無題高層ビルが犇めく極狭い地域の中で、人・物・カネ…あらゆるものが世界クラスで栄えている都市国家・儒來(ジュライ)。国内最大の教育・研究機関である国立大学に入学してから、ヴァッシュはもうすぐ三年目の夏を迎えようとしていた。
親代わりに面倒を見てくれたレムや僅かに覚えている両親の背中に影響され、必然的に生物学の道に進んだ。三年目からは個々でより具体的な課題を設定し、研究に取り組まなくてはいけない。
―――やりたいこと、
―――これからのこと、
―――将来のこと。
それらの言葉が頭の中に浮かんでは砂のようにサラサラと消えていった。ちょうど今吹いた心地よい夏の終わりの風が吹き消したように…。
深くため息をつくと、甘い香りが鼻腔を擽った。
『 ――――、―――――… 』
「おはよう、気持ちがいいね。」
ヴァッシュは口元に笑みを浮かべ、振り返って自分の背丈ほどに生い茂る淡いピンクの花にそっと声をかけた。
理系学生の一日は、講義室と研究室を常に行ったり来たり。折角郊外の家から出てきたというのに、ヴァッシュは街へ出たことが片手で数えるくらいしかなかった。それでも嫌な思いをせずにいられるのは、近代的な造りの校舎が建ち並ぶ敷地内でも、少し歩いた距離には必ず緑があるからだ。
これからの事は思い浮かばないが、毎日好きな植物や動物のことだけを考えて過ごせるこの学部に入ったことだけは間違いではない。それは強く確信していた。
「今日は随分花開いたな。」
朝の光が差す中、ヴァッシュと同じ身丈の影が近付いてきた。
「うん、一段と綺麗だよね。」
いつもと変わらぬ声、いつもと変わらぬ表情。生まれてからずっと隣にいる彼にも、ヴァッシュは同じように微笑む。
「一日限りの命だからな…」
そう言って彼は一輪の花に静かに触れた。
「だからいっぱい日の光を浴びようとしてる。」
静寂の中で花開く今の姿がいちばん素敵。ヘラりと笑いながらヴァッシュは彼の背中越しに呟いた。
「決まったのか?研究課題。」
振り返ったのは自分と同じ蒼碧の瞳。少しの冷たさを帯びたその視線に怯み、ヴァッシュは「うー…」と妙な唸り声を零した。
目の前にいる兄のナイは同じく生物学部に在学しているが、ヴァッシュと違って入学前から明確な目的を持ち、日々熱心に研究を続けている。
頭を垂れ、柔らかいブロンドを揺らす情けない弟の姿にため息をつくと、ナイはくるりと来た方へ身を返した。
「何でもいいから早く決めろ。レムが俺の方にまで電話してきてうるさい。」
「え⁈うそ⁈」
家を出てからも、レムは二人のことを気にかけてよく連絡をくれる。一年目は毎日かかってきた電話も、今では週に二、三回で落ち着いている。
それでもナイは鬱陶しいらしく、忙しいふりをして通話は専らヴァッシュに取らせている。
それなのに敢えてナイの元へ連絡がいくとは…。
「決まらないなら俺と一緒にしろ。」
「やだよ、部屋でずっとデータとにらめっこは俺には向かない。」
入学してから遺伝子研究に専念しているナイは、一日のうち授業以外のほとんどの時間を研究室で過ごしている。ヴァッシュも好奇心で授業を詰めているので、校舎と寮を行き来する毎日ではあるが、興味本位だけで出来る所業ではないと思う。
「レム、どれくらい連絡してきた?」
「一日に着信五件、メッセージとメール八件。」
「…返信した?」
「してない。」
「…。」
それでもヴァッシュ本人に連絡を寄越さなかったレムのことをヴァッシュは可哀そうだと思い、今日中に連絡を入れてやろうと思った。
ヴァッシュとナイは、生まれた時からずっと一緒にいる。幼い時はどこに行くにも手を繋いだり、同じベッドで寝たり、文字通り寄り添い合って過ごしていた。歳を重ねるごとに二人の距離は少しずつ開いていったが、今でも同じ空間で同じ時を過ごしていることに変わりは無い。
学生寮で寝起きする部屋、食事をする時間も一緒だし、示し合わせた訳でもないのに選択する授業もほぼ一緒だ。
午後の最終授業が終わり、ヴァッシュが両腕を大きく伸ばしていると、後方の座席にいるナイが声を掛けてきた。
「これから教授のところへ行くが、お前はどうする?」
教授というのは、この大学の名誉教授でもある遺伝子学者のウィリアム・コンラッド氏のことだ。ナイは来週に行われる学会に、氏の助手として同席することになっている。
ヴァッシュは視線を宙に泳がせ「うーん」と唸ると、閃いたように明るい表情で振り向いた。
「終わるまで隣のラボにいるよ。昨日の使った子たちに会ってくる。」
昨日はちょうど必修の遺伝学の授業があり、マウスを使った実験を行っていた。どうせ二人の話はすぐには終わらないだろうし、かといってその間にするべき用もない。こういう時、ヴァッシュは必ず彼らや彼女たちの元へ行くのが常だ。
授業終りであろう白衣の学生たちと入れ替わりに、実験器具で溢れるラボに入ったヴァッシュは壁際にある頑丈なアルミラックに直進した。そこにはいくつかのアクリルケージが並んでいて、二匹ずつマウスが入っていた。
どれも同じ毛色のマウスばかりなのに、ヴァッシュは迷うことなく昨日使ったゲージの前で止まった。
「やぁ、調子はどうだい?」
ゲージの中のマウスと視線を合わせるように屈み、ヴァッシュは優しく囁いた。するとケージの中で忙しなく動いていたマウスたちは、みるみるヴァッシュがいる方へ寄って来た。
キキと高い声で鳴くマウスの様子を嬉しそうに見つめ、やがてヴァッシュはマウスに触れるように、アクリルケージに触れた。
『 ――――― 』
そのまま瞼を閉じると、頭の中にハウリングが広がる。それは波紋のように幾重にも響く。
ヴァッシュはその感覚に神経を集中させた。言葉にならない響きだが、それは確かに彼らの意思をヴァッシュに伝えている。ヴァッシュと繋がるこの時を待っていたと言わんばかりに、ハウリングはなかなか止まず、ヴァッシュは眉尻を下げて笑った。
「いきなりこんなところに連れてきちゃってごめんね…。早くみんなと同じハウスに戻りたいよね?」
『 ――――、―――――――― 』
「今回はあと四日。」
『 ――― 』
「そうだね、君たちにとってはすごく長い時間かも。」
『 ――――――― 』
「え?そうなの?さすが…君たちの方が慣れてるなぁ。」
二匹のマウスが代わる代わる前に出てきては、ヴァッシュの顔を覗き込み、鼻をひくひく動かしたり後ろ脚だけで立ち上がったりしている。そんな彼らのきらきらした瞳を見つめながら、ヴァッシュは連鎖するハウリングにいつまでも耳を傾けていた。
「ヴァッシュ。」
どれくらいの時間が過ぎただろう。ヴァッシュはすっかりマウスたちとの会話に夢中になり、何故自分がこの部屋に来たのか忘れていた。突然耳に飛び込んできたナイの声で、心地よい響きはぴたりと消えた。
身動き一つ取らない弟の背中を見てナイは何かに気付き、ヴァッシュが着ている服の襟を思い切り引っぱった。不意をつかれ、ヴァッシュの喉からぐぇっと潰れた声が零れた。
「お前、いつからそうしている?」
「いつって…ナイが先生のところにいる間ずっと…」
その言葉でナイの眉間に深い皴が刻まれた。
「その間に何があったか分かっているか?部屋を出入りした人間は?校内放送は流れていたか?」
「え…っと…」
矢継ぎ早に繰り出されるナイの質問にヴァッシュは戸惑った。言われてみれば、部屋に来たときは二、三人白衣を着た研究生がいた気がするが、今この部屋にいるのは自分とナイの二人だけだ。慌てて時計を見ると、最終鈴が流れる時刻はとっくに過ぎている。
「人と違う自覚を持てといつも言っているだろ。自分で制御できないなら人前で力は使うな!」
狼狽える弟の姿に舌打ちして、ナイは声を荒げた。ヴァッシュは言葉を飲み込むようにして押し黙り、下を向いた。ナイの言うことはいつでも正しい。絞るようにして「ごめん」と一言だけ呟いた。
そんなヴァッシュには一瞥もくれず、ナイは踵を返すと荷物を持ってドアの方へ静かに歩いて行った。
「さっさと行くぞ。」
「待ってよ!」
背中越しに聞こえた声がいつものトーンに戻っている。ヴァッシュも自分の鞄を抱えてナイの後を追った。
寮までの帰り道は、ナイが少し前を歩き、ヴァッシュがそれを追いかける――その距離をずっと保って歩いた。陽はとっくに落ち、空は薄紫のグラデーションになっている。寮まで続く道にはポツポツと小さな街灯が灯っていた。
この学校の敷地内には四つの学生寮があり、男女ごとに別れた建物で生活している。二人は研究室まで歩いて五分の距離にある寮で暮らしている。全ての個室は二人一部屋のシェアルーム。食事やシャワーのスペースは大勢で共有できるように別で広い部屋が設けられている。
二人は寮に着くと、自室に向かう前に共有のキッチンに寄った。戻る時間が遅くなる時は、大体このルートで夕食を済ませてから自室に戻る。夕食と言っても何かを調理する訳ではない。ヴァッシュは熱湯を注いで三分で出来上がるインスタント・フード。ナイは戸棚のストックからいつも食べているカロリーバーを一箱取り出した。うっかりビデオ通話で食事シーンを見られた時には毎回レムに怒られるが、昼夜研究に明け暮れる学生の食生活なんてこんなものである。
「ナイはこの後どうする?」
「レポートを先に終わらせたい。」
「そっか。じゃあ先にシャワーしてこよ。」
カロリーバーを一本咥えたまま、ナイは鞄から一束の書類を取り出した。今日最終で受けた授業の課題のことを言っているようだが、いつの間にか資料を用意している。やるべき事にかけては抜かりがない。
ヴァッシュが容器の中身を口に運んでいる間も、黙々と資料を読み続けている。バーは咥えているが顎が動いておらず、咀嚼しているのか舐めているのか判然としない。
こういう時はさっさと自室に連れて行くのが正解だ。ヴァッシュは残りを一気にかき込み、空になった容器をゴミ箱に放った。そして今度はヴァッシュが少し前を歩き自室まで向かう。部屋のドアを開け、椅子を引き、机の前ですぐに作業が出来る状態まできちんとリードしてやる。が、ナイはその細かい気遣いに全く気付かない様子で資料のページを捲った。本人が気付いていないところまでがいつもの事なので、ヴァッシュも特に気にせず着替えとタオルを持って部屋を出た。
「お、ヴァッシュじゃん。」
戸を動かす音が二重に聞こえたと思うと、隣の部屋から声を掛けられた。見ると隣人の同級生・光(ルー)が同じくバスセットを持ち、部屋から出てきたところだった。
「風呂?これから?」
「うん。」
「俺も。ナイは?」
「課題のスイッチ入っちゃって…」
困り顔で笑うヴァッシュを見て、隣人もあぁとつられて笑った。
「静かだなって思ってたけど、いつ帰ってきたんだ?」
「ついさっき。」
「居残りか?」
「ううん。ナイが今度連れていってもらう学会のことを聞きに先生の所に行ってたんだ。」
「あぁ…コンラッド先生だっけ?寡黙な人ほど、自分の専門になるとダムのように喋るからなぁ。」
似た者同士とも言える無口な二人が話す様子を想像して、二人は声を潜めて笑った。
「で?ヴァッシュはその間何してたんだ?」
「昨日実験で使った子たちに会いに。」
「子たちって…ラットだっけ?」
「ううん、マウスだよ。」
言われても違いが分からない光は、ヴァッシュとナイのどちらも『物好き』だと肩を窄めた。
個室が並ぶシャワールームは時間帯のせいか少し混み合っていたが、ヴァッシュはタイミング良く空いた個室に待つことなく入ることが出来た。勢いよく出る熱めの湯が心地よく、全身洗い流した後もしばらく水滴に打たれる感触を味わっていた。
体から湯気が上がるほど温まり、思わずほぅと気持ちの良い溜息をつきながらヴァッシュは廊下に出た。見ると、光が壁に凭れてスマートフォンを弄っていた。どうやらヴァッシュが出てくるのを待ってくれていたようだ。ヴァッシュは声をかけ、二人で並んで来た道を戻る。この前一緒にやったゲームの話についてあれこれ話していると、ヴァッシュはふわりと何かの香りが漂うのに気付いた。
「ねぇ、君何かつけてる?」
気になって足を止めると、光もその場で立ち止まり、大袈裟に自身の腕や衣服をくんくんと嗅ぐ仕草を見せた。
「あれ?やっぱにおう?」
「うん。なんかいつもと違う…いい匂いがする。」
男子ばかりの学生寮で「におう」という言葉を慎重に発する光とは反対に、率直に満面の笑みで感想を述べるヴァッシュ。
「実は今日、卒業した先輩が遊びに来てさ…」
話しながら彼はポケットから小さな箱を取り出した。差し出されたプラスチック製の箱の中には、有色透明の固体が収められている。
小さな固体の中には、咲き乱れるように大小さまざまな花が詰め込まれていた。そのあまりの美しさにヴァッシュは目を輝かせ、わぁと感嘆の声を零した。
「自分がデザインした新作の石鹸のサンプルだってくれたんだ。見た目の割に香りは強くないって言われたけど、やっぱりにおっちゃうか?ちょっと手のひらで擦ったぐらいなんだけど…」
ヴァッシュの興味はすっかり石鹸に惹かれていて、箱を持つ彼の手に鼻を近付け香りを嗅いだ。
「光は身振り手振りが多いからかな?なんか気になっちゃって。…ちょっと甘いけど柑橘みたいな香りもする…。僕は好きだよ、この香り。」
ヴァッシュの視線は掌の美しい固体にすっかり釘付けだ。
「そんなに好きならやるよ。」
そんな姿に思わず吹き出してしまった光は、彼に箱を差し出した。それを受けて、ヴァッシュは石鹸の中にある花と同じくらいパッと花開いた笑顔を見せた。
「いいの?」
「使い道に困っていたから。貰ってくれると嬉しい。」
眉を下げ本当に困った顔をする彼を見て、ヴァッシュは大切にするよと喜んでそれを受け取った。
「そろそろ電気消すぞ。」
部屋に戻って来てから、ヴァッシュは自分のベッドの上で貰った石鹸をいろいろな角度から見たり、鼻に近づけて匂いを嗅いでみたり、両の手の中で転がすことに夢中になっていた。戻ってきた時には画面にのめり込んでいたナイが、ロフトの柵越しに自分を覗き込んでいたことにも気付かないくらい夢中になっていた。
体を捻って壁の時計を見ると、間もなく日付が変わる時間になっている。
「レポートもう終わった?」
自分にも課されている課題だが、まだ何の資料もなく締切もだいぶ先なので、ヴァッシュは休日にまとめて片付けようと思っている。ところが、ナイはそれを帰ってから今の時間までに終わらせてしまったと素っ気なく応えた。
「今度の学会の研究テーマと被っていたからな。」
「それでもさすがの集中力だよ、おつかれ。」
ヴァッシュは微笑んで素直に労いの言葉をかけた。
「どうしたんだ?それ。」
ヴァッシュの笑顔から視線を逸らしたナイは、彼の手の中にある固体に気が付いた。
「隣の光がくれたんだ。綺麗だろ?」
ナイは差し出された固体をじっと見つめ、僅かに眉を動かした。
「元の彼女たちは、もっと美しかったんだろうな。」
兄の表情の変化に気付き、ヴァッシュはそう言って大事そうに石鹸を両手で包み、自分と同じ碧い瞳に笑いかけた。
「…心配ないよ、ナイ。僕らの力でできることがきっとある。」
解けるような笑顔につられてふっと目を細めたナイは、背を向け照明のスイッチがある方へ向かった。
「お前こそ…。余計な心配をする前に、自分の事を心配しろ。」
灯りの消えた中で、下のベッドにナイが入る気配を感じ、ヴァッシュは掌の中の小さな固体をそっと撫でた。