INTRODUCTION:君の故郷の話が聞きたい
チャプ、と耳元で波打つ音がした。
——そんなところで寝入ってしまったっけ。
アベンチュリンはゆっくりと目を開いた。世界が白んで、頭がくらくらする。
身体全体が体温と同じ温度の水に浸かっていた。ドリームプールだ。まるで羊水のように身体を包み込んでいる。無重力状態のような気分になる。上も下も忘れてしまったように曖昧だ。
重怠い身体で身じろぎすると、狭いプールの壁面に当たって、チャプ、と水が跳ねる。少し手を持ち上げるだけで精一杯だった。
プールの外で、ガタ、と何かが倒れる音がした。忙しない靴音。
「っ、アベンチュリン!」
まだぼうっとして視線を彷徨わせるアベンチュリンの頭上に影がかかった。じわじわと焦点が合い、やっと物が像を結ぶ。
焦ったように声をかけたのはアベンチュリンの同行者——レイシオだった。
「……教授? そんなに慌てて、どうしたの」
声は掠れていた。けほ、と咳をひとつ。
レイシオは眉を寄せ、憮然として言う。
「……君が“死んで”からもう五日も経った。なかなか目を覚まさないから、何か問題があるのでは、と」
「わー、それはごめん……」
反射で謝ると、「君が謝る必要はない」とレイシオは言った。絶対「今すぐ謝罪しろ」って顔してただろ。
「……ちょっとだけ時間をくれないかな。何があったか、まだよく思い出せなくて」
重い腕を持ち上げ眉間をおさえる。水が腕に絡みつくような気がする。随分体力も筋力も落ちているらしい。たった五日目覚めなかっただけなのに。
「混乱しているんだろう。……僕のことは分かるな?」
「うん、もちろん。ベリタス・レイシオ。僕の素敵な友人」
「記憶障害あり……と」
「ね~~~~~~!!!! 冗談だって!! 僕の素敵なビジネスパートナー!! 心配かけてごめんね!?」
溜息をついたレイシオがプールに手を差し入れる。それに掴まってプールからあがる。
足元がふらついた。地面がぐにゃりと歪んだ感覚がする。ここは現実だからそれは全て気のせいだ。レイシオに縋って地に立つ。彼はそれを振り払わなかった。
——僕は生きて現実に帰ってこられたのか。
ドッと冷や汗が出る。
賭けに勝つつもりだった。それはもちろん本当だった。だが、確証なんて常にないわけで。
部屋に目をやる。机が倒れている。さっきレイシオが蹴とばしたのだろう。本当にアベンチュリンが起きてびっくりしたらしい。
「そこに座っていろ」
レイシオが赤のビロード張りのソファを指す。
「まるで君が部屋の主だね。僕の部屋だぜ? ……僕の部屋だよな?」
「そうだ。仮死のような人間をそう簡単に移動させることはできない。この数日は僕も使わせてもらったが」
「ああ、僕がいつ死ぬか分からなかったから?」
「君がいつ起きるか分からなかったからだ」
レイシオの手を借り、ソファに身体を沈めた。それだけで随分疲れた。いまだに気を抜いたら夢に引きずり込まれそうな気がする。半分起きていて半分寝ているような。どちらが現実か曖昧な微睡みの中にいるような。
椅子をひっぱてきたレイシオが正面に座る。額を突かれる。
「寝るな」
「ごめんて」
レイシオは真剣な顔をして言う。
「君が寝こけていた間に起きたことを伝えよう。……君は、夢境を派手に破壊した。その全責任は君が負うことになった。君はカンパニーの十の石心の一員ではあるが……その身分のまま、カンパニーに捕縛されることになる」
「あー、うん。当然だよね」
生返事をする。大して驚くことでもない。起きた瞬間首を刎ねられなかった、あるいは寝ている間にもう二度と醒めぬ眠りにぶち込まれなかっただけで『勝ち』寄りの結果だ。今後そうなる可能性は高いとは言え。カンパニーが、捕らえた自分をどうするかは賭けるまでもない。人間の終着地点は一通りだ。
「ただ、君には情状酌量の余地がある。サンデーに仕向けられた……いや、仕向けさせた、か? まあどちらにせよ、君の意思ではない、と判断される点もある。加えて、ピノコニーの功労者の星穹列車の面々と、僅かばかりの僕の口添えによって、捕縛までの猶予期間が設けられた」
「おっと、それは予想してなかったな。ちなみにどのくらい?」
「君が目覚めてから一週間」
はっ、と鼻で笑う。身辺整理しかできない。整理するものなんてないけれど。
「君は今後、おそらく一切の自由が失われる。首に縄をかけられる前に、最後の“自由”を、というわけだ。……というわけで、君は一週間、何をするも、どこへ行くも自由だ」
アベンチュリンは口端に軽薄な笑みを浮かべる。
「ありがたいね。僕、ずっと本当の意味で自由だったことなんてないから」
今だって手枷が付いているようなものだ。縄をかけられても、あまり今と変わらない。今更一つ縛るものが増えたところでどうってことない。
「待て、まだ条件がある。話は最後まで聞くんだな。『全て、ベリタス・レイシオ(僕)同伴ならば』、だ」
天使が通ったような沈黙。
空調の音、水面がご機嫌に波打つ微かな音。アベンチュリンが息を吸いこむ音。そして。
「……それって自由かなあ!?」
レイシオは呆れたようにゆっくりと首を振る。
「これでも最大限譲歩を引き出したんだ。自分が何をしたか胸に手を当てて考えてみろ」
手を当てる。生きてるなと思った。それだけだった。
だけど、とアベンチュリンは口を開く。
「レイシオ。多分すごく頑張って僕の自由に関する交渉をしてくれただろうとこ悪いけど」
「別に大したことはない」
「ええ? なんなんだ君……どういう情緒? まあいいや。僕、“自由”を手に入れたところでやりたいことなんてないよ。そういうのはもうすっかり考えられなくなってしまったから」
肩をすくめてみせる。
レイシオは舌打ちをした。
「そうか。では、この僕に、一週間、君と二人で、この狭くてつまらない部屋で過ごせ、と」
文節で区切って、殊更ゆっくりレイシオが言った。
「……そうなる? 別に僕がどこにも行かない、何もしないってのなら今すぐ捕らえたっていいんじゃないかな? もしくは僕のこと部屋に閉じ込めて君は好きにしたらいいんじゃないの? 大学に戻るとかさ」
「そうもいかない。契約を結んでいるんだ。僕はこの一週間を君と共に過ごす必要がある。例外はない」
アベンチュリンは怪訝に眉を顰めた。
「なんだそれ、バカの組んだプログラミング? あんまりに融通が効かな……あ!! 君、あの奇物で契約書にサインしたのか!?」
「察しがいいな」
レイシオが左の手首を見せる。青い血管の透ける手首に、刺青のように金字が浮かんでいる。
アベンチュリンはそれに覚えがあった。噂に聞いたことがある。
それは、ペンの形をした奇物だ。それを用いて契約書にサインをすると、強制力が働き、けして契約に反することができなくなる、という噂だ。
ただ、その強制力はカンパニーにとって有用ではあるものの、その奇物を使うということは、相手を信頼していないと薄情するようなものだ。イーブンな関係が重要な商談などではとても使えない。
——それにも関わらずカンパニーがレイシオに奇物でサインさせたということは。
彼がそれを断れないようなとんでもない弱みを握っているか、あるいは、この合理性が服を着て歩いているような男を人間としてちっとも信頼していない、ということだ。
「うわぁ〜〜……、騙されてないか? 僕確認していい? 写しある?」
レイシオがペラリと写しを渡した。
アベンチュリンが目を滑らす。長ったらしい文のポイントを、砂金を探すように拾い上げていく。
アベンチュリンを一週間監視すること、半径15メートル以上離れないこと、死なせないこと。
「なんだ死なせないことって」
「君に苛ついて思わず手に掛けてしまうことを想定してるんじゃないか」
「だとしたら君、倫理観についても相当信用がないってことだけどいいの」
アベンチュリンはこの奇物でサインされた契約について、話に聞いたことはあれ実際に見るのは初めてだった。その効果のほどについて試したくなる。
目を輝かせたアベンチュリンが言う。
「レイシオ、部屋出てくれないかな? 隣の隣の部屋の前くらいだと15メートルは超えるだろうから。それか、拳銃かなんかで僕の頭を吹っ飛ばそうとして」
レイシオが黙って立ち上がり、部屋の外に出る。
しばらく後、身体がガチッと固まる。力を入れても反対側に身を倒すこともできないほど。
「僕にも影響があるんだ……?」
すぐに拘束からは解放された。ソファに倒れこむ。起き上がる気力もなくそのままでいると、戻ったレイシオが呆れたようにアベンチュリンの身体を縦にした。
「想像以上の効果だね」
「便利な迷子紐だな」
「紐?」
「君と僕との間に不可視の紐があると思えばいい。それが伸びきってしまえば、それ以上はどちらも動けない」
アベンチュリンは契約書の写しを返す。
「仕方ないな。一週間、君はどうしたって僕から離れられないらしい。なら、逆にしよう。君のしたいこと、行きたい場所に僕が付き合う。それなら問題ないんだろう? で、どこに行きたいんだ? 図書館? 博物館? どこでもいいよ」
「言ったな?」
レイシオの瞳が鋭く光る。
「では遠慮なく僕の希望を通そう。ツガンニヤに行く」
「ふーん、ツガンニヤね。……ツガンニヤ!?」
レイシオは、どうかしたか、とでも言いたげに鷹揚に頷いた。
「……教授ってもしかして地理苦手? ツガンニヤは所属銀河団から違う。一週間じゃ到底着かないけど?」
「それでも構わない。行けるところまで行くだけだ。付き合うんだろう? 詳細を確認せずにハンコを押したバカは君だ。カンパニーの研修で契約書はよく読めと習わなかったのか?」
「ハンコ押してないよ……」
頭が痛い。もう一回倒れてしまいたい。レイシオは許してくれなさそうだが。ソファの背に身体を預けて黙った。
ツガンニヤに帰る。そのこと自体は、きっと、別に嫌ではない。あまりに唐突なだけで。
もしかすると、行く、というほうが正しいのかもしれない。それほどまでに、自分と故郷との距離は開いてしまっている。そのことは、少し、嫌になる。
ところで、とレイシオが言う。ちら、と赤い猛禽のような瞳がアベンチュリンの指先を掠める。
「君はさっきから普通に話しているが、何か身体の不調などはないのか?」
「うん? 寝起きみたいにまだちょっと頭がくらくらするけれど……」
「そうではなくて……。気づいていないのか? 君の手」
言われて自分の掌を見る。太ももが透けて見える。その先のソファも。
「うわーーっ!!!! 透けてる!?!? 僕やっぱり死んだ!?!?」
パッと顔を上げて、教授!? と叫ぶ。
「なんで!?!?」
レイシオはふいっと目を逸らした。
「原因は……目下調査中だ」
「いーーーーーや嘘だね! 僕が寝てる間に分かってんだろ! 絶対知ってる顔だそれ!!!!」
「元気だな」
「おかげさまでね!!!」
***
レイシオはちらりとスマホを確認する。
「その様子だともう立てるな? すぐ出立する」
「無茶苦茶な血圧の上げ方しやがって……」
用意してあったのか、二つある荷物の一つを渡される。軽い。旅慣れると荷物が減るからだ。アベンチュリンだって、旅にはカード一枚あればいい、最悪、なくてもどうにかなると思っている。
「君のサングラスはデスクの上にある。忘れ物がないかよく確かめろ。もう戻らないからな」
「待ってくれレイシオ。あまりに気が早い。僕は了承してないし」
「君に断る権利はない」
「くそ、人権が侵害されることに慣れたくない……。じゃあ、これだけ。君、なんだってツガンニヤに行きたいんだ?」
レイシオはイラついたようにコツコツと靴を鳴らした。早く立て、と視線がうるさい。
「口を開くな。君がお喋りなせいで時間がないんだ。いいか、君には一週間しかない。トランジットの時間もあるんだ、一便でも早く乗りたい」
「僕は別に行きたいとも思っていないんだけどな……」
「実のところ、そろそろ叩き起こそうと思っていたところだったが……寝ぼけているのなら、今そうすることも吝かではない」
「叩き……!? 起きてよかったよ」
ソファの背に手をやり、身体を支えて立ち上がる。ふら、とよろめいて壁に手をつく。血の気が下がって冷や汗が出た。
レイシオは何も言わず、急かすこともないが、手を貸すこともなく立っている。
ハハ、と乾いた笑みが漏れる。
「この薄情者め」
「この先長いんだ。君一人で立ってもらえないと困る」
先に出るぞ、とレイシオが部屋を出る。
ガチッと身体が硬直した。
「待った、先に行くな。どうせ15メートルしか行けないんだから。分かった、行くから、待ってくれ」
足音を吸収する絨毯張りのホテルを抜け、発着場の硬質な床を歩くようになって気づく。
以前隣を歩いた時よりほんの気持ち程度、彼はゆっくり歩いている。前はコンパスの差をちっとも考えないせいでアベンチュリンはたまに駆け足をする必要があったから。
それでも病み上がりの自分を振り返らずずんずん行くところは薄情だと思うけれど。
荷物を抱えながら後ろを着いて行き、宇宙船に乗り込む。
ピノコニーの部屋より随分狭い客室だった。
「チケット用意してたんだ」
「歩きながら買った」
しばらく後、気づかないほどの振動で宇宙船は離陸した。
レイシオの話によると、跳躍ができるような便が出るステーションに行くために、まず一度乗り換えをする必要があるらしい。
「ピノコニーなんて有名な星なんだから、大きなステーションへの直通便だって出ていると思うんだけど?」
「寝こけていた自分への文句か? これが一番早く着く。乗り換えは三日後に着く星だ」
客室の窓からピノコニーを見る。自分が壊したのは夢境だから本物ではないが、疑似的にこの光の粒をめちゃくちゃにしたのだ。感慨深いような、自分とは一切関係ないような妙な気分になる。
窓に映る自分は、随分窶れた顔をしていた。
(死んで、五日も寝ていたのだからそうなるか)
痩せた輪郭をなぞった。
レイシオが指摘した通り透けてはいるものの、よく見れば若干透けているかもしれないという程度だ。手元はそれなりに透けていてぎょっとするが、全体で見れば違和感はないかもしれない。出星審査で止められなかったし。
(……いやなんで透けてるんだ?)
レイシオが言う。
「名残惜しいか?」
「いや全然。人口多いなって思ってただけ」
「定住しているのは十万人だ。ほとんどがホテルの従業員とその家族だ」
「お~! 多いのか少ないのか全然わかんないけど」
「少ない。ホテル以外に産業がないから。宿泊客を含めると相当な数にはなるがな。この人数でよくも文化らしきものを保っていると感心する。……ツガンニヤは何人だったか」
「昔は二十万人。今は知らない。これも多いか少ないかは僕には判断がつかないけど。ああ、でも体感で人口密度は低かったよ。というか、住んでいる地域と住めない地域のバラつきが大きい。銀河フィラメントと超空洞みたいにね」
「随分と居住地が少ないんだな」
「そりゃあもう! 陣取り合戦だ。そうしてパンッと泡が弾けたってわけ。さすがにその顛末は知ってるだろ? 教科書にも載ってるはずだ。僕は読んだことないけど。……もう今はどこだって人はほとんど住んでいないはず」
なーんて、教授ならご存じか、とアベンチュリンはおどけたように言う。
「いや……僕はツガンニヤについてあまり知らないんだ。君が話してくれ」
「知らないのに行きたいんだ? 奇特だね」
「知らないから行きたいんだ」
「ふ~ん? そうは言っても、僕に話せることは少ないよ。学校にも行ってなかったし、早々に離れてしまったし」
「構わない。君の言葉で、君の故郷の話が聞きたい」
「急に振られても困るな」
窓の外に目をやる。濃い紫に広がる宇宙の中、煌々と輝く遠ざかるピノコニーが映る。
レイシオは、アベンチュリンの、宇宙で彼しか持たなくなった紫の瞳に無数の光が反射するのを見ていた。
「そうだな……」
アベンチュリンの僅かに透けている指が分厚いガラス越しに宇宙をなぞる。
「ツガンニヤは衛星を三つ持っていた。少ないよね。それぞれ○○、××、……と、なんだったかな、思い出せないけど、もう一個。公転周期がめちゃくちゃ早くてさ、一日に二度見えたりする。二つは小さいんだけど、○○が一番大きくて、かなりの楕円軌道を描いているんだ。だから、遠いときは大きめの点くらい遠いんだけど、近いときは随分潮位が変わった」
「潮位? ツガンニヤに海があったのか」
「……君、実はツガンニヤのこと普通に知ってるだろ? 仰せの通り、海はない。湖だ。あまり魚は取れないんだけど、漁師はいてさ。漁に出るかどうかは○○の満ち欠けも見て決めるって言っていたかな。……そういやピノコニーって衛星を持たないんだね。珍しい」
「景観のために爆破処理したらしい」
「気が強すぎる……」
CHAPTER1:―天文―
電灯は落とされたが、アベンチュリンは眠れずにいた。隣のベッドからはレイシオのかすかな寝息が聞こえる。
常夜灯を頼りに身体を起こし、己の手を結んだり開いたりして眺めた。半透明だ。
宇宙の方々へ出向いているから奇怪なことはいくらだって起きる。両手の指を使ったって数えきれない。
「けど透明になったのは初めてだよ……」
感覚はあるからより奇妙だった。治るのだろうか、これ。ただ半透明なだけだから今のところ何も支障はないけれど。
治らなくてもいいけれど。
(というか、なんで幽霊みたいになってしまったんだ……?)
レイシオは何も答えなかったけれど、十中八九、夢境でのイレギュラーが原因だろう。それ以外に心当たりはない。
アベンチュリンは音をたてないようにベッドから脚をおろした。床が冷えていて、ひとつ身震いをした。
カーテンを引いた窓辺に近寄る。
ツガンニヤは遠く離れた銀河にある。普通に宇宙船を乗り継いでいくだけではなく、跳躍も数度挟む必要がある距離だ。到底思い付きで行く場所ではないし、行って何がある場所でもないし、——少なくとも、一週間でツガンニヤに行くのは不可能だ。
いったい彼は何を考えているんだろう。
ひんやりとした窓ガラスにカーテン越しに凭れ掛かった。
行きたいのなら、僕が捕らえられたあと一人で行けばいいだろうに。