今ある愛だけじゃたりない#2「ただいま、兄さん」
右手には出張の時によく使っていたスーツケース、左手にはみっちりと中身の詰まったボストンバッグ。人波にのまれながらゲートをくぐって現れたラウダの両手には、それぞれ大きな荷物が握られていた。
「おかえり。随分とデカイ荷物だな」
無重力空間とはいえ、荷物二つに体を挟まれて窮屈そうにしていたため、寄ってきたラウダの左手からボストンバッグを受け取る。布地の上から軽く叩くと、硬い手応えが返ってきた。
「それ、株式会社ガンダムのスタッフから、持っていけるだけ持っていけってたくさんのお土産を持たされたんだ。兄さんが好きなコーヒー豆も勿論入ってる。今後とも弊社をご贔屓にお願いいたします、だってさ」
「……それは賄賂と捉えていいのか? 俺、というかジェターク社への」
俺の意地悪い穿った見方に、ラウダは「CEOのご想像にお任せします」とおどけて笑ってみせる。
ラウダは生成りのスキッパーシャツにデニム地のボトム、スリッポンというラフな装いだった。シャツの袖は肘の下まで捲られている。
「やっぱりフロントは過ごしやすいな。季節変化がある地球も味わいがあっていいけど」
「前に帰ってきた時は夏だったよな」
「うん。一番暑い時期だったから、こっちに帰ってきて驚いたよ。過ごしやす過ぎるって」
前回、三ヶ月前のラウダの帰省時は夏の盛りだった。こんがりと日焼けした腕を自慢げに見せてきたことを思い出す。
フロントでは照明からの紫外線量が人体に害のないレベルまで大幅に制限されている。そのため日常生活を送る分には日焼け止めを塗る習慣がない人がほとんどだ。例に漏れず、ラウダにもその習慣はなかったようだ。
「お前の腕の日焼け跡もすごかったな」
「……よく覚えてるね」
心底意外だと言わんばかりの顔で、ラウダは数回瞬きをする。
忘れるものか。あれだけくっきりと色の段差ができた腕なんて、生まれてこの方初めて見た。元々俺達兄弟はかなり似通った肌の色をしていたが、あの時のラウダの肘から下は、俺よりも随分と濃い色に焼けていた。
こいつにとってはなんてことのないその色の差が、俺にはこれ以上なく突き刺さった。時間と距離の隔たりを否応なく見せつけられる。モニター越しになんとなく把握していたはずなのに、実際に目にすると衝撃的だった。
俺の知らない所で、知らない間にラウダはどんどん変化していく。俺の知らないラウダがそこにはいて、俺の代わりにその姿を見ている人がいる。理解していたつもりが、純然たる事実に打ちのめされそうになった。どうしようもなく焦って、胸がざわついた。
「でも今はだいぶ色が薄くなったんだ。ほら」
そう言って肘の下まで捲くりあげていたシャツの袖を、ラウダは少しだけ引き上げる。あの衝撃的な色の段差は、以前と比べて確実に薄れ、元の肌の色と馴染みつつあった。
俺が隣にいない間に、弟が二つの季節を越えたのだと思い知らされる。今地球は木々の葉が色づいて落ちる時期のはずだ。
コンコースの片隅には有料のロッカーがある。昼食の邪魔にならないよう、ラウダのスーツケースとボストンバッグをロッカーの一番奥側にあるボックスに預け入れた。
端末で手続きと支払いを済ませていると、ふと「そういえば」と声がかけられる。
「今日は前髪、セットしてないんだね」
「ん、ああ。そうだな」
「兄さんのその格好を見るの、随分と久しぶりだなと思って」
ラウダはどこか面映そうな微笑を浮かべてこっちを見ている。
久しぶりだと指摘されて、たしかにそうか、と思う。
地球でリモートワークをしているラウダとモニターで顔を合わせるのは、いつも仕事のタイミングだ。休みの日はそれぞれのプライベートがあるからと、基本的に通信を繋ぐことはない。前回のラウダの帰省から今日までの三ヶ月間、寝起きと風呂上がりの姿を弟に見せる機会がなかったのだから、その言葉はもっともだ。
前髪をワックスでセットするのは学園にいた頃から続いている習慣だ。セットすると自ずと気持ちのスイッチが切り替わる。だからこそ、仕事から離れてリフレッシュする日には髪をいじらないようにしていた。
「せっかくラウダが帰ってくるんだから、完全オフの日にしようと思ってな。明日お前のモニタリング検査が終わったら、嫌でもその後は仕事漬けになってしまうしな」
苦笑しながら伝えると、気にするなと言わんばかりに「うちにとって大事な案件なんだから、僕はどこまでもお供するよ」とフォローされる。頼もしいとありがたく思う反面、弟を一週間もこっち側に縛り付けてしまうことに、俺は未だに罪悪感が拭いきれずにいた。
今回の帰省期間中、連日のように重要な商談が入っている。そのため直接ラウダの力を借りた方が社のためになると判断して、前回より長めの滞在期間を設定したのだが、それでも正当な理由よりも後ろめたさの方が勝ってしまう。
本当は、三ヶ月に一度のデータストーム障害のモニタリング検査に合わせて、ラウダの帰省を制限する必要は全くない。もっと頻繁に帰ってきたところで仕事に悪影響が出るわけでもない。単に俺が、しょっちゅうラウダに対面していたら、胸に巣食う醜い執着の発露がいよいよ隠しきれなくなるおそれがあるから、このルールを弟に押しつけているにすぎない。
現在GUND技術を使った義足のテスターはまだペトラ一人だけだ。今後の株式会社ガンダム――ひいてはGUND医療全体の行方を占う試金石となる大事な時期だから、お前が隣でペトラを支えてやってほしい。ラウダにはそう言い聞かせて、地球から仕事をしてもらっている。
そのどちらも俺にとって嘘偽りのない本心だ。ラウダと時間を共有して、愛おしく思う気持ちが抑えきれなくなるくらいなら物理的に離れていた方がいいだろうし、両脚を失ってしまったペトラには少しでも早くGUNDの義足の扱いに馴染んで、平穏で幸せな日常生活を取り戻してほしい。
結局、俺がラウダに踏み出す勇気がないのであれば、俺自身の感情を無視するのであれば、今のこの生活がおそらく一番つつがないはずだ。衝動に蓋をして監視しながら、この気持ちが風化して朽ち果てるまで、ただひたすら時を重ねて待ち続ける。
まかり間違ってラウダからの強い働きかけでもない限り、よほどのことがなければ、俺は自分から動けない臆病者だ。たとえ息苦しくとも、今の安寧を無闇に壊したくはない。
「――ま、そういうわけで今日は仕事の話をするつもりはないから、頼むな」
「筋金入りのワーカホリックだもんね、兄さんは。MSの話をすれば流れるようにユザールの話になるし」
「……言ってみれば趣味を仕事にしているようなものだからな」
「難儀な趣味だよね。好きなだけに」
顔を見合わせて、そうだなと肩を竦めあう。
MSは今でも好きだ。だがお互いの酸いような笑みの裏側には、決して称賛できないジェターク社が積み重ねてきた数々の重たくて濁った業が横たわっている。
その業を、ラウダは一緒に背負うと言ってくれた。自分達の代で、大きく変えていこうとも。
父さんに近かった古株の社員達からの反対の声はかなり根強かった。だが、この世界の歪んだ構造を目の当たりにし、経営者として当事者となってしまった今、見て見ぬ振りをしてその歪みに加担し続けることは俺には到底できない。
ジェターク社はまだ変革の真っ最中だ。今後も断行しなければならない事案を複数抱えている。
もし俺がCEOとして鉈を振るうべきタイミングで心が揺らぎ、迷い、躊躇いそうになったら、ラウダには隣で背中を押してほしい。他の誰にも代わりは務まらない。俺にとってラウダは、仕事のパートナーとしても唯一無二の存在だから。
支払いを終えた端末をフーディーのポケットに突っ込んで、ロッカーの前から再びコンコースの人波へ合流した。オートスロープに乗って、宇宙港を出てショッピングモール内へと移動する。無重力から低重力へ、低重力から1G環境へと徐々に体感が遷移していく。
「ところでラウダ、何が食べたい?」
隣でスロープのベルトを掴んでいるラウダに尋ねた。自分の端末を開いたラウダは、このモールのグルメガイドのページをしきりにスクロールしている。
「そうだな……一つだけじゃなくても?」
「勿論」
「じゃあ、ピザと、それからワッフルの後に、特大パフェを食べてもいいかな? 前にカミル達と一緒に来た時の果物とクリームとチョコレートたっぷりのやつ。生絞りのフルーツジュースも飲もう」
「お前が食べたいなら構わんが……暴飲暴食すると明日の検査に色々響きかねないんじゃないのか?」
俺の発言に、楽しそうにしていたラウダの双眸がすっと細められる。あくまで弟の体調を気にしての発言だったが、意図せず機嫌を損ねてしまったのだと悟る。
「…………兄さん」
いやにたっぷりと間を空けて、ラウダはまるで言い含めるように俺を呼んだ。視線にはじっとりと非難めいた感情が乗せられている。
「僕はその検査のために、これから10時間以上も絶食する必要があるんだよ。夕ご飯は軽く済ませるから、今だけは好きな物を好きなだけ食べさせてくれないか」
「分かった、分かったから」
ラウダの目と語気にはやけに力がこもっている。その必死さに思わず笑みがこぼれそうになるが、これ以上むくれられても困るので、軽く咳払いをしてこらえた。
最近はできるだけ控えるようにしているが、甘いものは俺も好きだ。学生の頃に何度かしたように、大きなパフェを頼んで二人でシェアしてつつくのも良いかもしれない。
とうに過ぎ去った幸福だったあの頃。弟とのぬるま湯のような心地良い関係に甘えて満足していられた日々。
俺は懐かしさと共に、二度と戻れない時間を生きていた過去の自分に、ある種の憧憬を覚える。