Sachertorte アイリッシュは甘いものが苦手だ。
「アイリッシュ・コーヒーといえば、ホットカクテルの代表ではないかね?」
「だからそれを言うなよ、オヤジ……」
この時期になると、お決まりの文句でからかわれる。
いつもは凛々しく吊り上がった太い眉を下げ困った顔をする息子に、ピスコは髭の下で悪戯っぽく微笑んでいる。
二人の間には、白いクロスが行儀良くかかったテーブル。
アイリッシュの側には、生クリームどころか砂糖もない、真っ黒なコーヒーが満たされたカップだけ。
しかしピスコの前には、カップの傍らに、同じ黒でも甘い塊がひとつ。
桝山憲三の名で会長を務めているのは自動車メーカーだが、他人に名義を任せ裏で手を回している事業など、ピスコにはいくらでもある。
そのうちの、どの事業のどの関係だかアイリッシュにはもう把握しきれていないが、このレストランも、この店を有するホテルも、ほぼ彼のものである。
視察に来るたびに注文するコースは決まっていたが、デザートは季節や行事によって変わる。
「そろそろ甘いもんは控えた方がいいんじゃねえのか?」
「生い先短い年寄りの楽しみを奪うもんじゃない」
今なお権力闘争の前線に立っている男の、どこが生い先短いんだか。アイリッシュは場に相応しくスーツをまとった広い肩を竦める。
本日のデザートは、ザッハトルテ。
胸焼けしないのかと心配するアイリッシュをよそに、老紳士はケーキを包む艶やかなフォンダンに目を細めている。
「知っているかね? 本来、ウィーンのホテル・ザッハーで提供されるものだけが、本物のザッハトルテとされるそうだ」
「そうなのか? けど別に、色んな所で出されてるじゃねぇか。この店だって」
「その辺りは歴史の勉強をしたまえ、坊や」
不意打ちで子ども扱いされて、アイリッシュは釈然としない気分になる。
「小難しいことはさておき」
ピスコの指先が、繊細なデザートフォークを取り上げる。
「重要なのは、やはり美味しいことだ」
自分から蘊蓄を語り始めたくせに……という文句が喉まで出かかったものの、糖衣とスポンジを綺麗に切り分けて口へ運ぶ、一連の優雅な手つきに口をつぐむ。
一口食べて相好を崩す、甘い物好きの好好爺に、無粋なことが言えようか。
アイリッシュはやれやれと頬杖をつきつつ、自らもつられて頬を緩めながら見守る。
が、また一口掬ったフォークの先が自分へ差し出されたことに気づき、目を丸くした。
「俺はいいって」
「ここのザッハトルテは絶品だよ。元祖でなくてもね」
食べないと後悔するよ、なんて悪戯っぽく微笑んでみせる。
組織の幹部として凄む時と同じくらい、この顔には逆らえない。
「……」
アイリッシュはちらりと周囲を見遣り、客や店員の目が向いていないのを確認してから、大人しく唇を開いた。
そっと潜り込んできたフォークを咥えて、一口分の厚意――あるいは老婆心――を引き受ける。
チョコレートだけではない、杏子ジャムの甘酸っぱさが重なったこの味わいは、確かに完成度が高いのだろう。
けれど、痺れるような濃密な甘さがいつまでも舌に残って、つい眉間に皺を寄せながらコーヒーを流し込んでしまう。
「やっぱり、甘いもんは苦手だ」
「人生損しているよ」
損して結構、とアイリッシュはそっぽを向く。
「お前が食後に欲しいのはsweetsより、こちらかな?」
ピスコはsuiteのキーを滑らすように差し出して、息子の視線を引き戻した。
アイリッシュが口を一文字に結んで、そのキーをじとりと睨みつける。
「……坊やの次はスケベ扱いかよ?」
「おや、これは失礼」
さもしおらしくキーを引っ込めようとする節が目立つ指を、武骨で大きな手が上から押さえつけて捕まえた。
「正解だよ、まったく……」
「素直な子は好きだよ」
ケーキを味わっていた時と同じく、好好爺は目を細めて相好を崩している。
アイリッシュは困った顔で、僅かに唇に残ったフォンダンを舐め取った。
やはり、甘ったるい。
「あんたに甘やかされて、腹いっぱいだ」