Chocolate Martini 馴染みのバーに入った時から弟分がソワソワしていることに、気づかないジンではなかった。
それでも何も言わず、普段通り仕事の後の取り留めもないひとときに興じていると、バーテンダーが見慣れぬものを出してきた。
カクテルグラスを満たす、濃い琥珀色の液体。
ブラックルシアンにも似ていたが、鼻先を掠める香りはコーヒーリキュールとは違っていた。
「頼んでねぇぞ」
死神と畏れられる男の一瞥を受けても、裏社会の者が多く出入りする店の主人は肝が据わったもので、何も言わずカウンターの向こうで目礼して離れていくだけ。
代わりに、大慌てしたのは隣にいた弟分だった。
「すいやせん! 俺が頼みました。兄貴に……」
まるで叱りつけられることが前提で肩を縮めるウォッカに、ならばなぜ兄貴分に断りなく注文していたのかと呆れる。気が小さいのか大きいのか。
「あの……い、いらなかったら俺が飲むんで」
「まだ何も言ってねェだろうが」
勝手に自滅していきそうな弟分をたしなめている間も、グラスから漂うカカオの香りに目を細める。
「……チョコリキュールか?」
「へい……過ぎちまいやしたけど、ほら……バ、バレンタインに……どうかな、って……」
低く太いはずの声が、か細く消え入っていく。サングラスをかけた顔を俯けているが、心なしか赤くなった耳が帽子の影から覗いていた。
情けない、とジンはまた呆れてしまう。
「こういう真似は、もっと格好つけてやるもんだろ。女口説く時はどうしてんだ」
「す、すいやせん……」
逞しい体を縮こめるばかりのウォッカに、やれやれとジンは緩く首を横に振る。
どっしりと構えていれば、それなりに格好はつくだろうに――とは、弟分への評価が甘過ぎるだろうか。
そんなことよりも。
「おい。このカクテルの名前、言ってみろ」
知らないとも、敢えて自ら言わせようともつかぬ調子で問い詰めれば、ウォッカは相変わらず兄貴分の方を見られないまま、あっさりと口を割る。
「……チョコティーニ、です」
カクテルの王にあやかった名前に、ジンは意地悪く笑った。
「なるほど……バレンタインをあの女と過ごしたもんだから、拗ねてんのか」
「えぇっ!? ちち、違いやす! そんなつもりは」
勢いよく顔を上げて、とんでもないとばかりに両手をバタバタと振る。椅子からひっくり返りそうな勢いだ。
「なんだ、気にしてねぇのか。寂しいもんだなぁ」
「え、えぇ〜〜??」
わざと落胆したような抑揚をつけてやれば、どう返せばいいのかわからなくなった弟分は、すっかり参って帽子ごと頭を抱えてしまった。
その様子を、ジンは悠々と眺めている。
いつもながら、見ていて飽きない。
「……大した理由はねぇんです。ただ」
弱りきった弟分は、訥々と打ち明けた。
「ほら、バレンタインって、やっぱ大事な相手に、なんか贈ったりする日じゃないですか」
相変わらず俗っぽさの抜けない男だ。ジンの白けた視線だけでそれが伝わったのだろう、ばつが悪そうに頬を掻いている。
「だ、だから、そのう……やっぱ俺も、兄貴のために何かしたいって、思っちまっただけなんです」
「……」
「けど、俺からプレゼントできるもんなんて、たかが知れてるし……最近は、ゆっくりディナーする暇もねぇでしょ? チョコレートなんか渡すのも、女みたいで照れくさくって……だから……」
しどろもどろに紡がれる、まとまりも洒落っ気のないつらつらとした言い訳を、ジンは軽く目を見張って聞いていた。
兄貴のために、何かしたい?
いつも、していることなのに?
ハァ、と聞こえよがしの溜め息に、ウォッカはチラチラとジンの顔色をうかがう。サングラスを掛けていてもお見通しだ。
「お前は本当に、馬鹿な弟分だぜ」
「すいやせん……」
謝るのも何度目か。心なしかいじけたように下顎を突き出した横顔を眺める。
もっと堂々としていればいいのに。
何もわかっていない。
やがてジンはカウンターに視線を落とし、カクテルグラスを持ち上げる。
今一度、深い琥珀色を見つめた。
「あんまり馬鹿で心配になる。この先、俺から離れるな」
一方的に告げて、グラスに口をつける。
ビターチョコレートの香りと、慣れ親しんだ酒の強い酒気。
なかなか悪くない。そう言えば少しは安心するかと隣に目を遣ると、ウォッカは間の抜けた顔でぽかんと口を開けていた。
「あ、兄貴……そんな……っ、そんなこと」
畏れ多い、か。当然です、か。
容易く感極まって声が上擦り、聞こえない。
まったく情けない。
こんなに情けなくて面白い男は、放っておくわけにいかないのだ。
ジンは大きな手を伸ばして、ウォッカの顎を掴む。
「手始めに、今夜は一晩中、離れるんじゃねぇぞ」
わかったな?
言い聞かせておいて、返事を聞く前に、噛み付くようにして弟分の口を塞ぐ。
サングラス越しに泣きそうな目つきを見据えながら、一口でチョコレートリキュールとウォッカが馴染んでしまった舌を捩じ込んだ。