズールがオアシスへ目を向けたとき、凄まじい水飛沫がオアシスの中央から上がった。水飛沫がざわつく声と共に収まると、オアシスの中央にトルコ石色の、艶めく巨体が現れた。──人魚姿のフロイドである。
エース・トラッポラがその巨体に巻きつかれ呻き声を上げている。様子を見るにフロイドがいつもの調子で揶揄っているのだろう。「ギャアー!」などとお手本のような良いリアクションだ、そういった反応が余計にあの傍若無人のウツボを喜ばせる。しかし、虐げられる一年生に可哀想などという気持ちは露ほど沸かない。かの一行に辛酸を嘗めさせられたのはほんの数カ月前のことだ。
特段止めようと思わないが、それとは話が別である。
「あのバカ」アズールが小さくため息を吐く。もちろん他寮の生徒を思ってのことではない。「人前でホイホイ変身薬をつかうなと言っただろ」
アズールの指す変身薬とは人魚を援助する団体より支給される、人魚が一時的に人間になる魔法薬の事だ。
その昔、陸に上がった人魚の姫が陸を目指す後世の人魚のために残したもの。今では法に基づき整えられ、制度として明確な制約がある。もともと半永久的な変身薬の利用は国家資格など厳しい基準が設けられており、一般の生徒が使えるようなものではない。一時的な効果とはいえ、支給された魔法薬の使用日、期間、イレギュラーがあった際の理由等と細かく報告が義務付けられていた。
陸に上がる人魚が増えたとはいえ、まだまだ柵は多い。
アズールが顔をしかめる横で、ジェイドはオアシスの喧騒を愉快そうに眺める。
「また申請数をチョロまかさないといけませんねぇ」
手を口元に寄せてクツクツと笑う姿はアズールと同じ叱る側の立場であるとは到底思えない。
「ジェイド」窘めるような声色だが、アズールの表情は大変にこやかだ。どこからか借りてきたような、嘘っぱちの笑顔である。
「まるで僕達が不正をしているような言い方じゃないですか。僕は『支給された魔法薬』の使用数を誤魔化したりなどしていないはずですよ」
「おや、そうでした」ジェイドが目を細める。
団体への申告義務は果たしている。約款にはあくまで『支給した魔法薬の使用数を申告すべし』としか書かれていないのだから。
まさか魔術式や使用素材が非公開の魔法薬を年若い学生が作成出来る等と、役人も考え及ばない。
フンとアズールは鼻を鳴らし、借りてきた笑みを返却して不機嫌な顔付きへと変わる。
「そうですよ。けれど何も知らない輩に吹聴されてお役人の方々が勘違いしては困りますからね。お前もフロイドによく言っておきなさい」
「伝えてはいるんですがねぇ」
さも困った風に眉を下げるジェイドだが、「アズールが怒りますよ」と伝えるだけで別段フロイドを止めていない事をアズールは知らない。知りはしないのだが、どうせ言う事を聞いていないのだろうと勘付いてはいる。ジェイドはフロイドよりも規則規範に準じているように見せるが、何より自らの愉悦を優先する厄介な悪癖がある。しかし同時にアズールが怒るラインを絶妙に超えてはこない、悪賢さがある男なのだ。そんな嫌な信頼を以って、アズールは胡乱げな視線を向けるだけに留めた。
乾いた風が吹いている。砂が、肌を流れる汗に張り付いたようで不快さが増す。水に戯れる人魚は居れど、故郷の海とは似ても似つかないとアズールは思う。
「涼しげでいいじゃないですか」寸の間の沈黙の後、ジェイドが口を開く。「熱砂のオアシス、悠々と泳ぐ人魚。この場にポムフィオーレ生がいれば詩の一つや二つ、書いていたかもしれません。ああ、動画を撮りましょう」
ジェイドは携帯端末を取り出し賑々しいオアシスへとカメラを向ける。
一度カシャという撮影の操作音がした。写真を撮ったらしい。「僕のマジカメに上げておきましょう。他寮との友好的な交流ですよ」そう言ってジェイドは端末を操作し、再びカメラをオアシスへと向けた。
ハッピービーンズデー以降、ジェイドは一層情報収集に興味が出たらしい。試合の勝敗を決める武器を秘密裏に取引する『スミス』の存在など、体力育成の行事というのに運動能力だけでは決まらない戦略の幅広さがお気に召したようだ。SNSに関しては同じ農民チームで共に行動したというケイト・ダイヤモンドの影響もあるのだろうか、アズールはチラリと考える。
アズールも交流のためにSNSは多少活動しているが、何分寮長且つ総支配人という役職が多忙であるためにモストロのSNS発信や取引に関する情報収集はジェイドに一任している。精査や裏付けなど負荷のかかる仕事ではあるが、何やら楽しそうにやっているので問題は無いのだろう。アズールにとっては、結果的に上手くやっていればそれで良いのだ。
ふう、とアズールはわざとらしく息を吐き、足を組み替える。
「アイツの泳ぐ姿に今更何の感慨も湧きませんよ」
「そうですか?」ジェイドは携帯端末を掲げたまま視線をアズールに寄越す。
「二本足のアズールが泳いでいる姿、僕は未だに新鮮ですよ」
「フン、陸の人間と同等の速さでしか泳げない人魚はそんなに物珍しいですか?」
「おやおや、一体僕のことをどれほど意地の悪い人魚だと思っているんでしょう」ジェイドは携帯端末を手元に戻した。動画の確認をしているのだろう。
「そう卑下しないで。平泳ぎは得意じゃないですか。僕は少し苦手ですよ」ジェイドは端末を仕舞った。「尾びれを膨らませるように泳ぐのって、なんだか不思議な感覚で」
「まあ確かに、泳ぎの構造は陸の人間のものと似ていますね」
「それにほら、貴方、僕等と違って尾びれの数がだいぶ減りますし」
フロイドも物足りなくて寂しいと言っていたじゃないですか。
「なんというか、目減り──いえ、ふふ、ボリュームが……、迫力に欠けるといいますか。お皿に乗っていても、ちょっと足りないですね」
「お前は食事をしてきてはどうです? そうすれば、その無尽蔵な胃袋と食欲も少しは収まるかもしれませんよ」
「ふふふ、そうしたい所ですが僕も他寮の生徒の前では引け目がありまして」
「どの口が言うんです。本当に二本足にされては困るんですよ、まったく……」
ジリジリ、相変わらず、太陽は煌々としている。
ジェイドが椅子の下に置いていた荷物からゴソゴソと何かを取り出す。水着だ。
「僕も泳ぎたくなってきました。水着、持ってきてるんですよね」
何故か水着を広げて見せてくる。鮮やかな配色に、有名ブランドのロゴがさりげなくアクセントになっている。
「フロイドと色違いなんです」
「はあ、仲の良いことで」
片割れは早速、脱ぎ捨てたが。
「アズールの分もありますよ」
「ハァ?」
「お揃いです」
ジェイドは徐に取り出したもう一枚の水着を手前に掲げる。
「僕とフロイドからのささやかなプレゼントです。寂しいでしょうから、ほら、いろちがい」
アズールは想像した。十七にもなる男子が三人、仲良く揃いの水着を着て泳いでいる──目眩がする、これが熱中症というやつなのかもしれない。
「本気で僕が喜ぶと思ってやっています?」
「ええ、もちろん。今の貴方の表情が見たかったんですよ」
もちろん、アズールはうんざりとした表情を浮かべていた。
アズールの反応にジェイドは満足したのか水着を丁寧に畳んだ。「残念ながら今は使わないとの事なので、あとで綺麗に梱包して枕元に置いて差し上げますね」大変愉快そうである。
──ふと、アズールは思う。今日はやけに、一言が多い。いや、いつも多いのは知っている。だが、今日はとりわけ煩わしい。
まるで憂さ晴らしだ。憂さ、この男に、憂さ……?
アズールはほんの間、考えて、そして辿り着く。
「おまえ、今日はやけに喋りますけど、もしかしてユニーク魔法が効かなかったこと、根に持ってます?」
アズールの問いかけに、一瞬、ジェイドは肩を揺らしたように見えたがすぐニコリと微笑んだ。
「ええ。それはもう、とてもとても悔しい思いです」
案外あっさりと、そして拍子抜けするほど素直に、ジェイドは肯定した。
「流石はアズール、人の悩みを暴くことに関してはとりわけ一流ですね」
「ふん、らしくもないですね。結果的には真実を話したも同然だったのに」
「結果的には、そうですね」
ジェイドはオアシスへ視線を向けた。その先にいるのは魔法を退けた少年か、それとも。
「二度目でも、警戒心で防がれたわけでもない。僕の魔法は、確かに効いていた。アズールの言った通り、それを上回る『人情』が彼にはあったというだけのことです」
淡々と語りながらも、どこか感情の欠けた視線が、再びアズールを捉える。まるで、踏み台にされたような心地だ──とでも言いたげに。
ひと呼吸置いて、ジェイドは肩をすくめた。
「そして僕のユニーク魔法は暴かれ、上司は大爆笑、僕の心は甚く傷つきました。しくしく」
どうやら、根に持っていたのは嘲笑われたこともあるらしい。かといってそれを謝る気も起き無いが。
「──今回の失敗は、僕なりに反省しています」
ジェイドは一転して真面目な声で言いながら、視線をゆっくりと落とす。
「『信頼』や『情』といった曖昧なものが、あれほどまでに強く、人の判断を支配するのだとしたら……」
口元には、静かに笑みが浮かんでいる。色の違う左右の瞳が、ほんの一瞬、光を帯びたように見えた。
「……次は、どう策を講じて、ああいう純真な心を踏み躙ってやればいいのでしょう──そんな考えばかりが、頭を離れないんです」
彼の微笑の口元から、獰猛な牙が覗く。
アズールは思わず口角を上げた。純真を『踏み躙る』など、まったく酷い言いようだ。
だが、そうであってもらわなければ困る。
純真な人々こそ、お客さまになりやすいのだから。
ふふ、と空気が変わって、ジェイドは朗らかに笑った。
「自分のユニーク魔法が限定的であることを理解しておきながら、それさえクリア出来れば、などと奢っていましたよ。改めて気付かせてくださった『厚い信頼』には感謝しているんです」
「だからって、『気持ち悪い』は禍根が残りますよ」
「ふふ、相手に伝わる言葉で話さなければ、意味がないでしょう?」
「それに、そこまで自分で処理できているなら何故僕に突っかかる?」
「部下の可愛い八つ当たりです」
「そうですか」
上司とも思ってないくせに喧しいやつだ。
ふと、視界の端で日が少し傾いたように感じた。
強すぎた陽射しが、わずかに和らいでいく。
「ねえアズール。やはり楽しいですよね。哀れな人々を救って差し上げるのは」
「ええ。哀れで、愚かな者達が手の内で転がる姿は実にやり甲斐がありますよ」
軽快な音楽が流れている。
暑さに茹だった人魚。
多少、口が緩むのは致し方ない。
──徐にアズールが席を立つ。
「ジェイド、僕の水着を出しなさい」
「え?」
「泳ぎます」
「おや、面子とやらはどうされたんです?」
見なさい。アズールが顎でオアシスを指した。
「カリムさんが泳いでいます」
「ええ、ジャミルさんの叫び声がよく聞こえますね」
「上の人間が行動を示したのであれば問題ありません。適応する寛大な人間であることを見せるんですよ。それに、」
僕が十七歳の男子高校生であることだって、共感を呼ぶ一つの戦略ですから。アズールがニヤリと笑ったのも束の間。げんなりと眉を顰める。
「それにしたって、この外見は暑苦しすぎますし」
「流石はアズール。柔軟な思考をお持ちだ」
ジェイドも立ち上がり水着を渡した所、アズールがマジカルペンを取り出して水着に魔法石を向けた。
「何をしてるんですか?」
「柄を変えます。揃いの水着なんて着てたまるか」
「おや、一点物になっちゃいました」
──アズールブランドは、傑作揃いですねぇ。そう呟いて、ジェイドは笑った。
終