「 」を教えてくれたあなたへ。マルメローゼの厨房で、リクから皿洗いの手ほどきを受けているのは、エプロン姿のリシェロだ。
とは言え、リシェロは皿洗いではなく洗った皿を拭く担当だ。
『いつもご厚意に甘えてばかりで申し訳ない。何か手伝いたい』と強く強く申し出たリシェロに気圧されるように、では皿洗いをと頼んだのだが、まさか皿洗いも初めてだと言う。
更に申し訳なさそうな顔をしたのを気遣ったのか、リクの方から『閉店後の掃除と皿洗いなら、時間気にしなくていいし、何かアクシデントが起きても周りの迷惑にならないよ』と提案してくれた。
結局厚意に甘えることには変わりないのだが、ついこの間まではもっと小さい子に手伝ってもらってたんだから大丈夫、と背を押されると、ならば自分にも出来るかもしれないと奮い立ち、今に至る。
「俺も最初は失敗したし、皿の1、2枚くらい別に気にしなくていいのに」
カラカラ笑うリクとは反対に、キリリとした表情でリシェロは答える。
「いえ、お手伝いなノに足手まといになる訳にはいきません。大切な食器を割ってしまっては、備品ノ損壊で利益損失に繋がり皆様ノお給与に障ります」
「リシェロさん、そういうとこ結構律儀だよね……」
「リシェロ、経営ノ書籍も読みますノで」
リクから渡された皿をリシェロが拭き上げ、そっと優しく積み上げていく。
パフェのグラスも拭き跡が残らぬよう、丁寧に。
淀みない手つきに、リクは感心し頷く。
「リシェロさんは、一回見たことはすぐ覚えるね」
「リシェロは、見たこと聞いたことは二度と忘れません。教えていただいたもノを、そっくりそノまま繰り返すことも可能です」
「そっかあ、うちのバイトに欲しいなー!全部仕事任せられるじゃん!」
「ふふっ。リシェロ、皆様ノ後輩になりますね」
カチャ、コト、としばし食器の洗う音と、水の流れる音だけが響いていたが、先に食器を洗い終えたリクの方が、手を拭きながらリシェロに然りげ無く問いかけた。
「リシェロさんって、ずっと長生きしてるんだよね?」
「はい。それはそれは悠か久しい時を渡り歩いております」
「――そっか」
棚からもう一枚クロスを取り出し、丁寧過ぎて進まないリシェロの食器拭きの手伝いをし始めたリクが、じっとリシェロの手元を見つめながら、再び口を開く。
「リシェロさん、今幸せ?」
「はい。リシェロは間違いなく、今幸せですよ」
「悲しいこともあった?」
飛び出した素直な問いかけに、リシェロは戸惑うでもなく少し眉を下げて笑う。
「――いえ、今も悲しいです」
「今も?」
「はい」
「どうしてか、聞いてもいい?」
マルメローゼは眠る支度についたものが殆どで、今は二人きりの調理場だ。
首を傾げるリシェロに、辺りを見渡してからリクがぽつりぽつりと語り始めた。
「オーナーも、リシェロさんみたいにずっと長生きしてきた人だろ?時々思うんだ。オーナーはどんな気持ちでいるのかなって」
「どんな、と言うと?」
「あのさ……最近ちょっと、シオにいが仕事始めて、さ……ちょっとだよほんのちょっとだけ……俺、寂しいのかな?って」
リクの兄、シオンがザリア軍に所属し仕事を始めたことは、リシェロも聞いていた。
治癒術師を目指すのだとリクもリサも胸を張って誇らしげに語っていたのだから。
不思議そうに顔を覗き込むリシェロに、リクは慌てて首を振った。
「あ、別に俺の話じゃなくて、そう。きっかけはそこだけど、考えたのはオーナーのこと」
「オーナー・ラベレア?」
「オーナーはさ、ずっとずっと昔から『置いてかれる』とか『さびしい』って気持ちを、何度も経験してたんじゃないかなって思って」
ラベレアの思い出を、ラベレアが過去に体験したことを、はっきりと聞いたことはない。
だが、リシェロは彼女に『自分と同じ色の感情』を見た。彼岸を渡って遠くへ旅立った人たちと、岸辺で佇むだけの自分の間を流れる冷たい風に、凍え苛まれた記憶の香りに気づいた。
「オーナーは、いつもにこにこしてて幸せそうで、あの人の周りにいると皆が楽しそうで、元気がない人も励まされる。でも、そんなオーナーだって、もしかしたらずっと怖かったのかなって」
「怖い、ですか?」
「出会った大切な人たちと、いつかは別れなきゃいけないんだ、って思うこと」
すっかり手を止めてしまったリシェロに代わり、リクが最後1枚の皿を手早く拭き上げた。食器はいくつかの山に分けられ、リクはそれをてきぱきと食器棚に戻していく。
「割れた皿は元に戻らない。なくなったものは戻ってこない。オーナーは、何回それを経験したのかな……」
「――リクさん」
言葉を返せないリシェロの手に、リクはもう一山の食器を持たせて「これはその下ね」と指示し、自分はグラスを片付け始める。
「ってね、思って聞いてみたかっただけだよ。それに、俺も実際、リシェロさんがそもそもどんな人なのかはよく分からなかったから知りたかったし」
「左様ですか」
「――でさ、今も悲しいって、どういうこと?」
純粋な興味と、探究心と、核を探ろうとする少年の強い眼差しに、リシェロは微笑みで答えた。
「幸せで、皆様が愛おしくて、大切な方たちだから、必ず来るお別れが悲しいノです」
「……」
「これ以上愛しては辛くなるだけと分かっていて、そうなる前に静かに離れることを選べば良いノに、出来ずにいることノ苦しさを、ずっと私は繰り返してきました。愚かな迷いと分かっていながら、リシェロは、どうしても」
その後を言葉に出来ずいるリシェロの、カウンターに乗せた手の上に、リクが手を重ねる。
「リシェロさんは、それでもここに来てくれるんだね」
その手の上に、またリシェロの手が重なる。
陶器のようにひやりとした手だな、とリクはさっきまでの作業を思い出す。
手のひらの冷たさと質感とは裏腹な微笑を浮かべたリシェロが、リクの手の甲を撫でた。
大丈夫、と言いたげに。
「それはきっと、魔女ノ魔法がそうさせるノですよ」
「――魔女?」
「ええ。先にある別れが辛いと知っていても、あノ方は出会うことを止めたりしない。痛みを伴うと知りながら、人を好きになることを諦めたりしない。そんな魔性ノ方が、とても怖い場所を作ったノです……幸せノ形をした、安らぎノ場所。一期一会も長きノ絆も生まれる憩いノ場所。何故でしょう」
リシェロの肌は、リクの体温でじわじわと暖まっていく。人とは異なる体だが、人と触れることでリシェロは同じ熱を帯びる。
「リクさん、木漏れ日ノ魂を持つお人。貴方ノ慈しみは十分伝わっています。どうか心配なさらないで。何よりオーナー・ラベレアには、貴方という人がいるノです」
「――そっか」
「えぇ。オーナー・ラベレアはお強い方です。貴方ノ問いかけには『ずっと幸せだ』という答えを示すと思います。リシェロにはまだ言えない言葉です……」
エプロンを外して畳み、厨房をあとにしよう背を向けたリシェロの腰に、リクが腕を回した。
きゅう、と柔く力を込め、まだ居ていいと伝わるように。
「リクさん?」
「……オーナーの真似」
嬉しいとき、楽しいとき、誰かを励ましたいとき、あなたは一人じゃないと伝えたいとき。
1秒の抱擁ですら、時にどんな言葉よりも雄弁であると、リクはラベレアから教わった。
「リシェロさん、手伝いなんかしなくたって、来ていいんだよ。申し訳ないとか思わなくていいよ」
「――はい。お言葉に甘え、そノようにいたします」
「でも……たまに手伝ってくれたら助かるかも」
「はい。そノように」
向き直り、今度は正面から抱き合った。
「リシェロさん、ちょっと硬いんだね」
「申し訳ありません、鳥ノ姿なら柔らかくなりますがいかがしますか?」
「中だから、今度ね」
「はい」
春が始まったばかりの夜は、まだ少し肌寒い。リシェロは外套を広げ、リクを包んでやる。
もう少しリクが大きくなった時、ラベレアが彼に教えた抱擁の温もりが、まだ出会っていないたくさんの誰かを暖めるのだろうと思いを馳せ、その中に自分もいたら幸せだなと想像して、少しだけ抱きしめる力を強くした。