マルガレテの面影①序章
「なんとか……症、ってヤツらしいぜ」
「獰猛なモンスターが、更に見境なくなっちまうんだからな」
幾ら金払いがいいったって、命あっての物種じゃねえか――背後で囁き合う男たちには、全くもって同意せざるを得ない。ハンターなどと持て囃されたところで、要は真っ当な仕事に就くことができない、命知らずの変人どもだ。小山ほどもあるような獣に斬りかかったり切り刻んだり、とてもまともな人間のやることとは思えない。ましてや、その挙げ句に命を落としていれば世話はない。
担架は布で覆われているが、滲み出した赤の面積を見れば、どれ程惨い傷を負ったのかの想像は容易だった。悄然と、或いは啜り泣きながらその周囲を囲む若者たちは、ハンター仲間だろうか。中にはまだあどけない顔立ちをした女さえいて、幾らに才能とやらがあるにしたって、子供に武器を持たせるのかと思えば、どうにもむかっ腹が立つ。
「……ったく、胸糞悪いぜ」
誰に向かって言ったつもりもなかったが、隣に立っていた男は、どうやら話しかけられたものだと思ったらしい。どう云うことだ、と――低くなめらかな声が問い返す。どうもこうもねえや、と吐き捨てはしたが、さすがに声をひそめるくらいの気遣いは心得ている。何せ、人死にが出たのだ。
「あんな若えのが、命散らしてよ。親の気持ちになりゃ、いたたまれねえってヤツだ」
「それでも、誰かが止めなければ――もっと多くの人間が、死ぬ」
「――それは、」
無論、そうなのだろう。まだ歩き始めたばかりの我が子が獣の牙に掛かるなどと、考えただけでも平静ではいられない。だが。せっかく育て上げたところで親より先に死なれるようなこともまた、同じくらい想像はしたくなかった。結局はただただやりきれなくなって、ち、と舌を打つ。
「モンスターなんぞ、全滅しちまやいいんだ」
「彼らも、生態系の一部だ。そこにいる理由があって、存在している」
「――なんだ、あんた。まるで、ハンターみたいなこと言うじゃねえか」
睨み付けてやろうとした男の顔は、想定していたよりも高い位置にあった。
厚みのある胸のあたりから長い髪の流れ落ちる肩へ、更にその上方へと視線を上げて――思わず、ぽかりと口を開ける。
「な……あんた、」
人だかりが、ざわりと蠢いた。担架が担ぎ上げられたのだ。
肩を抱き合って泣く若者たちの声が、切れ切れに耳へと届く。
胸に手を当てて祈りの仕草をするもの、依然囁き合うもの、そしてただ眺めるだけのものたちに見送られながら、命を失った屍がゆっくりと運ばれてゆく。その時。
あっ、と云う声が聞こえた。担ぎ手の一人が、迂闊にも足元を崩したらしい。伸び上がって人垣の間からどうにか覗き込めば、大きく捲れ上がった布の下に、ちらりと手が見えた。
青白く空を掴む、血に塗れた左手だった。
被せ直された掛布の下に素早く覆い隠された――それは、だが、少なくとも暫くは瞼の裏に焼き付いて、容易に消えてくれそうにない。見るべきではないものを見てしまった後味の悪さを噛み締めながら、緩々と流れ始めた群集に従って、背を向ける。
「……おっと、」
その場に突っ立ったままだった先程の男に、肩が当たった。上背のある均整の取れた身体つきを見る限り、本当にハンターなのかもしれない。そう思うと途端に気まずいような気がして、思わず口を開いていた。
「なあ――あんた」
見上げるその横顔は、男だと判っていてさえ見惚れる程の美貌だった。
「あんたがあの人たちのお仲間だってんなら、気を悪くしたんじゃねえかってよ。いや、こう見えて可愛い盛りの息子がいるもんで、つい、ムキになっちまったんだ。すまねえな」
精一杯の愛想笑いを、だが、男は――一瞥すらしない。つい先刻までそれなりに回っていた口をひたりと噤んだまま、青みがかった灰色の目は、何もない場所を凝視している。
「……おい、」
すっかりと生気を失った顔色は、まるで、あの死体の手のように青ざめて見えた。一体何があったのかは知らないが、顔立ちがきれいなだけに薄気味が悪い。邪魔したなと適当な台詞を吐いてそそくさと歩き去り、少し離れたところでそっと振り返れば、男はまだ――その場に立ち尽くしていた。
第一章
Ⅰ
「先生の分からず屋! 石頭! ケチ!」
「……それで? その程度で俺が折れるとでも思ってるのか?」
思ってないわよう! と、少女は地団駄を踏む。
「でもムカつくの! こんなに頑張ってるのに、何でダメなの!?」
「頑張っているかどうかは関係ない。任務と訓練は違う。ほんの少しでも油断すれば命を落とす。自分の感情すら制御できないような子供を、同行させられる訳がない」
うううと唸る少女は、威嚇するポルケピナに似ている。
「ひどい! 横暴! ねえ、ノノおばさんも何か言ってよ!」
「……何かって、何よ」
突然名指しされた編纂者の女は、本を開いたまま目を上げもしない。
「ナタくんが正しいんだから、わたしが言うことなんて特にないわ」
「だって……! じゃあ、いつまで基礎訓練ばっかりしてなきゃいけないの? 採取には連れて行ってくれるのに、どうして狩猟はダメなの?!」
「何言ってんの。採取だって、キャンプの周辺だけでしょ。慣れた土地ならフォスもすぐに安全な場所に退避できるけど、ここはそうじゃないんだから」
ねえ、と同意を求めるように声を掛けるノノをちらと一瞥して、飼い葉を食んでいた純白のセクレトがフン、と鼻を鳴らす。そっと手を触れてきたニクスは何も言わないが、丸く見開かれた銀色の目はおそらく、もうちょっと手柔らかに――と訴えているに違いなかった。
「……ミナ」
ひとつ息を吐いて、ナタは、少女の名を呼ぶ。
気弱で優しい父親とは似ても似つかない激しい気性は、どちらかと云えばすぐ傍らで澄ました顔をしている叔母譲りであるのかもしれない。逸る気持ちは十分過ぎる程理解できるが、かと云って、安易に譲ってやることなどできないのだ。
「今回きみを連れてきたのは、『東』以外の土地を見てもらいたかったからだ。地形や気候はもちろん、加工屋で扱う素材にだって違いがある。ベースキャンプの中にだって、学ぶことは多い」
「――おっ、呼んだ?」
ちょうど通りかかったジェマが、躊躇いも遠慮もなくがしりと肩を抱き寄せてくる。
「同じモンスターの素材でも、生息域が変われば硬度や柔軟性に差が出たりすることがあるからね。剥ぎ取りの時にちゃんと気をつけておかなきゃ、希少な素材を無駄にしてしまうんだ。そう云う基礎知識も、一人前のハンターには求められることだよ」
おいでと手招く女を見て、うう、と少女は唸った。明るい琥珀色の目が潤んでいる。
「先生のいじわる……」
「俺がこれを本当に意地悪で言っているとしか考えられないような子供だったら、最初から弟子になんかしていない。……それに、」
幾分声色を和らげて、ナタは言った。
「きみの夢を叶えてやってほしい、でも、自分が目指した道で傷ついたり、命を落としたりはしてほしくない。きみのお父さんに言われたことだ。俺が約束をしたから、きみのお父さんはきみにハンターの修行を赦してくれた。違うか」
「…………」
唇を噛み締め、水位を上げてゆく涙が決壊する前に振り払って、ミナは首を振った。
「俺に、イサイさんとの約束を破らせないでくれ」
ぽんと肩を叩いたジェマが、後は任せろとでも云うように片目を瞑ってみせる。俯いた少女をぐいと抱き寄せる仕草は、いかにもさばさばとして衒いがない。
「あんたはいい目をしてるんだから、素材の選別を手伝ってくれると助かるなあ」
最近近いところが見づらくってさあ、と女は笑い、おだてだってダメなんだから――と依然膨れ面を崩さぬ少女はだが、促されるまま素直に従った。
「――やれやれ、だわねえ」
本を閉じて立ち上がったノノが、呆れたように嘆息する。
「誰に似て、あんなに頑固なのかしら」
「訊くまでもない質問だと思っているのは、俺だけか」
「それはそうとナタくん、とっても先生らしいことを言っていたわよね。ええと、『自分の感情すら制御できない子供』――だったかしら」
「――何だよ」
「別に。立派な大人になったよねえ、って思っただけ」
意趣返しのつもりか、これ見よがしに細めてみせる大きな目は、やはり姪のそれとよく似ている。二人ともやめなよぉ、とため息を吐いたニクスが、その時――は、と空を振り仰いだ。
――飛竜の、高い鳴き声が聞こえた。
つられて視線を上げた先、翼を広げて滑空するそれから離れた人影が、やがて目の前に着地する。
長い、亜麻色の――巻き毛が、ふわりと翻った。
見慣れぬ装備を纏ったまだ若いその娘が、大きな緑色の瞳をこちらへと向ける。
人形のように整った美貌にどこか既視感を覚えて、ナタは眉を寄せた。
「きみ――」
誰何するよりも早くは、と息を飲み、そうして、娘は言った。
「あなたが、パパのお弟子さんですか……?」
Ⅱ
長い廊下の果てに立ち尽くしていた男が、足音を聞いたのだろう――こちらへと顔を向けるのが見えた。
「お父さん――」
背後をついて来ていた娘が、足を早めてその隣へと歩み寄る。パパは、と問う娘の髪を撫でて、男は首を振った。鮮やかな緑の目が数歩離れて立ち止まったナタを捉え、どこか強いられたような微笑みを浮かべてみせる。
「よく、来てくれた」
「その節は、ご無礼を致しました。ヘンドリック卿」
教官である男の地位は然程高くはなく、その称号は後進の育成に人生の大半を捧げた功績に対して与えられたものであると聞いている。卿はやめてくれぬか、と言って苦笑した横顔には、だが、疲労の色が濃く滲んでいた。
「……多忙のところを呼び出して、すまなかった。こちらへ来ていると、ファビウスに聞いたものでな」
「いえ。あらかた片付いたところでしたので」
深く息を吸い、吐く。
「それで――なぜ、私を……?」
「エリナ」
一瞬は強く唇を結んだ男が、傍らに立つ娘を呼んだ。
「子細は、まだ――」
「……どうお伝えすればいいのか、わからなかったの」
亜麻色の巻き毛に囲まれた白く可憐な顔立ちには、やはり見覚えがあるような気がした。ゆるりと潤んだ大きな目は、隣に立つ男の双眸よりもやや明るい若葉の色をしている。それに、と娘は言った。
「わたしのことだって、ナタさんはまだご存じじゃないのよね……?」
「……そうだったな」
大変失礼した、と男は頭を下げた。
「故あって引き取った娘だ。カムラの里のハンターを務めている」
「カムラ、」
騎士国家エルガドと縁深い里の名を、耳にしたことはある。類い希な勇猛を誇ると云うその地のハンターは、確か。
「まさか――きみが『猛き炎』なのか」
「そうね。少し恥ずかしいけれど」
右手を差し出して、娘は微かにはにかんだ。
「エリナと云います。あなたのことは、パパから聞いていたわ」
やや戸惑いながらその手を握れば、たおやかな印象を裏切って、手のひらは硬く厚い。
「先生に――」
娘と男の顔を幾度か見較べた後、何があったんです、とナタは言った。閉ざされた扉は白く、ひややかな空気には馴染みのない薬品の匂いが混じっている。深い息を吐き出し、やがて、男は口を開いた。
「倒れた、と――聞いている」
「倒れた? 先生が……?」
頑健な肉体が、身体の内側から病に蝕まれることはある。外傷と違って回復薬は効かないから、適切な治療を受けるしかない。ここはそのための場所だ。だとしても――それなら、『家族』であるものたちが揃っていながら、自分が呼ばれる理由などない筈だった。
「――お加減が、思わしくないのでしょうか」
「……いや」
やや長い沈黙の後、男は言った。
「あれは――俺のことを……覚えておらぬようだ」
咄嗟に返す言葉を失ったナタの視線の先、父親の腕にそっと触れたエリナが、泣き笑いにも似た表情を浮かべる。
「お父さんだけじゃなくて、わたしのこともなの」
「医師が言うには、『記憶の混濁』が起きていると」
「どう云う――ことですか……?」
真っ直ぐにこちらを見つめる男の鮮やかな緑の目の奥に、隠しきれない痛みが渦巻くようだった。
「娘は家を離れているし、俺もこのひと月は留守にしていた。報せを請けて駆けつけたのは今朝だ。幸い身体に異状はないそうだが――俺が傍にいると、酷く怯えたような顔をする」
「そんな――」
「……ナタくん」
僅か言い淀んだ後、男は口を開いた。
「あれが口にしたのは、きみの名だけだ。きみに、会いたいと」
「……僕に、」
「正直なところ、どうしてやればいいのか――俺には、判らぬ」
赦してくれ、と男は目を伏せた。詰めた息を逃すことができないまま、ナタは、扉へと視線を向けた。強く唇を噛み締め、開く。獰猛な獣を前にしてすら最早覚えることのない恐怖や焦燥が、足もとからじりじりと這い上がり始める。
「先生に、会わせていただいても……いいですか」
無言のまま頷き扉へと手を掛けた男の横顔は、その言葉を待っていたようにも、未だ呑み下してしまうことのできない感情を懸命に押し止めているようにも見えた。横開きの扉の向こう側は白い壁に囲まれ、色のないその部屋の中にぽつりと置かれた簡素な寝台の上、半身を起こしていた――その人が、緩々とこちらへ顔を向ける。
「……先生。来ましたよ」
ずきりと疼くようなその痛みを、普段と変わらぬ口調で押し隠す。
「僕を、お呼びだと聞いて」
おそらくは背後でゆっくりと閉じてゆく扉を茫洋と凝視していた青灰色の双眸が、やがて、焦点を結んだ。
「――ナタ」
掠れた、弱々しい羽音に似た声が、乾いた空気をかさりと震わせる。
「ナタ」
「……ええ。僕です」
砂上船に乗り込む時――強い陽差しを受けて輝くような笑顔が、出会ってからずっと見つめてきたどの顔よりも溌剌として、泣きたくなる程美しかったことを覚えている。
それなのに。
「驚きました。先生はとても、丈夫な方だと思っていたので」
躊躇いと戸惑いを奥歯の間に噛み砕いて、どうにか笑ってみせる。十二年の別離を経てさえすぐにその人であることを知った――凜とした美貌が、今はすっかりとその印象を変えてしまっていた。重い足を引きずり歩み寄った寝台の端に腰を下ろせば、待ち構えたように広げた腕の中にすかさず抱き締められる。
「ナタ――」
縋り付くその仕草は、不安に怯える子供に似ていた。
「よかった。もう、大丈夫」
「先生……」
髪を撫でる指を掴み、正面から視線を合わせる。痩せてしまった身体はひと回り小さくなってしまったようで、酷く痛々しい。けれど――それよりも。
「もう、どこにも行かないで。ここにいて。ね」
懇願するようなやわらかな口調も、透き通るような表情も、何もかもがこれまでに知っているその人のものではなかった。何も言えぬままただ見つめるナタの額にこつりと額を合わせ、そうして、エルヴェは滲むように笑った。
「――僕が、守ってあげる」
Ⅲ
咄嗟には言葉のないらしいノノから視線を逸らせて、冷えかけた茶に口を付ける。塞がった喉のあたりにつかえながら流れ込んでゆく生温い液体の味など、殆ど判らなかった。
「……それで、」
深く吸い込んだ息を緩々と吐き出し、どうするの、とノノは問う。
「ナタくんのことしか、覚えていないのなら――」
「覚えている訳じゃないと……思う」
触れる手も、向けられる表情も、かつて与えられたことのないものだ。確かに名を呼びながら、視線を合わせながら、まるで別の何かを見ているかのような――違和感だけが付きまとう。
「……あんな先生は、知らない」
喉を塞いでいたものを漸く吐き出せば、それはおそらく少しずつ癒えてゆく傷跡が作る、まだ乾ききらぬ瘡蓋なのだった。
「ヘンドリック卿が仰るには、先生には幼少の頃の記憶がないそうだ」
「どう云うこと」
「家族や出自に関わることは、全て忘れてしまっているらしい。『エルヴェ』が自分の名前なのかどうかも、本当は判らないと」
唇を噛み、そうだったの、とノノは呟いた。
「もしかして、その記憶が戻りそうになったから、頭の中が混乱してしまっているとか。いえ、勝手に判断してはいけないわね。ごめんなさい」
「医者の見立ても同じだ。一時的なものだろうとは、言っていたけど――」
空になったカップの底を凝視したまま、ノノ、とナタは言った。
「……今入っているのは小型の掃討依頼と、採取調査だけだったよな」
「ええ。他の隊も期日までは逗留する予定になっているし、ナタくんがいなくても特に困ることはないわね。むしろいないほうが、あの子も羽が伸ばせるんじゃない」
加工屋に素材の交換依頼や分類の仕方を教わっている少女は、与えられた仕事に対してはそれなりに真摯に、楽しみながら取り組んでいるようだった。
「付いていてあげなよ。エルヴェさんに」
――身勝手な話だと云うことは、承知の上だ。
――エルヴェを、頼む。
穏やかに微笑んでみせた男の目の奥には、それでも、一抹のやるせなさが滲んでいた。遥か年下の、ひとかたならぬ経緯のあった相手にすら頭を下げることを厭わぬその度量が好ましくもあり、また、羨ましくもある。
「俺が――先生の傍にいてもいいのか……正直、判らない」
「ちょっと。そこで躊躇うなら、今の話の流れは何なのよ」
カップに残った茶を顔をしかめながら飲み干して、いい加減にしてよねとノノはため息を吐く。
「もう、吹っ切れたんじゃなかったの」
「……そのつもりだけど」
「じゃあいいじゃない。あの人はナタくんの先生で、助けてくれた人なんでしょ。しなさいよ。恩返し」
こちらの手から引ったくったカップを携えて立ち上がり、ノノは言う。
「それともなに? 今までのエルヴェさんと違ってるから、怖いの」
琥珀色の目をきらめかせる強い光は、やはり姪のそれによく似ていた。真っ直ぐなだけの子供の頑迷にたじろぐことなどないが、生来の気性の激しさを大人の怜悧と老獪で厚く塗り固められてしまっては、さすがに勝てる気がしない。
「きみは……本当に、踏み込むね」
「踏み込んであげないと全然前に進まないんだもの。あのね。ジェマが言ってたわ。『禁足地』にいた時の鳥の隊のハンターは、本来のエルヴェさんじゃなかったんだって」
そんなことは――知っている。
伴侶である人を見て滲むような微笑みを浮かべる美しい横顔も、明るい青灰色の目も、淀みのない手つきで淹れる香り高い茶も全部、記憶の中にあって恋焦がれた人のものとはまるで違う。
「子供の時のことを思い出したら、今までとはまだ少し違った人になるかもしれないし、そうじゃないかもしれないわ。でも――結局はどれも、その人の一部だってことよ。判る? だから、今のエルヴェさんだって、エルヴェさんなのよ」
「……判ってる」
「子供の頃は自分のことを、きっと『僕』って呼んでいたのね」
――僕が、守ってあげる。
握り締めたその手は微かに震えていた。微笑みの奥に押し込められた、怯えがあった。
本当に守りたいのは、かつて子供だった自分自身なのかもしれない。
けれど、何から――?
「――悪いけど、」
詰めた息を吐いて、ナタは立ち上がった。
「ミナのこと、頼む」
「頼まれなくても放っておく訳ないでしょ」
「……それと、報告書も」
「……お返しにもらいたいものは、また考えておくから」
殊更ににこりと笑って、だから気にせず行ってらっしゃい――と、ノノは言った。