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    フカフカ

    うさぎの絵と、たまに文章を書くフカフカ

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    K2 一人先生と和久井くん/うさしろとうさじょの「中村の鍵」の絵の小説版(?)/万が一の時には中村となって外部侵入者の目を欺け!とダミーのお家を紹介される回/和久井くん村時代のはず/すべてが謎

     凪いだ太陽光が、茂る草木を白く染め抜いている。季節と季節の狭間を吹き抜ける風ばかりが勢いよく、西から東へと唸っている。
     和久井は背中を鋭い風に押されながら、村の周縁を這う小道を歩いていた。手に馴染みつつある鞄を持って、未舗装の土の道をほとほとと行く。
     村民への処方薬の配達に出た帰りだった。戻りの途中に、先に往診に出た神代と合流するつもりで、少しばかり回り道を選んだ。
     配達先と診療所は、地図上の直線距離だけを見ればさして離れてもいないように見えるが、間に山裾が小高く迫り上がって立ちはだかるせいで、迂回路を行くほかにやりようがなかった。年々衰えゆく人々にとって、若く、足の強い『飛脚』の需要は高く、和久井は今時分の師たる神代の「頼めるか」にすばやく頷いた。
     それにしたって、行きにもずいぶん歩いたが、と和久井は空と地平との境目を遠く睨んだ。帰り道もまた楽ではない。長く続く緩やかな上り坂が、和久井をいくらか疲れさせている。
     しかしこの先の人家にいるだろう神代と帰路を共にして、道すがらにあれこれと報告やら質問やらをやりとりする楽しみと秤にかけるほどの疲労でもなかった。
     和久井はほかに誰もいない道端で師から知恵を盗み、教えの雫を受ける行為全般を気に入っていて、神代はそれを承知しているようだった。
     
     道の左手に山林の裾野が広がり、右手には畑が続いている。青い葉が波のように揺れ動く畑の行き止まりのさらに向こうに、また別の林が口を開けて、唸る山風を吸い込んでは木々をざわめかせている。
     道の脇を覆う緑の柔らかな草の小山に、手にした鞄の底が触れる。その度、草の隙間から小さな虫が飛び跳ねては鞄や、和久井の裾などに取り付いてくる。
    「お前らを連れ歩くのはごめんだね」
     小道と小道の辻に立ち止まって、裾と鞄とを手で払った。若草色の羽根つき虫が、地面へ向かってひゅうと落ちて見えなくなる。
    「…………」
     和久井は道を左へ折れた。突き当たりに平家建てのこぢんまりした邸宅があり、その縁側に神代がひとり腰掛けていた。和久井は足を早めた。
     神代はほとんど駆け足の和久井を立ちあがって迎え入れ、ほんの少し目を細めた。和久井を己の隣へと誘って再び縁側へ腰掛け、家主からの心遣いらしい冷茶入りの湯呑みを弟子へ握らせると、代わりとばかりに和久井の手から往診鞄を取り去って、自身の奥へと置いた。
    「……あの」
     手の中に湯呑みを回しながら、和久井は神代を見上げた。
    「茶の一杯と質疑応答分の時間はある」
     神代は肩ごしに邸宅の茶の間にかかった柱時計を振り返り、それから「帰りに少し、寄っていくところもあることだしな」と付け加えた。「わかりました」湯呑みに口をつけながら、和久井は目を伏せた。
     縁側から臨む庭先に、陽光の白が降り注いでいる。かたく均された地面を光が拭き清めていく。見つめる靴の先が乾いた泥で汚れている。視線をずらすと、隣の神代の靴先もまた、薄く土ぼこり由来の筋をつけている。
     茶を飲み干し、家主に別れの挨拶を済ませ、揃って邸宅の門を潜り出てすぐに、和久井は口火を切った。道を歩きつつ手始めに配達先の人々の様子を報告し、神代の意見を仰ぎ、続けて神代の『仕事』の中身について尋ねた。神代は全てに鷹揚に、はっきりとした調子で応えた。和久井の仕事ぶりを労い、報告の一々に相槌を打って助言をした。その顔立ちこそ道の正面を見つめていたが、視線はほとんど和久井の方へと向いて、物言うたびにその眼差しに幾らかの感情の機微が浮かんだ。
     神代の淀みない応答は、常に和久井から、かつてあった傲慢さの名残を抜き去っていく。まるで隙がなく、しかしものを教わるのに不向きでもなく、ただひたすらに真摯で厳しい佇まいを前に、より幼き頃の「自分にだってそれくらいのことは」なる気分が芽吹いて蘇ることはなかった。

     道が、三叉に分かれている。診療所へ帰るには右手の道を行くのが王道だが、神代はその手前でふっと足を止め、和久井を振り返った。「譲介」山間を撫でる風のような声だった。神代の背後に、藍の滲んだ青空が続いている。わけもわからないまま、頷いて返す。
     和久井を連れて神代は左の道へ入り、坂を下ってさらに道なりに左へと折れた。手入れの様子が伺える木立の中を抜け、椿を生垣に仕立てた小さな住居の前で足を止めた。
     背の低い生垣で敷地を囲んだ、二階建ての住居はどことなく洋館の趣を含んでいる。
    「診療所の建物に少し、似てますね」
     生垣の切れ目から身を乗り出して、じっと目を凝らす。背後から神代が「分かるか」と応える。
    「診療所よりもずっと小さいですけどね」
    「譲介」
     再びの風のような声が和久井の背中に触れた。振り向くと、神代がマントの下から手を差し伸べて和久井を待ち構えていた。木立の枝をすり抜けた陽の光が、神代の全身にまだらの影を投げかけている。和久井は一歩進み出て、神代の手の下へ掌を差し出した。
     そこに、かすかに重たい金属質のものがそっと落ちた。銀の輪で括られた、真鍮色の鍵だった。和久井は目をあげて口走った。
    「何ですか、これ。診療所の鍵なら随分前から預かってますよ」
     和久井の言葉尻を蹴散らすように、横風が吹いた。木々がざあざあと枝を鳴らし、湿った匂いがした。天高きところをいく雲の影が横様に流れ来て、和久井らの頭上を覆った。
     濃くなった影の中から、神代は「万が一のことがあった時には」と言った。
    「それを使うこともできる」
    「この鍵って」
    「あの家の鍵だ。いまは住人はいないが、定期的に手入れはしてある。家財道具もいくらか残っているから、言い訳には使えるだろう」
     和久井は首を回らせて、小さな洋館風の家屋を眺めた。壁は白く、二階部分はうんと小さく、あちこちの窓が丸く作られた、くすんだ赤色の屋根の家だった。
    「……万が一っていうのはつまり」
     真正面へ向き直って言う和久井に、神代は重たげに頷いた。
    「よそから、誰にもどうしようもないような介入があった時って理解でいいんですね」
    「警察や司法や、または非合法組織などだな」
    「せっかく僕が言葉を濁したのに」
    「曖昧さは緊急時の判断の妨げになる」
    「そうですけど!」
     和久井から笑いかけると、神代も少しばかり目元を緩めた。この村が、村の唯一の医療機関が、その主人が、いかに崇高で誇り高い理念と行動によって生きているとしても、それが社会一般の守られるべき規則、倫理から乖離していることを帳消しにはできないと和久井も理解している。それを正すか、または害するかを目的に外部から何者かが入り込んでくることは、村に根を下ろすもの全てにとって危険だということも。
    「これ、診療所の他の面々にも?」
    「いや」
     神代が進み出てきて、隣へ立った。そこに、ぱらぱらと降りかかるものがあった。風に流れた厚い雲から雨粒が落ちてくる。神代は片腕を掲げてマントの覆いの下へと和久井を押し包んだ。黒の布地越しに雨粒の跳ね音を聞く。
    「中村だ」
    「はい?」
     顔を上げるも、マントに遮られて神代の胸元より上に視線がいかなかった。神代はひとり雨を受けながら、まるでそれを知らぬかのような変わりなさで「この家は中村という人物の持ち物ということになっている」と続けた。
    「診療所は標的になる。村内ではあるが他に居住地のあることにして、自分の身の安全を図れるように手を打て。鍵はその時に」
    「中村として?」
    「中村として」
    「……『神代』はどうするんですか」
     通り雨の過ぎ去ったのを鳥の鳴き声から知って、和久井はマントの下から後ずさって抜け出た。握りしめた手の中で真鍮色の鍵が温まっていく。雲はまた何処へと走り消え、蘇った太陽光が世界全てを照らし出している。髪の先に雫をつけたまま、和久井の師は「神代はこの村で死ぬ」と平坦に言った。和久井はその声に、強固な意思と根深い教えの力を見た。
     数瞬の間、足元から地面が消えたようだった。空もなくなった。木々のざわめきだけが音色を大きくして和久井を取り囲み、心臓のあたりから響く鈍い音がその隙間を縫って耳に届いた。和久井はそのすべての幻惑を振り払おうと努力した。人が死場所を定める様子を目の当たりにする行為には、奇妙な緊張が伴う。終わりの場所が決まっている人間は、その道の途中で誰と共にあっても、最後にはその誰から離れていくものではないかと、疑念が緊張を肥え太らせる。
    「譲介」
     他の何にも喩えにくい、あたたかな声で名を呼ばれた。自然に顔が上がる。鍵を握った手の上に、神代の掌が重なっていた。
     神代はいくらか眉を下げた。
    「この策が通用する時もあれば、そうでない場面もあるだろう。お前の手に選択肢があることが肝要で、心身の安全とお前の意思が守られさえするなら、これを無理に使う必要もない」
    「……はい」
     和久井は段々に、己が地面へ直立していることを思い出し、青空の下で晴れの匂いの風に吹かれている自分を取り戻した。鼓動は未だ少しだけ早いが、それもすぐになだらかに戻るだろう。頷き返す和久井を見下ろして、神代が続けた。
    「それに、俺もたまに使う」
     遠くで鳥が鳴いた。
    「……家を?」
     和久井がぎこちなく白壁の小さな家を指差すと、神代は「いや、中村を」と言う。
    「中村を」
    「言ったことがなかったか」
    「こんな聞き方も良くないと思うんですが、あの、旧姓が中村?」
    「身分を偽る時に使う」
     手続きによって姓を変えたことは今のところない、と神代がまた平坦に言う。和久井は少し考え込み、瞬きの数を増やした。瞬きを重ねるたびに肩の力がぬけ、思考に明瞭な余裕が取り戻されていく。
    「と言うことは、万が一の時には僕と先生と……村井さんも入れてその三人で中村になってピンチを脱して、後でどこかで合流すればいいってことですね?」
    「…………」
     和久井が顎に手を置いて名探偵らしく言うと、神代も顎に指を置いて目を伏せた。
    「その時には残念ながら、やっぱり『神代』と『村井』にはこの村で一旦退場してもらうことになるだろうけど」
    「三人で中村……」
     言いながら、神代がほのかに頬を緩める。
    「三人で暮らしてた風にするには、この家は小さいかもしれませんね」
     和久井は鍵を握った手を開き、また閉じた。金属が擦れ合ってちりちりと音を立てた。鍵をポケットに収め、神代へ「鍵、ちゃんとお預かりします」と言う。神代は頷いて「お前にとって愉快な話ではないだろう」と言い、「すまない」と続けた。和久井は「いいえ」と応え、もう一度だけ白壁の家を眺めた。
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