「先輩、ここの訳なんですけど」
「何処だ」
いつものように詰まった個所を読み上げようとしたジャミルにふと影が落ちた。そこで初めて手元から顔を上げると、普段ならば怠惰に目の前で時間潰しの本を読んだままジャミルに全て口頭で説明させるレオナが立ち上がっていた。今までに無かった反応に瞬く間にも、レオナは机をぐるりと回りこみジャミルの背後に回る。そうして左脇の下の隙間から机に手をついて支え、後ろから手元をのぞき込まれればひたりと背中に触れる温もり。それから、首元にさらりと落ちた柔らかな毛の感触。好いた相手にそんなことをされてはひとたまりもない。
「ほら、どこだよ」
ひ、と声が上擦りそうになるのを辛うじて飲み込んだ。そんな耳元で囁くような甘い声を出さないで欲しい。
「……ここ、なんですけど……」
指さした個所を覗き込むレオナの温もりが押し付けられる。まるで、後ろから抱き締められているような。ばくばくと全身で音を立てているような錯覚を起こすほどに心臓が激しく脈打っている。こんなみっともない姿に気付かれたくないから離れて欲しい、でも離れないでもっとくっついていて欲しい。
「ああ、此処か。これは輝石の国の古語で……」
この時ばかりは耳障りの良いレオナの声が恨めしい。時折吐息が触れるような距離で、ジャミルよりも一回り広いレオナの温もりに包まれるような姿勢で、説明の内容が頭に入るわけもなく、ジャミルはただ身を固くして縮こまることしか出来ない。レオナが少し身動ぎするだけで首元を毛先がくすぐり、心なしか良い匂いまでする気がする。決して華やかな良い香りというわけでは無いが、いつまででも堪能していたくなるような、もっと直接的に言えば腹の底が落ち着かなくなるような、レオナの香り。
「おい、聞いてんのかよ」
「っひゃい！？」
自分が指さしたままの教科書を見つめる事しか出来なかったジャミルの視界にぬぅっとそのレオナの顔が現れてついにひっくり返った声を隠しきれなかった。
近い。
ふと気を抜けば触れてしまうような近い場所で、レオナの美しい瞳が笑っていた。鮮やかな青葉色がゆうるりとジャミルを映して細められていた。
「あ、の……先輩」
「ん？」
楽し気に笑みを深めて首を傾けるレオナに、つい見惚れてそれ以上の言葉が紡げなかった。その顔がジャミルに齎す威力を理解しているのだろうか。理解した上でからかわれているのだろうか。この上機嫌な顔は、きっと、からかっているのだろう。わかっているのに目が離せない。何かもの言いたげに開かれた薄い唇の向こうに濡れた舌がちらりと覗いて、ジャミルはどうしようもなくなってしまう。
何か、言わなければ。誤魔化せるとは思わないが、せめて取り繕う何かを。
頭ではそう思っているのに目は近付いてくるレオナの唇から逃げられず、気付けばまつ毛が触れそうな程の距離にレオナの瞳があって。
ちゅ、と可愛らしい音が耳に触れる。唇が触れたのだと気付いた時にはもう一度唇を啄まれていた。ジャミルよりも少し高い温度が柔らかく下唇を食み、かすかに濡れた感触を残して離れて行く。
「………っふ、間抜けヅラ」
レオナの吐息が濡れた場所を撫ぜてひやりとして、ようやく何が起きたのかを理解してジャミルの顔に血が昇るのを自覚する。熱い。
「続きはまた今度な」
ぐしゃぐしゃとまるで犬のようにジャミルの頭を撫でたレオナはそのまますっと離れるとそのまま去って行ってしまった。図書室の扉が開き、そしてまた閉まる音を遠くに聞いてようやくジャミルは息を吐きだす。知らず息を止めていたことすら、気付いてはいなかった。
触れられた場所がじんじんとまだ熱を持っているのに、肌寒い。
「続きって、どっちのだよ……」