Dog's waiting「うわっ、なんだ!?」
近づいてきた黒い巨体に気づき、ウォッカはベンチから飛び上がりそうになった。
実際にはそれほど大きくもないかもしれない。もっと大型の品種もいることはわかっている。
しかしその黒い犬は、都会の公園を飼い主なしでうろつくには迫力がありすぎた。
清潔に整えられた毛並みからして、野良犬でないのは明らかだ。
しばらく警戒して身構えていたが、犬は噛みつく素振りもなく、吠えもしない。いかつい顔立ちとがっしりした体格に反して、おとなしいようだ。
だが、おとなしければ側にいていいというものでもない。
シッシッ、と手を振ってみるものの、犬は顔の大きさに対して小さな瞳で、じっと見上げてくるだけだ。
ウォッカは参ってしまいながら、腕時計を確認する。待ち合わせ相手がやってくる時間が迫りつつある。野良猫くらいならともかく、こんなに存在感のある珍客がいたら、彼が何て言うだろう。
今のところお行儀のいいものだが、下手に驚かせたりして飛びかかってこられてはたまらない。
かといって、主人を探してやる義理もなし……どうしたものかと溜息をつきながら、サングラス越しにその犬を改めてしげしげと眺めた。
「なんだっけなァ、このでかいブルドッグみたいなやつ」
ウォッカは犬種にさほど詳しくはない。
レトリバーのようにスマートとは言えない、よく言えば哀愁のある顔つきをしている。妙に同情心をくすぐられた。
「そんなしょぼくれた顔で見てくんなよ……ご主人サマとはぐれたか?」
つい話しかけてしまう。犬が答えるはずもないのに。
が、答える代わりに、のそのそと足元に近づいてきて、そこで伏せてしまった。
勘弁してくれ、と天を仰ぐ。
だが、蹴飛ばして追い払うような気は起こらなかった。そもそも犬は嫌いではない。
足首の辺りに触れる、筋肉質なむっちりした感触と、高い体温が心地いい。
「仕方ねぇなあ……あと10分だけだぞ。兄貴が来ちまうからな」
仕方ないと言いつつ、こちらを頼ってくるように身を寄せるのがどうにもいじらしく、悪い気がしない。
その頭に手を伸ばしてみる。ぺろんと垂れた耳の間を、指先でくすぐった。
犬は微動だにしない。安心して、短い毛をなるべく優しくかき分ける。
「怖ぇんだぞ〜兄貴は。お前、睨まれてチビっちまうかも」
おどかしたところで理解するわけもないのに、気づけばごく当然のように話しかけている。
「怖ぇけど、カッコいいお人なんだぜ」
調子が出てきて自慢してみせると、犬は上目遣いにちょっとこちらを見上げた。
「お前のご主人はどうだ? 色男か?」
なんとなくだが、飼い主は男ではないかとウォッカは想像した。あまり女が好んで可愛がる犬種ではない気がする。
指先に感じる毛並みは手触りがいい。やはりよく手入れされているのだろう。
「お前、可愛がられてんだろ。ダメじゃねぇか、ちゃんとそばにいなきゃ」
俺なら離れないぜ。
なんて言っていると、不意に犬は頭をもたげた。さすがに構いすぎたかと指を引っ込めたが、その鼻先はウォッカとは全然別の方向を見上げている。
つられて顔を上げて、ぎくりとした。
その男は、いつのまにか目の前にいた。
気配もなく立っている。
まるで亡霊のように。
「……たまげたな。こりゃ色男だ」
髭に覆われた彫りの深い顔立ちと、垂れた前髪から覗く物憂げな眼差しに、思わず口の中で呟く。
そんな反応を受けて怪訝そうにするでもなく、男は淡々と、しかし妙に真面目そうな物腰で語りかけてきた。
「うちの犬が世話をかけた」
そして足元に目を伏せ、おいで、と仕立てのいいスーツの膝を叩くと、犬はたちまち黒い体を起こしてあっさりとウォッカから離れ、主人の元へと駆け寄った。
「逃げられちまったのかい?」
何気なく尋ねると、
「用事が長引いた」
男は言葉少なに答えた。
「寂しがってたぜ。あんまり“待て”させてやるなよ」
余計なお世話だろうと承知の上で注意を促すと、嗚呼、と短く静かな返事がかえってくる。
ご主人の足元に寄り添いながら、犬はウォッカを振り向いている。少しばかり名残惜しむようにも見えて、つい頬が緩む。
「よかったな」
犬が答えるはずもない。
代わりに、冗談など言いそうにない仏頂面のご主人が、にこりともせず呟いた。
「嗚呼、よかった。こいつに友達が出来て」
ウォッカが面食らっているうちに、男と犬は去って行った。