マルガレテの面影②第二章
Ⅰ
足下に踏む下草は露に濡れてやわらかく、瑞々しい緑の匂いを立ち上らせた。
街外れの高台に位置する療養所は、その周辺の自然をも敷地として抱え込んでいる。便宜上裏庭と呼ばれている区画は手つかずの野原にしか見えないが、怪我や長患いで逗留する患者たちにとっては、外界を感じることのできる唯一の憩いの場であるのかもしれなかった。
麻の白い上下を纏い、看護士に介添えされながら散策する、数組の先客たちがいる。
種子を飛ばして拡散する類いの草の、ちいさな綿毛が微風に流れてゆく。
緩やかな傾斜をゆっくりと下る背中に追いついた時、その綿毛がひとつ、亜麻色の長い髪に絡まっているのが見えた。
「……ちょっと、じっとしていてください」
摘まみ取ったちいさなそれは、吹き抜けた風に攫われて飛び去った。行方を追って暫し彷徨わせた視線を、エルヴェはやがてこちらへと向けた。きらきらと光の踊る双眸は、澄んだ湖水の色に似ている。
「……ナタも」
そろそろと伸ばされた手が、こめかみの辺りを掠めた。長い指の間に白い綿毛を取り上げて、エルヴェは笑う。やわらかな表情に見覚えはなく、陽光に陰影を拭われた面差しは年齢すら曖昧にして、ただ透き通るように美しい。
「――ありがとうございます」
先生、と呼びかければまたふわりと微笑んで、エルヴェは手を差し上げた。指先から離れた綿毛の消えてゆく空を見上げた横顔が、風に乱れた素直な髪に隠され、また現れる。痩せた頬にはこの数日で僅かな血色が差し、唇は潤みを取り戻して赤い。
伴侶である男が傍を離れて以来、少なくともひと月――満足な食事を摂ることや、眠ることができていなかったのだろうと云うのが、医師の推測だった。
「……すぐ元気になれそうだと、お医者さんも言っていました。よかったですね」
伸ばしかけた手を引き、こぶしに握り締めて、取り繕うようにナタは笑ってみせた。
白い額にかかる髪を掻き上げてやることが、自分の役目ではないと知っている。それでいて――こうして傍らにいるだけで、灰の下に埋もれた燃えさしが、時折微かな熱を放つような錯覚を覚えそうになる瞬間があった。ましてや、今は――。
「ナタ」
「……はい」
不意に肩口に委ねられた頭の重みに、思わず息を詰める。長く濃い睫毛をはさりと瞬いて、ここにいて、とエルヴェは囁いた。心細さを堪え、泣くまいとする迷い子の口調で。
「僕が守ってあげるから。ね」
「先生――」
「どこにも、行かないで」
絡められた腕の温かさ。懸命に縋り付く健気と、その向こう側の怯え。怖れるものなど何もないかのように見えたいつかの背中が、『怖れる』と云う感情を持たぬがゆえに退くこともなかったのだと云うことを、今は知っていた。そして。
失った記憶の中に置き去りにされた小さな子供は未だ、何かに怯え続けている。
「僕は、ここにいます。先生」
抱き締めて、髪を撫でてやることはできない。
それを与えるのは、この手ではないからだ。
きらきらと澄んだ双眸を覗き込み、にこりと笑ってみせる。
「あそこまで歩いたら、休みましょうか」
少し離れた場所に立つ木を指させば、僅かに考え込んだ後、緩々とエルヴェは頷いた。付ききりで食べさせてやればどうにか喉を通るようにはなったものの、鍛えた身体を保つ程の食事の量ではないから、痩せてしまった胸もとには鎖骨が浮いている。邪魔にならぬようにと片結びにした髪が、どこか儚い。
手を引き、辿り着いた木陰に並んで腰を降ろす。いつの間にか汗ばんでいた首筋に、乾いた風が心地よかった。
「こんなに気温が上がるなんて思いませんでした。喉が乾いていませんか? 水筒を持ってくればよかったですね」
膝を抱えて座り込んだエルヴェは、だが、こちらの言葉を聞いていないようだった。下草の間に揺れる白い花を、じっと凝視している。
「……先生?」
覗き込んだ青灰色の目に、長い睫毛が影を落としていた。次第に張り詰めてゆくような呼吸の後、これ――と、エルヴェは呟いた。
「持って帰って、あげないと」
「この花を、ですか」
誰に、と問えば、わからない、と答える声は掠れて酷く弱々しい。
「わからない、けど、でも、」
「……いいですよ。僕が摘みましょうか」
丸めて強張った背中にそっと触れてやると、強く抱え込んだ膝の間に顔を埋めて、わからない、とエルヴェは繰り返した。幾度も首を振るうちに解けた亜麻色の髪が、さらさらと肩を滑り落ちてゆく。
Ⅱ
「大きくなった――と言うのは、変かしら」
眼鏡の奥の目を細めて、アルマは微笑んだ。やわらかな襞飾りのある白い襯衣と黒いスカート、首もとできっちりと結い纏められた髪は、学術院教授と云う現在の身分に相応しい装いなのだろう。
「最後に会った時もとっくに大人だったけど。随分、雰囲気が変わったみたいね。ナタ」
「……アルマは何だか、偉い人みたいだ」
「もう、何言ってるの」
適切な表現を拾い上げられぬまま口にした言葉は思いの外子供っぽく、苦笑したアルマの表情はどこか懐かしげだった。
「あなたの隊に召喚があるらしいと云う話は聞いていたけど、正確な日程は知らなかったのよ。お弟子さん――ミナさん、だったわね。一緒に来ているの?」
「うん。狩猟に同行したいって言い張って、随分と手を焼かされたよ。ジェマがうまく取りなしてくれて、助かった」
「昔を思い出すでしょう。あなたは聞き分けのいい子だったから、そう困らせられることはなかったけど」
「……本当に?」
それには何も答えぬまま、アルマは微笑んだ。こちらに向かっては長椅子を勧め、向かい合う場所に腰を降ろしてから、ところで――と口を開く。
「あれから、エルヴェさんには会った?」
「あれからって、いつから」
「実を云えば、ノノさんから手紙をもらったの。この件に関しては、わたしにも一応、詳細を聞いておく権利があると思うけど」
眼鏡の奥の灰色の目は優しかった。荒みささくれ、自分を粗末にすることにただ明け暮れていた頃、最も身近くにいて最も心を砕いてくれたのは紛れもなく目の前の女だ。そうだね、と神妙に頭を下げれば、怒っている訳ではないのよとアルマは小さな息を吐く。
「契機を作ったのは、わたしだもの」
「あなたは――悪くない」
「あの人に、させるべきではない決断を迫った。その結果、あなたを苦しめたわ」
「俺のことを心配していてくれたのは、知ってる」
それに、とナタは言った。
「あの頃の先生のことを、俺が受け止められたとは思えない。あれで、よかった」
姉のように慕っていた女を、幾度か泣かせてしまったことがある。明け方にテントへ戻っていた夜に何をしていたのかを知られれば、また泣かせてしまうだろう。
「アルマ。あなたが、『東』を去ることになったのは――」
「言ったでしょう。講師に推薦すると云う、学術院からの打診があったと」
膝の上で組んだ女の指が、固く結び合わせられる。
「ノノさんが来てくれて、あなたがよく笑うようになって、もう大丈夫だって、思って」
「――それは、」
「判ってる。あなたの所為だって、思わせてしまったのね。でも、違うのよ。本当に――違うの」
すれ違ったまま遠く時を隔てて埋もれた感情を、今ここにある言葉で変えることはできない。重く尖った礫を一度喉もとへ押し返して、ナタは言った。
「……先生には、会ったよ。ヘンドリック卿と、娘さんにも」
僅かな沈黙の後、そう、とアルマは呟いた。
「それなら、よかった」
「――アルマ」
頼みたいことがある――と切り出せば、口調に滲んだものを感じ取ったのだろう、女は肩口に緊張感を刷く。
「何かしら」
「先生が訓練生だった時の記録が残っていないかどうかを、知りたい」
「……なぜ、そんなことを」
訝しげにひそめられた眉が強く寄せられるまで、然程の時間はかからなかった。
徒に感情を乱さぬように選んだ言葉が功を奏すことなく、女はやがて椅子に沈み込んだ。彷徨う手が眼鏡の蔓に掛かり、落ち着きのない仕草で外す。
「どうして……いえ、それは判らないのよね。でも――あの人が、そんな」
「先生に幼少期の記憶がないことを、知っていた?」
いえ、と女は即座に首を振った。
「自分のことは、話さない人だったから」
「その記憶が関わっているかもしれないと、医者は言っている。俺にも正直、どうしていいのか判らないけど――他に頼るあては、なかったから」
「それで、わたしのところへ……?」
緩々と眼鏡を掛け直し、一度深い息を吐いて、アルマは顔を上げた。灰色の目の奥、戸惑いと優しさの向こう側に漂う寂寥から視線を逸らすことなく、ナタは口を開く。
「今更、言うべきことでもないかもしれないが」
「……ナタ」
「俺はどうしようもなく子供で、自分の気持ちしか見えていなかったし、あなたに甘えて、たくさん傷つけた。感謝も、謝罪もなくあなたを見送ってしまったことを、赦されたいとは思っていない。なかったことには――できない」
吐き出す度に喉を刺す礫の名は後悔で、吐き出した後には無数の傷が残ることを知っている。だから、とナタは続けた。
「あなたの中に――まだ、」
「まだ、なに……?」
途切れた言葉の隙を突いて、女は顔を上げた。微かに潤んだ目を瞬き、結んだ唇に微かな笑みを刻む。
「あなたを赦せない気持ちがあるなら、ということ?」
「……ああ」
「そんなもの――」
一度だってあったことはないわ、とアルマは言った。
「初めて出会った時のあなたはすごく衰弱していて、見ていない間に死んでしまうのじゃないかと思って、心配で眠れなかった。身体が元気を取り戻した後も、知らない言葉を話す大人に囲まれて、いつもひとりぼっちみたいな顔をしていたわね。わたしと話す時にだけ少し笑顔を見せてくれることが、嬉しかった」
眼鏡の奥の目が、水を湛えてきらきらと光る。
「あの人に出会って、恋をしたあなたが、いつか傷つくと思ったの。あの人が去った後、苦しむあなたを見ているのは、本当に辛かった。でもね、ナタ。あのまま続けることは、できなかったのよ。あなたも、あの人も、わたしも」
「……判ってる」
「だから、あなたを赦せなかったことなんて、一度もないの。あなたがわたしを赦してくれないだろうって、ずっと思っていたから」
眼鏡を外し、ひと粒流れ落ちた涙を手の甲で拭って、やがて――アルマは、緩々と顔を上げた。解れ毛を撫で付け、呼吸を整えて、立ち上がる。
「……入団に当たっての身上調査書なら、三十年分が本部に保管されていると思うわ。少し時間はかかるけど、ここで待っていてくれる?」
「アルマ――」
振り返った灰色の目が、いつか――見慣れぬ重い扉の前で立ち尽くした時、優しく促してくれたそれと重なり合う。
「……あの人を助けてあげられるくらい、大人になったのね」
何も言えずにただ頭を下げれば、温かい手がふわりと髪を梳き――やがて、静かに離れた。