これでおしまい 殴った、当たった、がつん。それでドラルクの死体がひとつできた。
夜更けの浜辺は涼やかだった。ロナルドは顔を横向けて、己の隣にいたはずの吸血鬼へ向かって突き出した腕を、そっと縮めて、あぐらに組んだ脚の上に置いた。
ドラルクの体の向こうに、バスケットが見えた。赤と白の格子模様のきれで口を覆ってある。そこには先刻までは夜食が、いまは睡魔に身を委ねたアルマジロが詰まっていた。夜風が、赤白のきれをはためかせていた。
波音と風音のほかには、音も動きもなかった。右を向くロナルドの左手に、海原がうねるほかにはなにもなかった。
ドラルクを殺した。ドラルクがひとを脅かすようなことを言ったのが、引き鉄だった。
びゅうびゅうと風が吹く。
ふと、そうだ、死んだドラルクを風から避けてやって、浜辺の砂地と混ざらぬようにしてやらないと、と気づいて、腰が浮いた。ドラルクの死体はロナルドの傍に、座った姿勢を横に倒してだらりと、波打ち際の砂の色の濃淡のあわいに、寝そべってそのままあった。
吸血鬼の首はいやな向きに捻れて、顔の正面が砂の畝に半ば埋もれていた。
そこに、波がかかる。吸血鬼の体は余計に崩れて、潮に絡まっていく。
潮が引くたび、波打ち際に倒れたドラルクの体に白波がぞろぞろ手を伸ばして、暗い水の中に誘い込んでいくのを、ロナルドの右手は引き止めようとした。
吸血鬼の右の足首に指を絡めた。あんまり力を込めたら、砂の彫像のようにたちまちにこの痩躯が崩れだすのではあるまいかと、加減に迷った。ロナルドの迷いをよそに、ずるり、ずうるり、と水の暗さがドラルクの体を包んで、砂地から少しずつ引き離していった。
ロナルドはしっかと立ち上がった。攫われかけのドラルクの死体を追って、浅瀬へ入っていった。
ロナルドの膝下がみっしり濡れて冷たくなるまでに、ドラルクの死体から靴が離れ、常にない「おめかし」のための装身具が、ひとつ、ふたつと離れてかすかに光って消えた。ドラルクの足首を握ったままのロナルドの指の間に、冷えた水が染み込んでぬるりぬるりと滑った。海の大口が吸血鬼をまるごと飲みたがる力に、ロナルドは抗いきれないでいた。
「随分と骨の折れそうなことだ。手を貸すかい?」
「ああ、…………」
ロナルドの左後ろから声があった。振り返りみると、そこにはドラルクがいて、ロナルドが浅瀬で四苦八苦するのを半分は愉快そうに、半分は気遣わしげに見つめている。濃藍色の夜の空の下で、ドラルクの青じみた肌は光を帯びたようだった。
マントの内から手を出して、ドラルクが言った。
「手を、貸そうか?」
「……いい」
ロナルドは目を正面に移した。波間にうつ伏せてちゃぷりちゃぷりと揺らいでいる、ドラルクの死体を見つめた。ロナルドが殺した体だった。死の直前まで吸血鬼ドラルクとしてあったものだった。これこそがドラルクの筈だった。
「私が手を貸したら、その膠着もたちまち大回復だが、本当にいいのかね」
ロナルドの後ろから真横までさらりと移動したドラルクが、ロナルドの右手に指をかけた。
引き剥がされるかと遅れ、身を捩って吸血鬼の指を振り解いた。真横のドラルクは、はあ、と息をついて手を引っ込め、数歩下がって波打ち際へ戻った。目で追ったその足取りに、水気を受けた様子はちらともなかった。ロナルドの膝下はたっぷり濡れて痺れるように冷えていた。
早くその死骸を手放しなさいよ、と波打ち際のドラルクが言った。ロナルドは浅瀬に余計に歩を進めて、ドラルクの抜け殻を握りしめ続けた。うつ伏せの抜け殻は海中に細長くたなびいて、いよいよ引き潮に導かれて、遠く離れようとしていた。それはもう私じゃないんだよ、ちゃんとお別れしておくれったら、と真新しいドラルクが言った。
「いつものことじゃないか」
吸血鬼の一言ずつの間に、波と波の擦れる音が入り込んだ。
「君は殺して、私は死んで、蘇り、君の前にまたドラルクとして現れ、君の生活はつつがなく織られていくんだ。たまに死体が残ったからって、常にないことをしなくたって構わないじゃない。……夜の海なんかあんまり長く浸かるものでもないよ」
ロナルドは背中で応えた。
「てめーはいつもいつも、俺が殺すより先にお前が勝手に死んでんだろうが……でもこいつは本当に俺が殺したドラルクだ」
本当に手が当たったのだから、そのはずだ。
「何か違うのか、それ?」
ドラルクはロナルドの返事も待たずにけたけた笑って、「そんなに死骸の私が可愛いかね。自分ではっきり殺したと思える体こそ可愛いかね? 目の前で蘇ったのでなければ、他のドラルクをドラルクそのものとは思い込めないかね?」と言った。
「しょうがないなあ」
ロナルドの手元に大きな影が落ちた。仰ぎ見た先に、山のように大きく身を膨らませたドラルクがいた。背は天をつくほどあり、身幅は小山のようにあった。それでも長身痩躯に変わりはなかった。
ドラルクは身をかがめて広い掌を浅瀬に浸けて、ドラルクの死体を掬い取ると、唇で触れて、塩水ごと啜り込んだ。
「ふふ」
薄い唇が笑みを湛えた拍子に、白い牙がその隙間からこぼれた。吸血鬼の赤を帯びた目元がぐんにゃり歪んだ。
「これでおしまい」
「…………」
「君のかわいいドラルクは私が食べちゃったよ。さあ、帰ろう」
ドラルクは指先でロナルドをつまみ上げ、浅瀬の水の中から砂地の平らへ移した。
ロナルドが渋々、靴をひっくり返して水を捨てている間に、ドラルクは常の背丈に戻って、ジョン入りのバスケットを抱えてくる。そうして懐から小さな紙切れを取り出して「最終のバスまで少し余裕があるな」と言った。
「あそこに二十四時間スーパーがある。衣料品コーナーを見て、あれば君のズボンと靴下の替えを買おう」
ドラルクはするするとロナルドを追い抜き、先を歩いた。傾斜を上り、コンクリートの階段を上がって、車道のへりに立ってロナルドを待ち構えた。
ロナルドは一度後ろを振り返って、夜の浅瀬を眺め、そこにドラルクの死体があれば、と思ったが、なかった。