毒を食らわば皿まで2■エミ/中二の初夏
初夏のことだった。
過ごしやすい晴れ間が続いたかと思えば、冷たい雨がざあっと降り先日の暖かさはどこへやら。じっとりとした湿気に校舎の中も満たされている。そんな中、灰色の床を学校指定のスリッパで、ぺちゃん、ぺたんとゆっくり音を立てながら歩く少女が1人。
授業のチャイムは鳴り終わっており、廊下には誰も居ない。彼女は背筋を伸ばして、道の真ん中を突き進んでいた。まるでレッドカーペットの敷かれた道を、堂々とした態度で歩く女王のような顔だった。彼女の顔は血の気が引いて真っ白だったが、それさえも美貌をより鋭くさせる。
彼女は教室の後ろ扉を、躊躇なく大きな音を立てて開ける。ガラララ、と鳴った音に教室中の視線が一斉に集まった。
少女はずぶ濡れだった。雨に降られたと言い訳ができないほどに、ぐっしょりと濡れていて、右手には水色のポリバケツを持っていた。
しかし、ポリバケツの存在に誰一人気づいては居ない。白いカッターシャツからは上品なレースのキャミソールが透け、大人っぽいブラジャーの線までがくっきりと見えている。肌にぴったりと張り付いた生地が体に沿って薄いひだをつくり、その薄い布一枚隔てた先にある裸体を想起させた。
しかしそれが下品な想像を掻き立てることはなく、まるで絵画の中から出てきたような、または精巧な彫刻のような美しさで。普段から彼女のことを目にしているにも関わらず、なにか異形のような、得体の知れない美しい化物が現れたかのような気持ちだった。
教室がざわつくことはなかった。誰もが彼女の、蛇塚エミの研ぎ澄まされきった美貌に言葉を発することが出来なかったからである。教師さえも、言葉が出なかった。
氷肌玉骨の顔に張り付いた花浅葱の髪の一房が、唇に引っかかっている。彼女はずっと笑っていた。人を威圧する祖母譲りの冷徹な微笑みだった。彼女が教室の敷居を跨ぎ歩を進めると、長い髪の先からぽたぽたと水滴が跡を残す。肌に乗った水滴が美しい頬の輪郭を流れ、尖った顎の先から落ちる。
歩みの先は、教室の一番うしろ。右から四列目の席の、鳥越聖良だった。真っ直ぐ自分の方へ歩いてくるエミを見て、立ち上がろうと椅子を引く。椅子の脚が床をこする甲高い音だけが教室に鳴り響いた。彼女が目を見開いてようやっと、口を開きかけた瞬間。
――バシャン!
エミは彼女の真上からバケツを引っくり返した。ぎゃあ!と鳥越聖良は大きな悲鳴をあげる。汚い音だった。中に入った水が飛び散り、彼女の席の周辺を浸していった。エミはそれを真顔で見ている。
「すいません。つい、『手が滑って』しまいました」
静かな声だったが、怒りが滲んでいた。
エミは水色のバケツからパッと手を離した。重力に従ってバケツは落ち、プラスチックの跳ねる音が木霊する。転がっていくそれを拾いもせずに、美しい少女は教室を出ていった。誰かが文句を言ったり、引き止める隙もなかった。皆呆気に取られてしまったのである。
エミは廊下を歩きながら声を出さずに泣いていた。ビチョビチョに濡れてしまっているので、涙を拭いもしなかった。
C棟の二階の一番端っこにある、授業で使われなくなった二個目の美術室の戸を勢いよく開けると、そのまま中をつかつかと歩いて準備室のドアを押し開ける。
美術準備室の中は、石膏像や画板やイーゼル、その他諸々沢山の画材が雑然と置かれている。棚には古い美術書がところ狭しと押し込まれ、ステンレスの洗い場の近くには湯沸かし器のポットと様々なインスタントの飲み物の箱がおいてあった。ゴミ箱にはお菓子のゴミが沢山放り込まれており、床には漫画雑誌が積み上がっている。
この準備室の主である美術教師の畑先生は、大変生徒に寛容な教師だった。生徒が準備室にやってくれば話を聞いてくれるし、一緒に絵を描いたり、ブラウン管のテレビでゲームキューブのスマブラもやってくれる。普通の教師が頭ごなしに怒るところを怒らずに、ゆるゆると話を聞いて、本当にやってはいけないことはしっかりと叱ってくれる、親身なおじいちゃんの先生だった。
代々特攻服のヤンキーの先輩が「畑ちゃんだけには迷惑をかけるな」と釘を差して卒業していくくらいには、不良達は畑先生のことが大好きだった。
だからやんちゃして教室に入りにくい生徒の行き先は、保健室ではなく、第二美術室の準備室なのだ。そして畑先生は残念なことに1年生の授業時間なので、ここにはいなかった。エミは畑先生に愚痴ろうと思ってここへやってきたのだが、あてが外れて少し残念に思った。
代わりにといってはなんだが、ボロボロの黄色いソファに寝転がって、うたた寝をしていた少年は突然の来訪者に飛び起きた。ウルフカットの黒髪に、両耳のシルバーピアス。学校指定の制服は黒いズボンしか着用しておらず、上はスポーツブランドの紺色と白のパーカーだった。
「……!? わ、え、どしたん」
エミは少年の顔を見て、少しだけ表情を緩める。ここに居るとは思わなかったけれど、少年が――幼馴染の名木田潤がいて良かったなと思ったのだ。
「黙って、胸を貸しなさい」
泣いているから引きつった声だったが、まるこい抑揚だった。甘えてしまおうと思った。この男なら許してくれる。
エミは潤の許可を取ること無く、ソファーの上で半分身を起こし、驚いて固まった彼に跨がり、胸板に顔を埋めた。
「お、おう……おお…………? 僕まで濡れるんですが…………えぇ……」
「う……っず……ッ……」
「普通に困るんだが……なに、慰めたら良いの? キスして抱けば泣き止む?」
「だまれ……ぐすっ」
「オオ……黙るのは苦手なんだけれども…………」
「ひっく、うう。だまって、じっとして……」
「無理難題を……世界で一番苦手だ…………」
エミは30分ほど静かに泣いて、潤の上に乗っかったままだった。二人の体温が同化してしまったので、あまり冷たくはない。しかし、潤は服をびちゃびちゃにされてしまったので、この女……と思っていた。
濡れ透けの異性の幼馴染が自分の上にまたがってしくしく泣いているというこの状況。ラブコメディならば少年は赤面し、30分耐え忍んだ情緒と下半身は滅茶苦茶になっていたであろうが、潤は特にエミに関心がなく、手持ち無沙汰で暇なので彼女の濡れた髪を三つ編みにしたりほどいて遊んでいた。この男は多動症なので、じっとしていることが何よりも苦手なのである。そうして何本目かの三つ編みを解いて、黙っているのにもほとほと飽きたのか、しゃっくりを続けるエミに声をかけた。
「ねえ僕の服もビチョビチョなんだけど。なんでそんなビチョビチョなん?」
「……水かけられたの……ホースで……」
「マ?」
「あと、本、お祖母様に貰ったの、駄目にしちゃった……悔しい……」
エミは鼻をすんすんと鳴らした。小動物みたいだなと潤は思った。
「仕返ししたんか?」
「した。教室でバケツに、水汲んでかけてきた」
「野次馬しに行けばよかった……!なんでそんなおもしろイベントに呼んでくれないのさ!?」
「怒ってたから、そこまで気が回りませんでした……教室戻りたくない」
「戻らんくてよくね? このまま帰ろうよ」
「鞄置いてきちゃった……」
「僕が取りに行ったるから」
「いいの?」
「おうよ。任せとけ」
「手出ししちゃ駄目ですよ。くれぐれも」
「了解。あといい加減のいてくれ……」
「うん……」
エミがよいしょと潤の上から降りると、彼はびちゃびちゃにされたオーバーサイズのパーカーを脱いでエミに差し出した。
「ほれ、着とき。それかドライヤーで服乾かして待ってな。てか棚にアイロンなかったかね」
下に着ているカッターシャツまでは濡れていなかったので、良かったと潤は思った。流石に濡れたまま外に出たくは無い。
ドライヤーとアイロンの箱とアイロン台を棚から持ってきてエミの前に置いてやる。準備室に入り浸っている彼はこの部屋のどこに何があるかを全て把握していた。タオルは絵の具の染み付いた汚いものか、雑巾しか干されていなかったので、自分のカバンからきれいなのを取り出して頭にかけてやる。彼女のまぶたは少し腫れていて、赤い瞳には涙の膜がまだ張っていた。
潤は真正面からそれをじいっと見つめる。
もし、自分に妹や娘が居たらこんな感じだろうか。自分に父性やら母性やらの、そういった物があるとは思っていなかったが、庇護欲を掻き立てられるとはこういう事を言うのだろう。捨て猫みたいだと思った。
頭にのっけたタオルを、そのまま雑にわしゃわしゃしてやると「もう!」とエミは鳴いた。それが面白かったので潤はしばらく続ける。彼女の髪はボサボサになったが、抗議の鳴き声がくすくすと笑いに変わり機嫌が治ったようなので結果オーライだ。
プライドがエベレストよりも高いエミが、誰かに泣いて縋ることなんて、よっぽどの事がないと有り得ない。恐らくお祖母様に貰った本とやらがダメになったのが、相当堪えたのだろう。しかし、彼女はもう既に仕返しをしてしまっているので、自分が人を虐める建前が無い。
だからエミのクラスに行っても、暴れられないなと潤は思った。他人に危害を加えることを趣味にしているこのイカレポンチも、自分なりに道理があるらしい。
「鞄だけ持ってくればいいの?」
「鞄だけでいいです。教科書とか前に全部持って帰ったので」
エミがそう言い終わると、ちょうど授業終わりのチャイムが鳴った。潤は「じゃ、行ってくるね」と準備室から出てエミのクラスへと向かった。
準備室に残された彼女はドライヤーをコンセントに挿して、潤のパーカーから乾かし始めた。知らない香水の大人っぽい甘い香りがした。
――もし自分に、年の離れたちゃらんぽらんのお兄ちゃんが居たらこんな感じかしら。
同い年だけれど、彼は随分とお兄さんに見える。周りの男の子は、みんな子どもっぽいけれど、潤は違う。
長い付き合いだが、彼は上手い具合にエミの聞いて欲しくないことや、触れてほしくないところには触れない。だからエミも彼には深く踏み込まない。その距離感が丁度よく、なんの問題も解決はしないけれど、お互いがそばに居るだけでよかった。だから彼の前では素直に甘えて、泣くことが出来るのである。自分に関心があるようで無い人間は、お互いに貴重だった。
私たちは人の視線を集めすぎる。
◾︎
「蛇塚の席ってどこ?」
2年3組の入口にいる男子を捕まえて潤は声をかける。
「あ……っと……?」
真意が汲めないという顔で、捕まった男子は困惑した顔をした。潤は説明するのも面倒だったので、「蛇塚エミの席ってどこ」とぶっきらぼうにもう一度繰り返した。
「あの、あそこ。窓際の……」
男子の指差す先に、数人の女子が居た。エミの机を取り囲んでなにやらごそごそしている。それを見て潤は躊躇いなく、3組の教室にズカズカと入った。
「水ぶっかけるとか、マジで頭イカれてんのかあのブス!」
「次何してやったら学校来るのやめると思う?」
「顔見るだけでイライラするし同じ空気吸いたくなさすぎ」
「ホンマそれな」
と3人組の女の子がこれみよがしに大きな声で喋っているのを聞きながら、潤は、おお!これが本場のいじめか!と感心していた。女の子のうちの一人は、エミが水をぶっかけた子だろう。体操着に着替えて、取り巻きの女の子2人が動いているのを見ていた。自分はあくまで実行しないスタンスらしい。
エミの机にはマジックで落書きがされ、幼稚な罵詈雑言が目に眩しかった。1人の女の子は彫刻刀で新しい悪口を彫ろうとしているし、もう1人の女の子は既に彫られた悪口を油性ペンで塗りつぶしていた。エミの使っている机は彼女の所有物ではなく、学校の備品だ。次の年には後輩が使うものである。
それが微塵も頭にない汚し方で、潤は心を打たれた。やはりこの年頃の悪意ってのは、純粋でなくっちゃいけなくて、後先なんてものは考えちゃあいけないのだなと学習した。
「景気がいいね。お嬢さん方」
そうして底抜けに明るい声で彼女たちに話しかけた。
話しかけられた少女たちは、やはり後ろめたいことをしている自覚があるのか、ビクリと肩を揺らして潤の方を見た。背の高い黒曜石の美少年が、観察するようにじっと犯行の様子を見つめている。その事に戸惑い、1人が口を開いた。
「な、なんか用?」
潤は目立つ容姿をしていたが、あまり自分のクラスにも行かないし背が高いので、同じ学年なのか他のクラスなのかも少女達には判別がつかなかった。だから今やっている悪事を大人に言いつけるんじゃないかと、訝しげな視線を向ける。
「いや、続けてくれていいよ。カバン取りに来ただけだからさ」
「えっ」
「蛇塚さんのカバン。頼まれたんだ。サボってたら、保健室の先生に持ってきてくれってパシられちゃった」
潤は流れるように嘘を吐き、机の横のでっぱりにかかった学生鞄を手に持つ。
「邪魔してごめんね。早退するって、担任の先生に言付けてもらっていいかな?」
「い、良いけど……」
「助かるよ。ありがとう」
潤が柔和に微笑むと、3人の女子は少し頬を染めて色めき立った。
それを見て、潤はこの不細工で器量もない女共の顔の皮膚に、この机に書かれたぶんの悪口を彫ってやったら一体どれほど滑稽だろうかと考えた。
今のままでも充分にニキビ面の、均衡のとれていない顔面は醜悪だけれども、二度と外を歩けない姿にしてやったら面白いだろうな、と考えて一層笑みを深める。
この男は幼なじみが酷い目にあっているから怒っている訳ではなく、悪い事をした奴はすべからく制裁を受けるべきだと思っているし、人が苦しんでいる様子を頭の中で想像するのがこの世の何よりも娯楽だと思っていた。頭の中が中世の処刑場なのだ。
おそらく前世は軍で拷問とかを生業にしていたし、今でも拷問をさせればピカイチの腕を振るうであろう、生粋の加害者。
しかし、エミには手だし無用と言いつけられていたので、反射で彫刻刀へ伸びそうになった手を、カバンの方へとスライドさせたのである。
もう少しで、「楽しそうだから、僕も混ぜてよ。机を傷つければ良いのかな?」とあの手前の女の子の手を机に無理やり押付けて、刃物で指の叉を高速でトントンするゲーム(ハンドナイフトリックというらしい)をやってしまうところだった。
絶対に楽しい。やればよかった。
少しの後悔と鞄を胸に3組を出ると、ちまいメガネの少年が廊下の向こうから潤の方へぱたぱた早足で歩いてくるのが見えた。
「潤くん! どこ行ってたの!? 1限のあとからずっと居ないし! 次理科室だよ!」
声変わり前の幼くて丸い声だった。如何にも学級委員長然とした、真面目そうな少年である。
実際彼は学級委員長で、胸の相沢と書かれた名札には学級委員のバッジがついている。下の名前は右京といった。
右京は潤を見上げて、いつもは下がり気味の太眉をむっと吊り上げていた。三白眼気味の瞳は、上目遣いになって彼が気にしている目付きの悪さを強調している。しかし、清潔感のある暗くてまるいシルエットの茶髪に、シワ1つ無いパリッとしたカッターシャツ。纏う雰囲気がド真面目で、ちまこく、高めの声はどこかやわらかいので、彼に一切の迫力はなかった。メガネを掛けて、どんぐりを持ったリスみたいな小僧なのである。
厳しい家庭で育てられ、クラスで問題を起こすような人とは、一切縁のなさそうな子だったが、彼は潤とエミの幼馴染だった。
「ねみいから準備室で寝てた。てか今から帰る」
「ええっ何で!?」
「エミが…………や。なんでもねえわ。帰りたいから帰る」
「エミちゃんがどうかしたの?」
「お前に言うとだるいから、言わない」
潤は要らないことを言ってしまったなと思った。右京は、正義感はいっちょ前に強く、人の為にいつだって怒り狂うちまいどんぐりだった。エミは現在自分の身に起こっていることを自力で解決しようとしているようなので、こいつを連れてきては話が大きくなってしまう。
「何、話してよ。何かあったんでしょ」
「だる……授業始まるぞ。教室行けよ」
「やだ」
「行けって」
「やだ!」
「サボりになるぞお前。ええんか」
「友達が困ってる方が問題だろ!」
真剣な眼差しだった。こうなったらコイツは言うことを聞かないので、潤は大きくわざとらしく、本当に面倒くさそうにため息を吐いた。
「はぁ……付いてくるなら勝手にすれば」
「うん。勝手に居なくなったら先生困るから、言ってくるね」
「別によくね」
「駄目だ!」
「……準備室居るから。しばらく経っても来なかったら置いてくぞ」
「わかった!」
良い子ちゃんを相手にするのは本当に面倒だった。
理科の教科書とノートを抱えて、また早足でパタパタ歩いていく右京の背を見て、こんな時でもコイツは廊下を走らないんだよなと潤は思った。
そういう所が右京の良いところで、潤が面倒くさがるところだった。
◾︎
「エミちゃんいじめられてるの?」
準備室で全ての服を粗方乾かし終え、潤のパーカーを羽織ったエミはソファに座っていた。
しかし、準備室のドアを開け、やってくるとは思っていなかった右京に、いきなりそう尋ねられたので面食らってしまった。
「は? 誰が? 誰がいじめられてるですって?」
「潤くんから聞いたから。大丈夫? 痛いこととか、されてないか?」
「されてませんよ。なんで右京くんが居るんですか」
「心配だから来ちゃった……」
右京は困ったように笑って、ちまこく汗を飛ばした。
「余計な事を……」
潤の方をキッとエミは睨みつけた。
「しゃーねーだろ。着いてきちゃったんだから。心配して貰いなよ」
潤は肩を竦めてそう言い返す。
「アンタに心配される程、私は弱くありません」
ツンとエミはそっぽを向いた。彼女にとって潤が兄のような存在ならば、右京は弟分みたいなものなので、格好つかないところを見せたくはなかったのだ。
「可哀想なくらい打ちひしがれて、さっきまで僕の胸で泣いてたんだぜ。強がってる」
潤がエミにも聞こえる声でそう耳打ちすると、右京は迷うことなくエミの隣にぽすんと座って、彼女の顔を覗き込む。
「エミちゃん。辛かったね……」
「別に辛くないです」
ムスッと険しい顔をしていたが、こういう時のエミは大方照れていた。
「おばあちゃんの本、濡れちゃったんだって?」
「……はい」
「冷凍庫に入れて置けば、しわしわ元に戻るかもしれん」
「冷蔵庫?」
「ううん。冷凍庫。ジップロックに本入れて封をせずに、垂直に立たせとくんだ。1日くらい入れといて、あとはおもしをして自然乾燥するといいよ。元に戻るといいね」
「家に帰ったらやってみます。……ありがとう」
「物を大事にしない人って、良くないよな、本当に!人に水をかけるなんて、信じられない!」
右京はぷりぷりと、エミの身に起きたことを自分の事のように怒っていた。潤はエミが仕返しをしたことは、右京に伝えずちゃっかり黙っていた。右京のお説教は校長先生の話よりも退屈で長い。
「あ、そういやエミちゃんの机、すげえ落書きされてたけど放っといて良かったんか?」
「いいですよ。いつもの事です。やることが幼稚で幼稚で、呆れてものも言えません。自分で汚したわけでもないですし」
「その、担任の先生に、相談したりとかしたの?」
右京がそう聞くと、エミは「誰があんな人を頼りますか……」と怒りで声を震わせた。北極の氷よりも冷たい声だった。
「何か嫌なことでもされた?」
大抵の人間はエミの冷たい声を拒絶と受け取り、深く話を聞こうとしないのだが、右京は驚いて聞き返してしまう。
この少年は潤とは反対に、エミが話したいけど話さないことに、ずけずけと踏み込んでいくタイプだった。本人にその自覚は無いが。
「されたわよ。私が、可愛いからってあの男、気持ちが悪い」
「えっと?」
右京は何が何だかよく分からない顔をしていた。
潤はその言葉だけで何をされたのか、何となく察しがついたようで、黒く濁った目をエミから逸らしながら口を開く。
「エミ、帰ろう」
「どうして」
「ここじゃ、誰が来るかも分からない」
「…………」
「帰ろ」
潤は少しだけ強い声で、帰宅を促す。
「はい……」
2人のただならぬ雰囲気に、右京はよくないことを聞いてしまったのかもしれないと、あわあわしていた。
「ごめん。変な空気になった」
「大丈夫ですよ右京くん。大した事ないですから。学校を出たら、聞いてくれますか?」
エミに優しくそう言われ、右京はこくりと頷いた。
3人は美術準備室を後にし、靴箱で靴を履き替える。自転車置き場に歩いていき、潤の自転車を回収すると、そのまま裏門をこじ開けて学校を出た。
有難いことに降り注いでいた雨は止み、曇天になっている。
行先はエミの家ではなく、裏山の秘密基地だった。