凍える指先 シャトルの窓際のシートに体を深く預けると、ラウダはできるだけゆっくりと、意識して細長く息を吐き出した。頭の中でざわついてリフレインする思考を追い出すように、そっとまぶたを閉じる。肺の中を空にするイメージを浮かべる。何も気体を含まずに閉じた肺を、時間をかけて、再び空気で満たして広げていく。
二回深呼吸を繰り返してから、静かにまぶたを開いた。胸の中心に手を当てる。
発作の前駆症状は、今のところ感じられない。
過呼吸のような発作に、ここ最近で三度襲われている。いずれも一人で行動している時に発症しているが、幸いなことに症状は重くない。呼吸のリズムを整えるよう気をつけていれば、息苦しさはものの数分で消えていく。
この症状が現れる条件をラウダはまだ特定できていない。だが一つだけ確定しているのは、シュバルゼッテに搭乗した後からこの症状が出るようになったということだ。
ミオリネがベネリットグループの解散を宣言してから二週間が経過した。
帰還したスレッタの惨状を目の当たりにした兄からは、仕事に忙殺される中でも毎日のように「お前も早く病院で検査を受けろ」と指摘されている。ラウダは思いつく限りのありとあらゆる理由をあげて、未だにその言葉をかわし続けていた。
なにしろデータストームを受けた患者の絶対数が少ないのだ。
重篤なデータストーム障害を負い自力で体を動かせないほど弱りきったスレッタは、元ベネリットグループ本社フロントの病院で治療を受けている。ミオリネの強い希望と、GUND技術に精通したベルメリア・ウィンストン博士の助力もあり、日々仔細な生体データを収集しているらしい。
21年前、生命倫理問題をクリアできないままオックス・アース社のガンダム・ルブリスは性急にロールアウトされたと聞く。その呪われた機体に搭乗し、データストーム障害を負った被害者達がいた。彼らの検査データや治療記録は、ヴァナディース機関の襲撃と共に闇に葬られ、世間には非公開となっている。
公開されていないデータは、科学的には存在しないのと同義である。
なればこそ、ラウダがデータストーム障害の検査を希望した場合、スレッタに並ぶ貴重な被検者――重症患者と軽症患者という絶好の比較対象として、ありとあらゆる生体データをサンプリングされるに違いなかった。最悪、モルモットとして入院という形の長期拘束を受ける可能性も否定できない。
そんなことをされては、また兄の側にいられなくなってしまう。それだけは避けねばならない。
未だ混乱の最中にあるこの時期に自分が抜けてしまっては、兄一人だけに――グエル・ジェターク一人だけに、全ての重荷を背負わせることになる。
兄は学園から出奔していた数カ月間、汗水を流して自活した経験がある。その経験があるが故に、社員それぞれの背後に広がる生活を高い解像度で想像してしまう。
融資元の強い要望であった子会社の統合にさえ難色を示して、期日通りに進められなかった兄のことだ。人員削減案として提示された数字を、ただの数字の羅列として見ることは到底できなかったはずだ。
グループが解散してしまい、ただでさえまとまった融資を受けることが難しくなった以上、今後のジェターク社は事業縮小を避けられない。希望退職者を募ったが、それに応じてくれた社員の数だけ、悲しみと後悔が生まれてしまった。長い時をかけてジェターク社が築き育て上げてきた人材と技術が、競合する他社に流出するきっかけになってしまった。
経営者として優しすぎる兄が、父との繋がりを失わないために守ろうとした会社は今、肉を削がれ骨すら抜かれる多大な痛みを伴う変革を迫られている。
身軽になる会社と反比例するように重くなる自責。それを抱えて尚進み続ける兄を支えられないのならば、自分の存在価値は無いに等しいとラウダは思う。
右手に握っていた端末を開き、ラウダは今夜の予定を再確認する。
一時間半後、自分と兄のスケジュールが重なっている時間帯がある。兄との食事の予定だ。ジェターク社の新しい本社を置く予定のフロントで兄と落ち合い、最寄りのレストランで軽く腹ごしらえをするつもりでいる。
今日、兄は朝からブリオン社のエラン・ケレスと共に、学園再建の融資を募るために行動している。向こうの交渉もそろそろ終わる頃合いだ。
この二週間、あちこちのフロントや地球を行き来していたため、兄とはすれ違うだけの日や顔を合わせる暇すらない日が続いていた。実家に帰って休む日もあれば、翌日早い時間帯からの交渉に備えてホテルに宿泊する日もあった。最後に兄弟二人で揃って同じ場所で休息をとったのは、もう一週間も前のことだ。
ラウダは一人で行動している日には、どうしても食事に対する意識が甘くなってしまう。移動に用いるシャトルの時間すら惜しい時は、パウチに入ったゼリー飲料だけで食事を済ますことも多い。今もバッグの中に二つのパウチを忍ばせている。兄にこの杜撰な食生活を知られたならば、間違いなくきつく叱られるだろうという確信があった。
ゼリー飲料に頼った食事をしているのには、もう一つ理由がある。最近になって、カトラリーやペンを持つ手が痺れたり、震えるようになった。爪の色も白さが増しており、指先に冷たさを覚えるようになった。手の感覚がない時は、パウチのキャップをひねる動きでさえ難儀してしまうが、突然カトラリーを握れなくなる不便に比べれば随分マシだった。
ただ、この食事が決して褒められたものではないと理解しているので、最低限一日に必要な栄養素を満たす物を摂取するように心がけている。だから決して栄養不足による身体の異常ではないというのが、ラウダの認識だった。
不意に端末が振動した。画面にメッセージがポップアップする。
『ラウダすまない』
『もうシャトルでフロントに向かっているよな?』
『今日の夕食、一緒にとれそうにない』
メッセージアプリに、次々と兄からの言葉が送られてくる。
『予定よりも交渉が長引いている』
『ケレスさんは手応えを感じているようだから、もう少しだけ粘らせてほしい』
端末を見ているうちに、ひんやりと、指先が冷えていく感覚が生まれる。その温度感自体が徐々に消えていき、じんわりとした痺れが残される。
瞬きを数回繰り返して、ラウダは唇の端を歪めた。握った端末を取り落とさないように、膝の上に置く。
指の先端から、第一関節、第二関節へと冷たさは広がっていく。やがて五指全てと掌半分ほどが麻痺した状態になった。両手を軽く振ってみて、張り付いたように残り続ける痺れに、長いため息を吐いた。
『本当にすまない』
『別日にまた予定を入れる』
『そろそろお前と直接会って話したいんだが』
兄の詫びる言葉を目で追いかけながら、仕方ないと諦観を抱く一方で、どこかで安堵している自分を自覚する。兄にこの症状を、この醜態を見せずに済むという安堵だ。
隠し事はせずに全て曝け出してほしい。そう兄に望んだ己のあまりの自分勝手さに嫌気がさしてくる。
『明後日はどうだ?』
『遅いが20時からならいけると思う』
痺れてままならない指先で返答をする代わりに、身を屈める。端末に顔を近づけて、小声で音声入力を開始する。
「明後日はまだ忙しいだろ」
「もう少し落ち着いてからにしよう」
「無理はしないでね」
『分かった』
『お前も無理はするなよ』
『あと少しでも時間があるなら早く検査を受けろ』
『心配だから』
兄の気遣いを素直に受け止められたら、どれだけ楽なことだろう。意地を張って兄の善意を踏みにじることに、この二週間で随分と慣れてしまった。
じっと見つめていた端末から顔を上げて、シャトルの窓の外に目を向けた。深い闇色の中に浮かぶ小さな星々の光と、窓に反射した鏡像の自分の瞳が重なり合っている。
ぼんやりと視線を彷徨わせているうちに、兄の瞳を彷彿とさせる青色の恒星の光を見つけた。一万℃以上の高温の星が放つ可視光は、何者にも汚されることのない澄んだ気高い色だ。なんとなく直視することが躊躇われて、思わず目を逸らしてしまった。
ラウダはまだ兄に伝えられずにいる。
四肢の先端である指先に、時折異様な痺れや震えが走って感覚が消えてしまうことを。
過呼吸のような症状は、呼吸中枢のある延髄へのデータストーム障害の可能性があることを。
今まで不調らしい不調に陥ることのなかった体に、不自然な貧血症状や目眩の症状が現れていることを。
そのうち、観念して自分の口から兄に伝える日が来るだろうか。それとも、自らの不手際によって兄に露見するのが先だろうか。どちらに転ぶのかは分からない。分からないが、できるだけ、一日でも先であってほしいと願う。
この後遺症は、シュバルゼッテに乗り、兄を一方的に非難し、心の傷を抉り、怨嗟に支配されて殺しかけた己に対する罪だ。罪であるならば、兄を害してしまっただけ、苦しめてしまっただけ、罰を受けるのが道理というものだろう。
後ろめたかったからか――。あの時、兄を斬りつけて断罪するためにぶつけた言葉が、今頃自分に返ってきたのかもしれない。
一度膝上に置いた端末を、ラウダは時間をかけて、ゆっくりと握りしめようとする。半開きのまま凍りついたように固まってしまった指先の感覚は、想像以上に遠い。