狐の嫁入り #宿虎怪奇譚 晴れているのに雨が降る。この現象を昔の人間は『狐が化かしている』のだと思い〝狐雨〟と呼んだ。
ところが、ある頃からか晴れているのに雨が降った日に『狐の嫁入り行列を見た』と言い出すものが現れた。
そんな声が一人から二人、二人から三人二なり、やがて『晴れの日に雨が降るのは狐が嫁入り行列を人間に見せないよう報せている』という話が広まり、やがて〝狐雨〟は〝狐の嫁入り〟とも呼ばれるようになった。
◇
ある日、珍しく一人で任務に駆り出された虎杖は心霊スポットとして話題に成りつつあった山奥の廃村に出向き、無事呪霊を祓い終えて帰るところだった。
「なんか、村はそこそこデカいのに呪霊は大したことなかったな…」
どうにも釈然としない気持ちを独り言として呟くと、虎杖の頬に二つ目の口が開き宿儺がその疑問に答えた。
「あれは発祥したばかりの呪霊だ。噂とやらが広まってから日が浅いのだろう」
「そういうもん? 高専に依頼が来たのに?」
この光景を、頬に開いた口の持ち主が誰なのかを知る術師が見れば卒倒するだろう。呪いの王相手に軽々しく口を聞く虎杖だったが、何処でどう歯車が組み合ったのか。宿儺は無知故に何事も宿儺に訊ねては自分の言葉を素直に聞く虎杖のことを存外気に入っていた。
「ただ気味の悪い場所、では意味が無い。呪霊を呪霊たらしめるのは如何に人間から恐れられるかだ。『ただの怪しげな村』より『実際に人が消えた村』の方が彼の地へ向く負の感情もより強く大きくなる」
「えっと……つまり、噂だとまだ肝試しスポットだったから呪霊の力が弱かっただけ?」
「そんなところだ」
「――…ん?」
虎杖が宿儺と他愛のないやり取りをしているとポタ、と虎杖の鼻に水滴が当たった。
傘もないのに山の中で本格的に降られたら困る、と空を見上げた虎杖は雲ひとつ無い青天に首を傾げた。
「雨? でも晴れてんのに……」
「狐雨か」
「狐雨?」
きょとん、としている虎杖に溜息を吐きながらも宿儺が続ける。
「狐が化かして降らせた雨、と言われている」
「狐が雨……あ! 狐の嫁入り?」
「嫁入り? 嗚呼、そう呼ぶ者もおったか」
――シャン。
虎杖と宿儺が話し合っていると、少し離れた茂みの向こう側から鈴の音色を思わせる音が響いて来た。
「ん? 今なんか聞こえたよな?」
「……ハァ、小僧。オマエの勘が当たったな」
「へ?」
――シャン。
宿儺の言葉にまた首を傾げている間にもまた、鈴のような音。
その音は先程よりも近くから聞こえた気がした。
「え、待ってこれ近付いてねぇ?」
「仕方あるまい。そこの木の影にでも隠れとれ」
「隠れんの」
「狐の嫁入りは見た人間を八つ裂きにするのが習わしだ」
「今すぐ隠れますっ」
――シャン。
更に近付いて来た鈴のような音に急かされながら、虎杖は近くにあった幹が太い木の後ろに回ってしゃがみ込んで隠れた。
だが、虎杖は狐の嫁入りという言葉に何やら不穏さを感じて小声で宿儺に訪ねる。
「なあ、向こう狐なら匂いでバレたりとか……」
「有り得るな」
「ちょ 大丈夫なん?」
「さてなァ」
――シャン。
虎杖と宿儺が言い合う間も鈴のような音は近付いたらしく、遂に虎杖が隠れた木の向かい側にまで来たらしい。
更には複数の小さな足音のような音も聞こえて来て、向こう側にいるのは一匹や二匹ではないのだと言うことが嫌でも理解できた。
「――…っ」
流石に息を飲んで黙る虎杖だったが、何故かそこで足音が止まった。いや、正確には列らしい集団が立ち止まって騒めいているようだった。
「……?」
「……」
虎杖にはその状況が理解できなかったが、それは宿儺も同じらしい。虎杖の目の下に出ている宿儺の目が訝しげに細められているのが分かった。
「……そこな人間」
「――ッ」
突然、声が掛けられて虎杖の肩が跳ねた。声を掛けられたということは気付かれている、ということだ。
――…これマズくね?
虎杖がどうしようか、と頭を抱えている間も木の向こう側からの声は続けられた。
「隠れているようだが此方は勘づいている。本来であれば八つ裂きにするところだが……それは此方にとって良いことには成らんのだろう。胎に厄介な呪いを宿しておるな」
「ほう。畜生と言えど俺の気配が分かるか」
「ちょっ、宿儺」
シレッと返事をした宿儺に思わず虎杖も声を出してしまい、慌てて口を塞いだ。だが、既に向こうにも声を聞かれてしまった後である。
「そこな人間が胎に宿しておるのが両面宿儺でなければ……っ」
「ケヒッ、其れは残念だったなァ?」
「まあいい。花嫁がどうしても話がしたいとのお達しだ」
「あの……俺の意見は聞いていただけないんでしょうか……?」
完全に話から置いてきぼりを食らっている虎杖が小声で口を挟んだが、宿儺も向こうも聞いてはくれなかった。
「花嫁? 畜生の嫁になんぞ興味は無い」
「両面宿儺にではない。そこな人間!」
「あ、ハイッ!」
「お主にだ」
「……はい?」
これには虎杖も驚き、あんぐりと口を開いた。狐の花嫁が自分に何の話があると言うのだろうか。
「良いか! 花嫁が其方に行くが両面宿儺に何かさせた場合は我等がこの身に変えてもお主を八つ裂きにする」
「それって脅しじゃん!」
「ケヒッ、出来るものならなァ?」
「宿儺はちょっと黙っててくれん」
などと言い合いをしていると木の向こう側からトテトテ、という軽い足音が聞こえ、やがて木の影からひょこっと白い物が顔を覗かせた。
それは、白い花嫁衣装に身を包んだ一匹の狐だった。花嫁だと分かっているからだろうか、虎杖の目には綺麗な狐に見えた。
五十センチ程の大きさの小さな花嫁狐は二本足で立っているが、それでも虎杖の腰にも届かないだろう。隠れるためにしゃがんでいたので顔を見ることが出来たが。
「人間のお方」
それはとても、綺麗な声だった。
「供の者がご無礼を致しまして」
「――…へ? あ、いや気にせんで!むしろ俺達の方こそ見ちゃいけないもの見ちゃったし」
その花嫁狐はしずしずと頭を垂れた。綺麗な所作に見惚れていた虎杖は慌てて狐を止める。
虎杖の声を聞いても花嫁狐は頭を下げたまま、何やら前足をもじもじとさせていたが。意を決したように顔を上げると虎杖の顔を真っ直ぐに見た。
「人間のお方にお聞きしたいことがございます」
「俺に?」
「はい。その……出来れば其方の方には」
花嫁狐は虎杖の頬に開いた宿儺の目に視線をやった。つまり花嫁狐の用事は虎杖にだけ、話したい内容なのだろう。
「えっと、宿儺。悪いんだけど」
「……構わん。畜生の話なんぞ興味も無い」
それだけを告げると。宿儺の目は閉じて虎杖の顔には複眼痕だけになった。虎杖の意識の中からも声が聞こえないので、おそらくは意識そのものを切断してくれたらしい。
「……大丈夫みたい」
「感謝致します。して、人間のお方」
花嫁狐は視線を少し逸らして、また虎杖を見て口を開いた。
「種の違う殿方に嫁ぐとは、恐ろしいものですか?」
「……はい」
質問の意味が分からず、聞き返してしまう。
たっぷり数秒、固まっていた虎杖は答えを期待しているらしい花嫁狐に申し訳なさそうに口を開いた。
「えっと、俺男だから嫁ぐとかないし……そもそもそんな相手も――」
「両面宿儺様は、あなた様の婿殿なのでは?」
「むっ」
思わぬ発言にむせてしまう。婿とは? その言葉の意味は分かっても何故宿儺を婿と言われたのか、何故そう思われたのかが全く分からない。
「あの。宿儺は俺の中にいるだけって言うか、俺はただ宿儺の指を食べただけで」
「胎に宿しているだけの仲でないのは臭いで分かります」
「……えぇっと」
花嫁狐の言葉に冷や汗を流した。思い当たることがない、どころか心当たりしかない。
高専の誰にも絶対に話せない、知られる訳にはいかないことだが。いつだったかただの話が口論になり、それが殺し合いになった……のならどれだけ良かっただろうか。
何故か宿儺が術式を使わず取っ組み合いになり、それが発展し、気付いた時には宿儺曰く〝目合い〟になっていた。
事が全て済んでお互いにどうしてこうなったと言い合ったが、結局理由は思い付かなかった。ただそうなってしまったとしか言いようがない。
そして困ったことに。本当に困ったことにその目合いは一度だけではなく今も時折発生する。最近では言い争いからの発展ではなく最初からそれ目当ての時もあった。
どうしてこうなってしまったのだろうか。
「もし」
「うぉわ あ、ごめん」
考え込んでしまっていたところに声を掛けられ、虎杖の肩が跳ねた。
花嫁狐は気にしていないのか、少し笑うとまた訊ねて来る。
「して。どうなのですか?」
「どうって聞かれても……」
虎杖は考える。嫁ぐとは違うが、言われて見れば四六時中一緒にいて成り行きとはいえこんな関係になっているのを『指を飲んだだけ』の一言で済ませるのもおかしな話だった。
だか、宿儺との関係をどうかと聞かれても虎杖には分からない。その答えは虎杖自身も欲しいとさえ思ってしまう。
「俺のは嫁ぐとは違うと思うし、どうって聞かれても答えられんけど」
それでも虎杖は考える。この関係に明確な名前を付けられなくても、それでも花嫁狐の問いに自分なりの答えを出したくなったのだ。
「……嫌なことは多いと思う。正直コイツが何考えてんのかなんて分からんし。でも」
生得領域で殺された事もある。なんなら心臓を引き抜かれた事も。思い起こせば嫌なことばかりだ。たが、それでも。
「でも、一緒に死……生きてんのが嬉しいって思うことはあるよ」
ほんの少しだけ嘘を混ぜて。虎杖なりの答えを出した。
花嫁狐はその言葉を聞いて、妙にすっきりとした虎杖の表情を見て何かに納得したように頷いた。
「……そうですか。お話くださりありがとうございます」
その声は、どこか安堵しているように聞こえた。
◇
花嫁狐が木の向こう側へと戻り、暫くすると嫁入り行列は再び進み出したらしい。行列を見る訳にはいかない虎杖は木の向こう側を想像するしか出来ないが、それでもあの花嫁狐は笑顔で歩けていたらいいと思った。
「何の話をしていた」
「うわっ びっくりさせんで?」
行列が過ぎ去るのを待っていると、宿儺が口を開いて声を掛けてきた。
「勝手に驚いたのだろうが。それで、何の話をしていた」
「何って言われてもなー……」
花嫁狐に口止めはされなかったが、内容を宿儺に話すのは何となく気恥ずかしくなってしまい。虎杖は口を噤んだ。
「……マリッジブルー、かな」
「何だそれは」
宿儺が知らないだろう現代の言葉でお茶を濁した。
「まりっじぶるー、なぁ」
ただ。これは虎杖の知らないことだったが、先程の言葉は悪手だった。
何故なら宿儺は、受肉というものは宿った器の記憶を覗くことが出来るのである。つまり、虎杖が意味を知っている言葉であれば、当然宿儺も知っていることになる。
――…一体、誰の嫁だと思うたのだろうなァ。
虎杖の頬に開いた口がニィ、と嗤った。