エミと許嫁のはなし「私ね、人に指図されるの嫌いなんです」
そう言って緩やかに微笑んだ緑髪の少女蛇塚エミは、シワひとつない白いブラウスに黒いロングスカートを身にまとい、ボタンは首の上まできっちり閉めたまま、寝具の縁に背筋を伸ばして座っていた。
一等高級な箱に入れられた、真珠のような艶やかな少女だった。
それを部屋の入口で諌めるのは、彼女の婚約者である男、岩倉 宗平である。
ウルフカットに片目の隠れた赤い髪で、見えている片目の下には酷い隈がある。耳にはいくつものピアスがあいていて如何にも女を殴っていそうな見た目をした男であったが、それは全くの見掛け倒しで気が弱く、四角四面で理屈っぽい、いつも均一な顔をした古い文具のような男であった。
「ぼくは、何かおかしなことを言っているだろうか。キミの遊びには目を瞑ってきたつもりだが、あんまりにも奔放過ぎやしないかい」
オレンジ色の灯りがうすぼんやり付いた暗い部屋の中。
寝具の上には、少女に酷く『折檻』をされたであろう下女が、裸のままじっとり汗をかいて横たわっていた。気を失っているのだろう。宗平が入室しても、動く素振りは無い。呼吸で上下する胸に目がいき、宗平は無感動に目を逸らした。
エミの手の中には短鞭が握られており、女の体に引っ叩かれてつけられたであろう鞭のあとがあまりにも生々しかったのである。
「使用人への躾は主人の役目でしょう。粗相をする方が悪いのです」
「それにしたって、君の仕置は……その」
「何ですか。はっきりと仰いなさいよ」
「……官能的に見える」
男は片手で顔を隠しながら、大きくため息を吐いた。
「ええ。何か問題が?」
エミは赤い眼を、真っ直ぐ宗平に向けた。何一つ自分が間違ったことをしているとは思っていない顔だ。氷の声だった。
こうもぴしゃんと強く言われると、自分の方が間違っているのではないかと錯覚しそうになるが、宗平はぐっとこらえて口を開く。
「君はまだ未成年で、将来的にはぼくの妻となり当主となる。不埒な行いは控えたまえと言っているんだ」
「私の体を暴いた者は未だいませんよ」
「どうだか。……男も連れ込んでいるくせに」
「嫉妬してるならそうおっしゃれば良いのに。抱きたいなら抱けばいいじゃない。いずれは貴方のものですよ」
エミが毅然と宗平のそばまで歩いてきて、彼のシャツのボタンに手をかけるものだから、慌ててその手を握って止める。
「やめたまえ」
弱々しい声だった。
宗平はどうしたらいいか分からず俯いて目を泳がせる。それ以上言葉は出てこない。表情を滅多に変えない陶磁器の顔は、眉を下げて困っている。
それに気を良くしたエミはくつくつと喉を鳴らす。何から何まで分かりにくい男の顔が歪むのが、単純に愉快だった。
「からかうのはよしておくれ」
「嫌よ。楽しいんですもの」
宗平はエミが自分よりも3つも下の女の子なのに、どう叱っていいか分からないことに困り果てていた。
声を荒らげても良かったが、粗野な素振りで彼女に嫌われたらと思うと、蚊の鳴くような声しか出ないのである。
どうしたものかと考えあぐねていると、彼女は塞がれていない方の左手で、宗平の脇腹をなぞり上げていく。
「あ、こら……!本当によしなさい」
「退屈」
「怒るぞ」
「怒ったら乱暴にするわ」
眉を下げて何も言えずにじっと下唇を噛む。
乱暴にされてもよかった。
こんなに見目麗しく、あどけなさを残したサディスティックな女の子に虐められるのなんて、誰だって嬉しいに決まっている。
しかも未来の奥さんだ。
しかし、未来の奥さんだからこそ、宗平には手を出してはいけない理由があった。
なにぶん、婚前交渉をしようものなら、蛇塚のご両親から問答無用で呪殺されるのである。
手を出した瞬間自動発動する術式だ。死活問題だった。己の性欲とここまで戦わせられるとは思ってもみなかった。
可愛い可愛い玉のようなお姫様を明け渡すには、婚前交渉は絶対に許さぬと、そういう契約で許嫁の立場にいるのである。エミの父である柳一はとても古い考えの男であった。
思春期の身体と心には有り余る才能と全能感と、時間と退屈の鬱憤を『折檻』と称したセックス紛いの遊びで発散していることを、エミの両親は知らない。
いつまでも、小さな子どものままだと思っているのだ。まさか娘がこんなにも人を誑かすことに長けた魔性の女になっているとは思いもしなかっただろう。もし、事が露呈すれば一大事。
宗平は一目会った時から、どうしようもなくエミのことが好きだった。15の時に出会ってから、彼女にずっと恋焦がれている。彼女の許嫁になるために生まれてきたのだとさえ思った。
詳しくは割愛するが、それほどの衝撃的な出会いだったのである。
だからこの事実を知ってもじっと貝のように黙っていた。
彼女の家庭が平和であることを祈っているから。
ただ、あの小さく細い白魚の指が他人に甘美な痺れと痛みをもたらしていると思うと、何度も気が狂いそうになったし、うんと落ち込む。
彼女の寵愛を受け、肌に触れたものは、皆殺しにしてやりたかった。
酷い女に恋をするものでは無いと思ったが、どうしようもなく理由もなく惹かれるのである。あと数年自分に我慢を強いれば、同じ墓に入れる。それだけを心の支えにしていた。最後に自分の元にいればいい。
この美しい少女が、美しい女になるまで辛抱しなければならない。
「……」
だから宗平は恨めしい表情で、何も言わずに黙りこくるしか無かった。強い拒絶もしたくなかったから。
小さな左手は終ぞ頬に触れ、宗平の乾いた下唇をなぞる。こうやって他の人間も手の内に落としたのだろう。
「いじらしい人」
掠れ囁く甘い声に胸の辺りに握った手が、密着した身体の熱が、彼女から香るしっとりとした甘い香りが、理性を粉々に破壊しにやってくる。
目から血の涙が出そうだった。こんなもの、なにをどうしても拷問だ。
もう、このまま身体を委ねて死んじまった方が仕合わせなんじゃないだろうか。そんな考えだって頭を駆け巡ったが、ぼくは何がなんでも、この女の子と結婚するんだ……。鋼よりも硬い意志がそれを止めた。
しかしまあ、鋼の意思もごりごりに削られているわけで。
「だ、駄目……駄目だ。人を呼ぶぞ」
「もう、無粋なことを言わないで」
「無粋でもなんでもいい。お…………お義父さんに叱ってもらう……」
宗平は小さな声で大きな反逆に出たが、あんまりにも格好の悪い反逆だった。
「ここで親を出すなんて」
「きみの行いは、か、看過できない……ほら、その女にも何か掛けてあげなさい。……風邪をひいてしまっては、いけないだろう」
硬い声でそう言えば、「……酷い男ね。他の女が目に入るなんて」むくれた顔で握られた手を乱暴に払い、エミは宗平の身体から離れた。
「うんと後悔するといいんです」
「後悔したくないから、こうしているんだ……」
エミはカツカツと寝台に歩いていき、気絶している下女の顔に数度張り手を飛ばした。
その手馴れた様子に、宗平は驚いて目を丸くした。離れた熱を思い、少し羨ましいとさえ感じた。
彼女は寝台で呻く女と、宗平に「今すぐ出て行きなさい」と静かに言い放った。
叩き起こされぼんやりとした様子の下女は宗平の顔を見るなり、サッと青ざめシーツにくるまったまま、何も身に付けずばたばたと慌てて部屋を去る。
宗平は彼女のことを気の毒な女だと思ったが、あとで難癖をつけ解雇させようと思った。
足音が遠のき、やがて沈黙が部屋を満たす。
宗平はエミの機嫌を損ねてしまった事に、しょんぼりと下がりきった眉をさらに下げて、まだドアの付近につっ立っている。
「……君のことが大事なんだよ」
言語化が不得意で、意気地のない脳みそから何とか絞り出せた言葉は、大変ありきたりなものだった。
「大事なら抱いて」
「あ……。う……ご、ごめん……できない……」
「大嫌い……嫌いよ」
背を向けたままそう呟く彼女に、なんと言葉をかけたら良いものか分からず、宗平はぐっと歯を食いしばりまた黙りこくる。嫌いと言われるのはこれまで1度や2度では無かったが、それでも堪えるものだった。
エミはというと、やっぱりこの人、年下の子供には興味が無いんだわ!と内心怒り狂っていた。
これまでどんな大人も篭絡して、自分の思い通りに動かしてきたものだから、自分の魅力には過剰なまでに自信があった。
どんな男も女も、若くて可愛いらしい少女の毒牙にかかれば呆気ないものだ。
無垢な顔で相手に理解のあるふりをして、安心しきった所で、時折突き放し、秘密を共有する。人に言えないような罪だと尚良い。距離が近づいたと判断すれば、わざと弱みを見せてやる。そうすれば相手は自分にころりといく。そうしたら、また締め上げて支配をするのだ。
自分に盲目な人間は滑稽で愉快で居心地が良かった。
しかし、宗平は全く自分に靡かないのである。いつもエミの前では能面のような顔か、困り果て汗を飛ばして、じっとしている。まるで鉛か、重たい粘土のような男だった。
彼女にとって、これは大変つまらなく退屈で、苛立ちを募らせた。
そのくせ、先日街で見かけた宗平は、派手で成熟しきった体つきの頭の悪そうな女を横にはべらせて、特に困った顔もせず、ゆったり煙草の煙を吐いてリラックスした様子で談笑していた。それが、嫌に格好よく様になっていて、エミには見せたことの無い顔だった。
ああ、こういう女が好みなのね。
腑に落ちたものの、自分とは真逆だと思った。
成熟した身体も、馬鹿な女の、そこ抜けた明るい笑顔も持ち合わせてはいない。
誰に対しても、都合のいい女になるのはごめんだった。
いつかは籍を入れる。家の取り決めだから、覆せない事。
しかし、添い遂げる男が自分に欠片も興味が無いだなんて許せるはずがなかった。
私がこの男を好きでなくとも、この男は私のことを好きであるべきだ。そういう思考回路の女なのである。
根っからの傲慢さだけでこれまで生きてきた。
取りこぼしたものはあるが、概ね順風満帆な彼女の人生において、岩倉宗平は脅威であった。自分のことを好いていない人間がそばに居るなんて、彼女の世界では考えられないことなのである。
「出て行って。早く」
さっきよりも拗ねた声でもう一度退出をうながす。
思い通りにうまくいかないことは嫌い。子どもの駄々だ。
沈黙がより重く部屋を満たす。宗平のほうを向いてやる気はなかった。
「……あの」
宗平はいつの間にかエミの背後に立っており、物凄く目をウロウロと動かしながら、遠慮がちに、肩をトントンと叩いた。丁寧で健気な指先だった。
それに対して、エミは仕方がないので振り向いてやる。無粋なことを言ったら、八つ当たりに叩いてやろうとさえ思った。
そんな事を知ってか知らずか、宗平は緊張した面持ちでゆっくりと大きな身体を屈めて、彼女の唇に触れるか触れないかの端っこに1つキスを落とした。
「今は、これで……精一杯なんだ」と殊更小さく低く呟いた顔は、カッと真っ赤になって彼女のことを真っ直ぐ見下ろしていた。頬に添えられた大きな手が、ただ熱い。
エミはパシパシ目を瞬いて、「そんな顔もできるの」と拍子抜けした声を出した。
彼の隠れていない方の片目は熱っぽく、執着の焦げ付いた色をしていた。
嫉妬の緑の瞳はどんな宝石よりも価値がある。
宗平は珍しく彼女の中で100点満点中、120点の答えを提示できたのである。
「見ないでほしい……」
宗平は顔を両手で隠してしまい、消え入りそうな声が隙間から漏れてくる。耳から首まで赤く、何から何まで全く隠せていないのが殊更かわいかった。
とうとう彼はしゃがんで、床の上に体育座りをして小さく縮こまってしまう。どうにも本当に顔を見られたくないらしい。
自分よりもうんと大人だと思っていた男が、小学生の子どもでもしないような仕草をするものだから、エミはこれにたまらなくなって彼を抱きしめた。
「精一杯なのね」
エミはこの赤い男がかわゆくてたまらなかったので、今までで1番優しい声で語り掛けた。
「か、格好がつかない…………」
「格好良い人より、かわいい人が好きよ」
彼の赤い髪を手で梳きながら、やわこい笑顔を浮かべる。
なんだ、ただウブなだけ。不器用な人。なんて見掛け倒し。
エミの口から、小さく笑い声が漏れた。
■
「お父さん!宗平さんの呪い解いたげてください!!!!!」
父の書斎にカツカツとやってきて、ドアを勢いよく開け放ったエミは怒っていた。
あのあと、宗平を寝具の上に押し上げて『お話』をしたところ、彼は徐々に意識を混濁させ泡を吹いて昏倒してしまったのだ。
確実に他者からの呪いのせいであることは目に見えており、こんな事をするのは父くらいしか居ない。
ちなみに宗平は契約を守るために一度たりとも口を割らなかった。
「乱暴されたのか!!?」
お父さんはびっくりして立ち上がり、おろおろと娘の方へやってきた。
「宗平さん泡を吹いて倒れちゃったじゃない!」
「何もされていないだろうな!?」
「私がなにかしようとしたのよッ!!!」
ギャンと大きな声を出した娘に、お父さんはまたまたびっくりして、放心してしまった。
「呪いを解きなさい!!早く!!!」
「お、オオ……」
「お母さん!お母さんはどこに居るんです!おかあさん!!この人話になりません!」
廊下に向かって彼女が叫ぶと、程なく母がしずしずやってきた。
「なあにそんなに大きな声を出して」
「私が宗平さんに手出したらあの人昏倒しちゃったのよ!」
「まあ!」
「早く解呪して!!」
「宗平さんのこと、気に入ったのね。良かったわ」
「呑気なこと言ってないで!」
その後宗平は呪いを解いてもらったが、呪いによる酷い幻覚幻聴により心に傷を負ってしまったので、しばらくはおいそれとエミに手出しをすることはなかった。
それはもう、酷い怯えようで目が合えば「ご、ごめんなさい……」と許しを請うほどだった。死の淵まで痛めつけられた捨て犬の目をしていた。
それに対し「お父さんのせいじゃない!!!!!!」とエミは怒り狂っていた。
しかし、恐る恐るといった様子で自分のことを扱う宗平に「これはこれで、かわいいかもしれない」と加虐趣味が満たされたので問題はなかった。
あんなに可哀想な目にあっても、宗平はエミのそばを離れようとはしないのである。
エミはそれが一等気に入った。
「私ね、ちょっとだけなら、宗平さんの言うことを聞いてあげてもいいですよ」
「君のちょっとって、『結局言うことを聞かない』じゃないか」
「素振りをみせるだけでも、丸くなったと思って」
あははと笑う彼女を見て、宗平も薄く笑う。
一生この女の子に振り回されて生きるんだろうと思うと、なんだか嬉しかったのである。
―完―