迷い路 限界まで水を含んだ上着から、どうにか袖を抜く。幕を僅かに開け、滴り落ちる水分を手早く絞るだけの短い間にさえ、地面を叩き跳ねる雨粒が容赦なく頬を打った。前髪の雫を払い、ひとつ息を吐いて振り返れば、携帯用の焚き火台に火を熾し終えた男と、正面から視線が出会う。
ぱちりと音を立てて、薪が爆ぜた。
「……暫く、動けそうにないですね」
そうだな、と応えて濡れた髪を拭う男の白い横顔に、踊る炎の橙が照り映えていた。剣を置き、手甲を外し、上着を脱ぐ。ボタンを外してゆく長い指先をなぜか見ていることができずに、ナタは視線を外した。所在なく薪を取り上げたものの、火は十分な勢いを保っている。
「この天候では小動物も身を潜めてしまう。どちらにしろ、待つしかない」
「お食事の支度を――しましょうか」
ブーツの紐を解きながら、いや、と男は言った。
「身体を温めるほうが先だ」
「……じゃあ、お茶を淹れますね」
無意識のうちに握り締めていた薪を手放し、引き寄せた鞄の中を探る。取り出した缶とカップは、だが、横合いから伸びた手にあっさりと奪い取られた。
「――先生、」
「もう少し、火の傍に寄るといい」
青に灰色をひと匙混ぜ込んだ色の目が、微かな笑みを浮かべていた。
「おまえに風邪を引かせてしまったら、アルマに叱られる」
「そんな。僕は全然――」
腕を掴んだ男の手は力強く、それでいて優しかった。跳ね上がった鼓動に喉元を押されて反駁の機会を失い、引かれるままハンモックの上に腰を降ろす。駄目押しのようにくしゃりと髪を掻き回した指先がやがて離れた時、どこかがちくりと痛んだような気がした。
向かい合う床の上に座り込んだ男が、水筒から清水を薬缶に注ぎ、火に掛ける。落ちかかる髪を煩わしげに掻き上げる手は、重い武器を扱うものの常で硬く節くれ立ち筋張っているのに、先細の長い指の形は驚く程美しかった。天幕を殴りつける雨音の他に音はなく、燃える炎と立ち昇る蒸気が、冷えていた皮膚を次第に温めてゆく。
匙に掬い上げた茶葉を目分量で増やしたり減らしたりしているその横顔へと漸く真っ直ぐに視線を向ければ、手の届かぬ胸の奥底で、何かが小さな爪を立てるようだった。
長く濃い睫毛に縁取られた青灰色の双眸は、澄んだ湖水に似ている。
描いたような眉と、高い鼻梁。つややかに赤みを帯びた唇。肩へと流れ落ちる、癖のない亜麻色の髪。月光を凝らせたかの如き美貌を、だが――怖いもののように感じていたことも、確かに覚えていた。
大きな剣も、見上げる程の長身も、ひややかに整った美貌も、無知な子供にとっては一方的な隔意を抱く十分な理由だった。その手が思っていたよりも温かいことに、不器用な言葉に包まれた優しさがあることに気づいたのは、いつだっただろう。
「――ナタ」
「……はい」
茶葉を振り入れた薬缶に蓋をして、男は顔を上げた。凝視していたことに気づかれぬよう、慌ててナタは目を伏せる。
「寒いなら、ここへ来なさい」
声は低くなめらかで、僅かに甘い。膝の上に置いたこぶしを握り締めて、大丈夫ですとナタは答えた。傍にいたい。少しでも、近づきたい。そう思う理由も、そうすることのできない理由も、何ひとつ判らない。手足の先は冷たいのに、頬と耳朶だけが燃えるように熱い。
「せ――先生、」
「何だ」
弱まる兆しのない雨音が、小さなテントを包み込んでいる。
何も聞こえず、何の気配もない。まるで、世界から隔てられたかのように。
早く、止むといいですね――至極当然の、当たり障りのない言葉を、なぜか、言いたくないと思ってしまう。その理由が判らない。突然口ごもってしまった子供を責めるでもなく、男はただ、切れの長い目元に微かな笑みを滲ませる。
「……早く、止むといいが」
口数の減った子供の様子に気づいているのかいないのか、男の接し方に変化はない。出会った頃からすら、きっと何も変わっていないのだろう。例え気づいていたとしても、先回りをして気を効かせたり、問い詰めたりすることはしない人だ。無遠慮に踏み込んでくれる相手なら感情のままぶつかることもできるのに、それすらも赦されない適切な距離が、今はただもどかしかった。
――僕なんて、取るに足りませんか。
――あなたにとって。
とんでもなく、自分勝手な話だと云う自覚はある。
距離を詰めたいのなら詰めればいい。隣に座りたいなら、そうすればいい。判っている。ただ。
そうするまでにどれ程の葛藤があったのかになど気づかれぬまま、他の誰かに見せるのと同じ顔で受け入れられてしまうことが厭だった。それならいっそ、拒絶されてしまいたいとすら思う。嘘だ。拒絶などされてしまったら、とても耐えられない。
自分の考えていることが、何ひとつ理解できない。
始末に負えない。
やがて煮出し終えた茶をカップに注ぎ分けた白い手が、一方をこちらへと差し出した。指が触れぬようそろそろと受け取りながら、触れなかったことを寂しいと思う。相反する気持ちばかりが胸の内側をぐるぐると巡り暴れて、訳もなく叫び出したくなる。
熱いから気をつけなさいと言い添えてくれる男に礼を述べてから、口を付ける。そして――ナタは、ごふりと咳き込んだ。
含んだ液体を吹き出さぬように耐え、どうにか喉の奥へと送り込んで、嚥下する。
ほぼ同時にひと口を飲み下した男の表情は、敢えて伺うまでもない。
「……先生、」
「…………」
沈黙の後――凜とした眉の間に深い皺を刻んで、ナタ、と男は言った。
「――飲まなくていい」
「え……でも、」
にが虫の汁に引けを取らぬ強烈な苦味は、多すぎた茶葉の量と、長く取り過ぎた抽出時間のどちらかか――或いは、その両方が原因であるに違いなかった。かと云って、そのことを声高に指摘したい訳でもない。
職務上必要とされる知識や技術に全ての能力を傾けてしまうがゆえに、その他のことに興味を持たなかったり、意図せず疎かにしてしまう人種はどうやら少なくはないらしい。調査隊の面々を見る限り、皆それぞれが何かに突出している分、どこかが欠けている。それ程『異能』であることが求められる仕事であり、ハンターなどはその最たる存在である――と云うことも、無論理解できる。
――あんな顔してるから騙されちゃうけど、相当ポンコツなとこあるから。
そのうち幻滅しないようにね、とは、いつかからかい半分ジェマに言われたことではあった。才能を驕らず努力を怠らず、自らの使命と職務に対しての姿勢は常に真摯であり、優しく、そして、強い。類い希な美貌も相俟って、一見して非の打ち所がない人間であるかのような印象さえ受けてしまう。
それでも。
行動を共にするうち見えてきたその、いわば『普通であることのままならなさ』は、全てが完璧だと思っていた人の欠点には、なぜかなり得なかった。むしろ、そう云うところはもっとたくさんあっていいとさえ思う。
そして――それを知るのが自分だけであってほしい、とも。
「……おい、」
「いただきます」
言うなり手にしたカップの中身を一気に飲み干すと、珍しく動揺したふうの男の手からもうひとつを奪い取り、勢いよく喉へ流し込む。舌を刺す苦味に顔を顰めながら、空になったカップを置いて、ご馳走様でした――とナタは言った。
「二杯目は、僕が淹れますね」
何ごとかを言いかけたものの、反論の材料を見つけられなかったのだろう、やがて、男は大人しく口を噤んだ。
「……頼む」
カップを雨水で濯ぎ、薬缶を火に掛ける。
胡座の上に広げた地図を指先で辿る男の伏せられた長い睫毛を、長い髪を、踊る炎が金色に輝かせていた。やがて沸騰した湯に茶葉を入れ、きっちりと時間を測って、火から下ろす。ゆっくりとカップに注ぎ入れた茶の水色はこれ以上ない程美しく、湯気と共に甘くまろやかな香りが立ち上った。
「――先生」
「……ああ」
「先生のお茶は、僕が淹れますから」
こちらを一瞥した青灰色の目を細めてありがとう、と男は微笑み、ひと呼吸を置いて、だが、と続ける。
「いつか――やり方を忘れてしまいそうだ」
何気ないそのひとことがまた、胸の奥を刺す。
いつか。いつかの話などしたくない。雨音に閉ざされたこの小さな世界が、永遠に続けばいい。あなたにできないことは全部、僕の役目であればいい。
理由の判らぬ感情が不意に水位を上げ、鼻の奥をつんと痛ませる。顔を上げた男と視線が合ってしまう前に目を伏せて、ナタは、湯気の立つカップを無言で押しやった。