のうのうと眠っていればいい それが一体何であるのか、カラカラはよくよく理解したというわけではなかったが、なにとなく、自分と全く無関係にも思われず、思いついて手のひらで触れて、揺すってみた。
床に蟠った、布の塊のようなもの。
カラカラの寝所の前を通る、長い回廊の中央にそれはあった。部屋から出たら、もうそこにあった。カラカラの腕では抱えるのに苦労しそうな大きさの、布の包みに見えた。
白い布の塊だった。布は上等な作りで、見覚えすらあった。カラカラは皇帝の息子であるから、そういうものを見慣れている。カラカラの目に親しみのないものは全て、取るに足らない、値打ちの低いものと決まっていた。
カラカラは近づき、腰を屈めてそれに触れてみた。なんだかほのかに温かく、布の重なりの奥に、ぐんにゃりした手応えがある。犬か何かでも入っているような触り心地だが、塊はゆすられてワンと鳴くわけでもない。
外へと目をやった。回廊の壁のすぐ後ろはもう外だった。壁がアーチ状にくり抜かれて、中庭に繋がっている。外は晴れている。天井側に開けられた窓辺から、若々しい陽の光が差し込んで、床まで照らしている。
誰もいない。回廊のどこにも、外にも。
カラカラは今度は床に膝をついて、一度目より大袈裟に、遠慮なしに包みをゆすり、「おい」と声をかけさえした。
「おい、ここがどこだか分かっているのか」
カラカラの頭には、この不審な塊の中身はきっと生き物ではあるまいかという考えが、はっきりと輝いていた。そうに違いない。どこから入ってきて、どうしてここにいるのだろう。ここは勝手の許される場所ではないのだと、従わせなければならない。
生き物なら、言葉を聞くだろう。犬や馬だって、人と同じ言葉を話すことはないにしろ、命令されれば従うものだ。この塊の中身がなんであろうと、ローマの地に息づく生き物である限り、皇帝の血筋の言葉を聞くのは当然のことだと、カラカラは思った。
「おい、おい!」
布の塊はしばらく、何の反応も返さなかった。カラカラは我慢のきく子供ではなかったし、将来、長じてからも忍耐などという愚鈍の言い換えを自慢げに掲げる大人になる気もなかった。早々に業を煮やして、幾重にも巻きつけられてぐしゃぐしゃと層になった布の端を、当てずっぽうに握り掴んで、立ち上がった。
布の重なりが一部ほどけて、ぱらりとなった。カラカラは得意になって布をたぐりにたぐって、どんどんと重なりを解いた。手繰った布ははじめは腕の中に抱えていたが、すぐに邪魔になって、手繰るそばから背後へと放り投げた。
日が少しずつ高さを増して、回廊全体を照らし出していた。気温はあがり、カラカラは汗をかいた。
塊の体積はぐんぐん減って、ついに中身が出た。手応えが失せて、カラカラは後ろへたたらを踏んだ。ごとり、と重たいものが床に触れる音がした。
「……ゲタ」
それは弟だった。十重二十重の布包みになっていたのは、カラカラの弟──本当にそうなのか、カラカラは知らないが、周りがそのように取り扱いたがるのもあって、そのようにしている。なにしろ、同じ時に母の胎に宿って、同じ時に母の腹から取り出された双子で、どちらが上だとか下だとかは、カラカラには実際を確かめようがないのだ──は、ぐったりと目を閉じて、石造りの床の上で小さくなっている。腕と足とを胸の前へ引きよせ、たたみ縮め、背を丸めている。右の頬を下にして、丸く横たわっていた。
「ゲタ」
カラカラは弟の額を、爪先でつん、と蹴った。カラカラと揃いの橙の髪が乱れ、白く細い首がぐらぐら揺れて、後ろへ反れた。カラカラの側から、弟の喉がよく見えるようになったので、カラカラは今度はその喉へ爪先を押し込んだ。柔らかく、しかし骨の硬さもある。子猫を踏んでみようと試した時と、その感触は似ていた。
「ゲタ!」
どん、と今度は胸先を蹴った。するとゲタの白い瞼がびくびくして、そのうちに瞼の下からゲタの瞳が現れた。ゲタは茫洋とカラカラを目で見上げ、ゆっくりと起き上がった。纏っている衣の裾がずれ、襟の位置もずれた。
「父上だな」
カラカラは決まりきったことを言った。ゲタの鎖骨の下だとか、腕だとかには青々した痣がいくつもあった。父親が弟を折檻したと、カラカラは正しく理解した。
ゲタはとうとう立ち上がり、一度ふらついて、苛々とかぶりを振った。太ももに、棒で叩かれた痕が残って、皮膚がいくらか裂けている。
「そうではないと言ったら?」
ゲタは、自分の腿の傷に手のひらをあて、ゆっくりとなぞった。
「まさか。父上でなくて、私たちにこんな真似ができるものか」
「『私たち』?」
ゲタが言った。カラカラより少し高い位置から、目を細めて。
近頃、体格に差がついてきたと、カラカラは憎たらしく思った。ゲタはカラカラを体の作りで上回ろうとしていた。昔は、もっといろんなところが同じだったのに、今でははっきりとゲタの方が背は高いし、顔立ちも体つきも、目つきも頬骨の高さも、鼻梁の影さえ、分たれつつあった。
「兄上は眠っていたじゃないか。私は朝日も見ないうちから父上の膝にいたんだ」
ゲタの声は疲れ切って平坦だった。話すうちに、鼻から血が垂れてきて、ゲタはまた苛々とかぶりをふり、鼻の下を乱暴に拭った。
父、セプティミウスは勇ましいものを好んだ。政も、まず武力で全てを平らかにする手法を好んだ。そんな父は、カラカラら兄弟を己の後継者に一等相応しく仕立てようとする。他に手段を知らないのかもしれない。とにかく、我が子を刃物を鍛えるかのような方法でしか、育てようとしない。父の膝にいたというのは、ゲタが軍人皇帝たる父に抱き上げられて慕わしく取り扱われたことを意味しない。
それはゲタが、父の寝屋に引っ張り込まれて、出来もしない教練の真似事をさせられた後で、出来が悪いと罵られ、叩かれ、殴られ、蹴倒されたことをこそ、意味した。
「兄上はのうのうと眠っていればいい」
ゲタは手についた血を、衣の胸に押し付けた。
カラカラはしようもなく苛立ち、怒って弟の脛を蹴り付けた。力いっぱいの仕業だったが、見たところ、大した傷にはなっていない。そのことにまた怒りを増して、さらに蹴り付ける。
「私に指図するな! 簒奪者!」
カラカラは言った。
「お前は私から奪う! あれもこれもと奪い尽くす!」
がり、と足の爪の先が、ゲタの皮膚を痛め付けた。薄皮が破れ、血が滲み、傷の周囲には細かな血管が傷付いてできる、ふつふつした斑点が浮かんだ。
「父上がお前に与えるものを、私はお前から取り返さないでは気が済まないぞ」
「兄上」
弟の言葉は聞かないことにした。盗賊の言い分を聞き入れる者はいないのだから、当然だった。
カラカラはゲタを大それた盗人のように思った。ゲタが誰かから与えられるものは全て、自分にこそ与えられるべきものを、ゲタが盗み取ったように感じていた。
弟へ貢物があれば、それは己の正当な取り分が不当な再分配を受けたものと感じたし、弟へ賛辞があれば、それは宛先を書き換えられたものと感じた。
父がゲタを激しく、厳しく痛めつける時、それは真実、カラカラが征服すべき困難をゲタがその誉と共に掠め取った結果ゆえだと信じた。ゲタが手にして、カラカラの手にはないものについて、一片たりとも許せなかった。
ゲタはしばらく、兄カラカラの攻撃に甘んじていたが、ちょうど中庭の上空を雲がよぎって、あたりに薄暗い影がふっと差し込んだのを合図にして、カラカラの振り回す手足を避けた。
振り上げた拳を空振りにされて、カラカラは顔を熱くした。
ゲタは壁にもたれて、「父上は日が登ってやっと私を放り出した」とか「寝所に帰る途中で眠たくなって仕方なく、そこらで眠ってしまおうと思った」とか、カラカラが聞きもしないことを掠れた声で言った後、座り込んでまた動かなくなった。
「…………」
手足を縮めていると、弟はカラカラよりうんと小さく見えた。まるで今よりもずっと子供の頃のようだと思った。カラカラの都合の良い脳は、以前の弟を自分より小柄で、頼りなく、不甲斐ない生き物であったかのように演出して、悪びれなかった。
ゲタは膝を抱き、膝頭に額を押し付けていた。その背中に、十分に登りきって黄みを帯びた陽光が降り注いでいた。
カラカラは寝所へとって返し、水差しを持って戻った。ゲタの頭上に、水差しの中身を勢いよく注いでやる。橙の髪がしんなりと水気をおび、額やら頬やらから回った水が、ゲタの膝から足をつたって落ちていった。鼻の血が混ざったと見えて、その水の筋は薄紅色をしていた。
それからカラカラは、食べさしだった果実の皿をまたも寝所から引っ張り出してきて、ゲタの足元へ置いた。
弟の隣に座って、果物皿から適当に一つとった。昨晩のうちに支度させて持て余していた果実だった。水気を失った果皮が皺を備えて、ぶよぶよと気味悪く変わっている。
「西の方で採れたと言っていた」
カラカラは思い切って、果実を口に含んだ。ゲタは顔も上げず、何も言わなかったが、カラカラは自分の機嫌がすっかりよくなっていることに気づいていた。