ダイニングテーブルに広げられた書類を机の角だけを空けるように中央へ寄せて、マグカップを二つ置く。ケトルから湯を注いでバスティーユが腰掛ける頃に、彼女は机にめり込んでいた頭を上げる。
「勝手に動かさないでよ」
バスティーユがいじったあたりの書類を掴んで今にも閉じそうな目の前でひらひらとさせた彼女はあくびをするとその書類も放ってしまって、マグカップへ手を伸ばす。
「徹夜か」
「パパだって昨日帰ってこなかったじゃない」
「きみには都合が良いんじゃなかったか」
「寝起きに小言を言われたら同じことよ」
彼女がマグへ息を吹く。インスタントの香りが巻き付くように漂う。バスティーユは机の上からいかにもそれらしい極秘の赤い印が押された紙を引き抜き、拾い読みした後、カモメのマークの横へ書かれた彼女の署名へ目を留める。
伸びやかな筆致は間違いなく彼女のものだが、インクが描く名前は彼女のものではない。
「きみにはきみの名前がある」
彼女の視線がカップの縁を滑る。
「わたしがママの名を名乗るのが気に入らないのね。……署名だけよ。『じゅにあ』で通ってるから」
「そうじゃないだら」
「何が違うのよ」
淡々とした彼女の口調がバスティーユの言葉を際立たせる。透明な板を一枚挟んだ温度。彼女はまだ湯気の立っているマグをあおり、立ち上がる。背に赤い髪が揺れている。
「男ならルイ、女ならマリー」
彼女は振り向きこそしなかったが立ち止まった。
「男にも女にも使える名前を考えれば良かったのに」
「ルイにするか?」
「マリーでいい」