なんとかに星落ちて ベトナム料理を食べに行くぞと意気込んでいた、小田島の背中が、仁川の見つめる先で、少しだけ小さくなった。元から仁川に比べれば薄くて細くて、小さいにしても。
「う~ん?」
小田島有剣は店前の看板を屈んで覗き込み、唸った。
暑さ寒さどちらともつかない、晴れの日だった。
小田島はだらしなさと格好付けの狭間にあるような、タンクトップインナーの上に透けの多い上着を掛けて、体の線の曖昧になるようなだぼついたトラウザーズを合わせた格好で、仁川の前へ現れた。履き込んだ蛍光色のスニーカーの影が、駅改札前のつやつやした床によく反射していた。小田島有剣の衣服の取り合わせ方は、学び舎にいるときでもその外でも、大きくは違わないのが常で、靴だけがすこしだけ変わっている。
かくいう仁川自身も、己の出で立ちが校内にあるときの格好から制服を抜いて、似たような形の私服に取り替えただけのものであることくらいは分かっている。坊主頭たちならともかく、幹部連中のファッションセンスは、制服の着こなしを観ればたやすく想像のつくものだと決まっていた。
昼前に二人で落ち合って、川沿いの住宅街をほとほとと歩いてここまで来た。小田島は三日も前から「うまいベトナム料理食わせてやる」と意気込んでいて、仁川はその意気込みの的としてここまで連れてこられていた。
「んん~」
華やかなチョーク書きのメニュー看板のそばの通気口から、なんとも言い難い華々しい飲食物の香気が漂っている。小田島は唇を尖らせ、顎に指を添えて二、三度唸ってから、傍らの仁川を見上げた。
「どう見てもタイ料理なんだけども」
仁川は店の出入り口上に掲げられた、店名を記した大看板を横目に確かめつつ、「俺の目にもこりゃ、タイ料理屋だな」と応えた。大看板にもはっきりと「タイ料理」と書いてある。
「ベトナム…………あれ? ベトナムだったと思うんだけどお?」
小田島がしばらく来ないうちに、店の中身だけがそっくり変わってしまったものらしい。いつまでも店前に佇むばかりの二人に向かって、店のガラス扉の向こうから、黒いティーシャツに前掛けをした店員らしき人影が「いらっしゃい」と言う。
「俺は構わねえが」
言うと、小田島は肩越しに厳しい目つきをして、仁川を振り返った。
「俺はベトナム料理を……! ……でも、ま、いいかあ」
また白金のハーフアップが揺れ、小田島は余った袖を振り回しながら歩き出し、元ベトナム料理屋・現タイ料理屋のガラス扉を開けた。再びの「いらっしゃい」が響き、二人をプラスチックの大きな丸テーブルに誘う。青いテーブルの上には油染みの見える大判の緑のクロスがひかれていた。その中央に金属製のメニュー立てがあり、脇にいくつかの調味料の瓶と、伝票入れが鎮座している。小田島は店の入り口により近い方の椅子を引き、奥に仁川を座らせた。
屋内店舗だが、内装は全体的に露天をイメージした造りと伺えた。
出入り口から見て一番奥に厨房があり、フロアには仁川らが通されたような、プラスチックの大きな丸テーブルがランダムに生えている。店内照明はやや薄暗く、天井のスピーカーから、仁川には理解はおろか聞き取りも出来ないような異国語の歌詞を盛り込んだ、情緒的な歌曲が響いている。
小田島はテーブルにひとつしかないメニューをざっと手に取ると、「じゃあこれとこれと、これとこれ」と一人でメニュー写真を指差ししながら呟いた。それからメニューをぐっと仁川に押しやって「ソムタムとガオラオとオースワンとトートマンプラーは俺たのむから、仁川はそれ以外で」と言った。その突然の傍若さを受けた仁川は、写真付きメニューをよく睨み、カタカナの羅列をかみ砕くように読み込んで、どうにか物を選んだ。
「ソムタムとガオラオとオースワンとトートマンプラー、と」
先に小田島が早口に言い、次に仁川が続いた。
「カオソーイとガイヤーンを二人前とあと米」
「で、おねがいしゃーす」
小田島のけらけらした声が弾ける。
黒いティーシャツの店員は、手元の伝票に記号のような字を書き殴りながら「かしこまりあした」と返事をして、厨房に素早く消えていった。
小田島はテーブルに肘をついて手のひらで片頬を支え、によ、と笑った。仁川がつっかえながらも馴染みのない料理名を読み上げ、注文を完遂させたことがそうまでおもしろいだろうかと思う。面白いのだろう。
「水飲め」
によによ笑いを引っ込めないでいる小田島に向かって水入りのコップを押し出し、仁川は油っぽい匂いと香辛料の香りで満ちた店内をぐるりと見回した。全体に活気があり、しかし客の数は多いと言うほどでもない。
特別に目を引くものもなく、顔をまた正面に戻すと、小田島はまだ変に笑っていた。手の中に、汗をかいたコップを握りしめている。あいも変わらず移り気な上にはまりやすい男だ、と思った。
昨日までの小田島有剣であれば、「仁川がタイ料理屋で注文に苦慮していた」程度のことで楽しげにすることは無かっただろうし、明日の小田島有剣もそうだろうと仁川は思った。けれど今この時だけは、これ以上に楽しいことはありはすまい、という素振りをして、しかもそれが他者の想像よりずっと長く続く。小田島有剣とはそういうものだった。
上下左右、どういう風にも揺れて乱れる背高き草のようで、つかみ所の全くないように見えて、しかし揺れ方は野放図でもその拍自体は一定なのだった。仁川はこの揺れ乱れる草たる小田島の拍を掴むのに、それなりの時間を支払った。
小田島は自分の気に入ったものに、自分自身を「掴ませ」ようとするからだった。こういう人間が、こういう生き物がお前を興味と関心の的としているのだぞと、理解させようと企み、その企みがうまく行かなければ、その者を自分のお気に入りのリストから外して、知らぬ顔でどこかへ消えてしまう。仁川はすでに小田島を好もしい友人かつ仲間内の一人に数えていたし、小田島相手に感じられる、特有の情というものの用意さえあったために、小田島から「さあ掴んでみろ」と態度をひけらかされて、後に引くわけもなかった。
「おまたせしゃした!」
小田島の目の前に大皿入りのサラダが届いた。水を一口あおり、「きたきた」とうそぶく。聞くと、ソムタムというのはパパイヤの青いものをサラダに仕立てたものらしい。
小田島は早速、白く薄いような歯を見せながら、青パパイヤのサラダをさかさか咀嚼し始めた。
サラダが届いたのを皮切りに、次から次へと料理が運ばれてくる。テーブルに並んで仕舞えばもはや、どの料理をどちらが頼んだのかは曖昧になった。それぞれ小皿を握りしめ、ほしいものをほしいだけ大皿からとりわけて、胃の腑の落とし込むようになった。どの料理も仁川に馴染みのない味ばかりだが、綜合して美味いと叫んで差し支えなさそうだった。
「じんかわ」
小田島が向かいから、不明瞭な声を出した。
「おう」
仁川は手をとめ、目を上げた。小田島は両頬を膨らませながら、右手にフォークを握りしめ、その先端を天井へ向けた。
「じんかわはさ、」
「食い終わってから話せ」
小田島はぐっと両眉を上げ、咀嚼のスピードを早め、それから再び口を開いた。
「俺に好かれてて、どうよ? どんな気分?」
言葉の終わりに、小田島は、に、と歯を見せて笑った。
突拍子のないことを言うのが小田島ではあるな、と仁川は思った。その次に、これを探り出すためにベトナム料理を思いついたのかと。
しかし突拍子がなくとも、無根拠な物言いを小田島は選ばない。すでに互いの間に、それなりかつ、それらしい情や好意や信頼などと名付けるのにうってつけな感触がたっぷり横たわっているのを分かっていて、その上、それを疑ってもいないくせに、ただ「確かめる」という行為自体を必要と思って、小田島はこうしている。
仁川は己の見立てはそう間違いでもあるまいと、自信があった。
「仁川」
小田島が、毛繕いを終えた猫のような満足げな顔をして、仁川を急かした。
「好かれたままにしとくか、と思ってる」
仁川は自分の声を妙に低いように感じながら、言い切った。
「へえ~」
背もたれのない椅子の上で、小田島の上体が後ろに傾ぐ。仁川は箸を取り直し、目の前の皿からさつま揚げに似た食べ物を口に放り込み、奥歯ですり潰した。
「俺を好いてはくんないわけ?」
小田島が言う。
「分かってんのに、言わせたいんだよなお前は」
「そーだよ」
ぐんなりと後ろに反った姿勢を戻し、小田島はフォークを手に取って、丼に残っていた麺を掬った。唇の向こうにくにゃくにゃになった麺が消えていった。
「あるだろ好意くらい、とっくに」
「どのくらい?」
「山のようにと言えば満足か? 海のようにとでも言ったら相応か?」
「そんなに?」
「そうだよ」
仁川が言うと、ぱたん、と小田島の握っていたフォークがテーブルを力なく叩き、小田島は薄い色の眼鏡の奥で二つの目を丸く開いて、次に細めた。仁川は顔を小田島に向けたまま、そばを通りかかった店員を呼び止め、シャーベットを二つ頼んだ。
「じんかわあ……」
「おう」
仁川の返事を聞いた小田島が、開きかけた口をつぐんだので、仁川も何も言わずにおくことにした。
「………」
「………」
パンの発酵を逐一見届けているような、緩慢な時間があった。
彼は何か言うだろうか。小田島は、仁川が見事に自分がこしらえたシチュエーションに囚われて、胸の底から心を掬って曝け出したことについて、何か言いたくなるだろうか。それとも、目的はすっかり達したと思って、あとは食事の時を楽しんでおしまいにしようと、それこそ猫のような身ごなしで全てをつつがなく済ませて、家路に着くだろうか。
仁川の想像をよそに、小田島は徐に身を起こすと、両手をテーブルの上に揃え、手元のフォークを脇に押しやってから、仁川の左手目掛けて、右手を差し伸べてきた。
荒事を嗜む人間の指は生れの形を無視して、みな似たような佇まいになる。他者を殴ったり、掴んだりするのに丁度良くなった小田島の指がゆったりと蠢き、使い込まれたテーブルクロスの上を這った。そうしてたどり着いた先の仁川の荒っぽい手の甲を撫で、次に勢いよく叩いた。
ばちん、と威勢の良い音が、テーブルの上を転げた。
すこし上から窺う限り、小田島の顔に特別な表情というものは見受けられなかった。どんな考えを起こして仁川を攻撃したのかを、当人さえ把握していないような顔とも思えた。
小田島はしばし、仁川の手の上に、自分の手のひらをおいたままにした。その様は手を重ねあうと形容するよりも、乾いた砂地の心地を味わっているとでも言ったほうが、実際に近いかもしれなかった。小田島は仁川から見て予測のつかない生き物で、この仕草さえ、小田島がやる限りにおいてはむしろ、いたって普遍的なものと受け止めることもできた。これが小田島なりの好意の身振りだと受け止めたければ、そうすることができたし、現に仁川は、今ここでそれを選んだ。
「…………」
もしくは、もしも自分が石造りの像で、小田島が蔦植物のそれであったのなら。仁川の脳内に暑苦しい雨林とそのさなかにうち捨てられた、古めかしい文明の遺跡の様子が浮かび上がった。家を出る前、数時間前に観た海外製のドキュメンタリーの映像ほぼそのままが、空想の形をとった。
セスナかドローンが雨林の木々の頭を自身の影で舐めていく。飛行物を操る調査員の目当ては、数百の時を経て新たに見出された歴史遺物群だった。大きな障害もなく進んで行く飛行物体、雨林の傘の下に倒れ隠れる石像、そこに執拗に絡む、細く力強い蔦の群、石の割れ目にまで入り込んだ蔦類は我が物顔であちこちに緑の葉を付けている。
小田島有剣が「植物っぽい」ように見えたことは一度も無かった。その手の表現は沢村にこそ似合いそうだ。沢村は静かだが旺盛で、激しく、肝が据わっている。そういうところが動物よりも植物に似合いそうに見える。
しかしそれでも、いまの小田島の振るまいは少しばかり、石像に絡む蔦の佇まいに似ていた。自分自身を大それた石像と同一視するのは気恥ずかしいが、連想を断ち切るのも難しかった。仁川は自分の頭脳がかなり素直に出来ていて、影響されやすい節のあることをきちんとわきまえている。
しばし沈黙を楽しんでから、小田島は機敏に手を仁川の元から引っ込め、かけていた色つき眼鏡を顔から取り払った、そうして汚れてもいないレンズに息を吹きかけながら「やだねえ、やだやだ」と言った。
「素直になりすぎても小っ恥ずかしくって、やだね」
店内音楽が湿った感触のジャズにかわった。陰気なピアノの音が二、三個続いたあとに太い管楽器の音が被さる。店の面構えにはあまり似つかわしく感じられない選曲だった。
仁川の目が天井のスピーカーに向いたのを見たのか、小田島は調子を変えて「なんとかに星落ちて~みたいなタイトルのやつだ」と言う。その声はあっけらかんとして、調子よくうわずっていた。
「こないだサ店に行った時にこれかかってて、あいつがなんか言ってた」
小田島は晴れ晴れして笑う。
「志田か」
「そーそ。詳しいわけでもねえらしいけど、俺よかは知ってっかんね、この手の知識? つうの?」
折良く、テーブルに仁川が勝手に頼んだシャーベットが届く。事前に味などをろくに確かめなかったが、きっとそう悪いものでもないだろう。小さくて可愛げのある器から乳白色のシャーベットを救い、舐めるついでに「で、どうだ」と問う。
「どう?」
「俺には詳らかにさせておいて、お前はどうなんだ」
仁川にしてみれば、人の好意を有様をわざわざ表明させておいて、自分の方は埒外というのは、そちらから殴りかかってきておいて「ケンカはしたくない」と言い張るようなものと思われた。
「…………」
今度の小田島は、上から窺って見てもはっきりと顰め面だった。小田島はシャーベットをかき込みながら「ああ、今、酒が飲めたらどんなに良いかしらん」とぼやいた。ケーキの上の蝋燭の火を吹き消そうか、どうしようか躊躇うような息のつきかたをして、そう言ったのだった。
聞くところによると、例のジャズはランチタイムの終わりを告げる役目を負っているものだったらしい。街の片隅のタイ料理屋が昼飯時を過ごした後には、ジャズの音色が星になって落ちるのだ。それもチェンマイではなく、アラバマに。