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    フカフカ

    うさぎの絵と、たまに文章を書くフカフカ

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    フカフカ

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    K2/ドクターTETSUと和久井くんの話/ちょこちょこ一人前和久井くんと会っておしゃべりしてるらしいT先生/高層ビルの展望室は景色がいいね/養い子の望みがなんなのか分かんないなと思っている闇医者がいる

    ヴェイパーウェイヴ  エレベーターの小部屋はすばやく天上を目指す。扉を閉じ切り、和久井をひっそりと世界すべてから隠し、隔てて、ごうごうと音を立てて階を上がっていく。室内に和久井の他に人はなく、ひとつ階をすぎるごとに、階数表示ボタンが橙に光る。壁にもたれて、ガラス張りの窓から外を眺めやる。真珠色の空、雲の八重垣、塵屑の如くに他愛なく小さな街並み、人々、ほんの数センチばかりをのろのろと這う自動車の群れ、それぞれがずんずんと和久井から離れていく。すべてが和久井から剥がれていく。
     地上四十階を過ぎてはもはや、何も見えない。過去に暮らした塔のような住まいよりもずっと高いところへ来た。
     急な高所への移動のせいで一時的な聴力の鈍麻を覚える。ふ、と目の前が翳る。次いであえかなベル音が響いて、扉が左右に裂けた。和久井は壁から背を浮かせ、意識して幾度か唾を飲みながら小部屋を後にする。踏み出した右足がやけに柔らかな絨毯に沈む。エレベーターホールはどこか無機質な匂いに包まれている。背後で、和久井を吐き出したばかりの小部屋がしるしると地上目指して降りていく気配がある。
     右手から、また、小さなベル音がした。横一列に居並ぶ銀の扉を備えたエレベーターの一つが口を開き、左右に分かれた扉の間から、人影をぬるりと吐き出した。和久井は少し顎を引いて背筋を伸ばした。
     ぷつ、と鈍っていた聴力が戻る。遠くから、無感動で冷たい機械的な音楽の響きが流れ来ている。和久井は佇む人影へ向かって唇を開いた。
    「僕も今ついたところです」
     言うと、じっと和久井に目をやって身じろぎもしないでいた人影にたちまち、人間らしい所作が取り戻されて、口をききさえした。
    「少しくらい遅れて来るもんだ、こういうのはな」
     顔の前へ垂らした黒髪を揺らすように低く笑って、ドクターTETSUは右の肩だけを上げ下げした。
    「時間にルーズな医者なんて」
     和久井が言うと、ドクターTETSUは目を細め、唇の左右を引き上げた。薄く開いたその隙間から、白い葉がわずかに垣間見えた。

     展望室のラウンジスペースは人気なく、一切がグレイの濃淡で彩られている。置かれた無数の椅子、机はステンレス由来の冷えた光沢を備えて来訪者を待ち構えている。
     ドクターTETSUは和久井に先んじてラウンジへ足を踏み入れ、肩越しに振り返って「好きに座り放題だ」と言った。和久井はわざわざ広々してがらんどうのスペースを横切り、懐かしき養い親を窓際の席まで誘導した。分厚い硬化ガラスの窓の外では、都市風の薄く黄みを帯びた空気の層が滞留し、下界の景色を滲ませている。昼と夕のはざまの日の光が差し込んで、椅子の座面はほのかに温かだった。
     TETSUの着席を待ってから、和久井も椅子に身を預けた。丸いテーブルの上へ両手を置いて、左右の指を緩く組み合わせる。ドクターTETSUは椅子の背もたれの後ろへ片腕を回し、顔を横向けて窓向こうへ目をやっている。その、高い頬骨に窓越しの光が灯り、虹色がかったプリズムが打ち寄せては消えた。
     音楽が、低く、切れ目なく流れている。温度に乏しい空間に似つかわしい、単調で変化の少ない機械的な音色だった。聴き手の存在を想定さえしていないような、ただそこにある音楽だった。
    「たいそうなもんだ」
     ドクターTETSUは窓へ顔を向けたままで口を開いた。
    「…………」
    「この馬鹿でかいバブルの申し子ヅラしたビルは、お前よか歳上なんだと」
    「面白いことを」
     見つめる先で黒髪が揺れて、頬骨高き男の顔が顕になる。眉を上げ、鼻の付け根に深々と皺を刻んでいる。和久井は言い募った「きちんと数えてみてください。僕らが泡の残骸を胞衣にして生まれてきたんだって分かるように」
     ごく軽い言い回しのつもりだったが、いくらも歳上の闇医者には和久井の思う以上の印象が届いたらしかった。ドクターTETSUは「なんだ、あの狂乱の時代をはっきりとは知らねえんだったか」と、和久井には不可解なほどの面白がりの気配をたっぷり込めて言った。テーブルに肘をついて手のひらに顎をのせ、身を乗り出してくるその相貌に、ほのかな血の気さえ認めることができた。
     天井灯の白い光の下ではあれほど作り物のようなくせ、自然光を浴びて愉悦に塗れていれば、何十も若返ったようになる。当人の気分と、他者の目にどのように映りたいか次第でいかようにも印象を変えるその揺らぎが、ドクターTETSUをまやかしの生き物めいたものへと仕立て上げる。
    「誰も彼もが金銭の魔力にあぐらをかいていた時代とは知っていますね」
    「それこそ、実際を知らん若人の表現だな」
    「お望み通り証明して見せましたよ、どうです?」
    「どうもこうも」
    「ドクターTETSUは望み高くていらっしゃる」
     当の闇医者はすましたように顎を上げて、窓の外と和久井とをちらりちらりと眺め、「欲の深いと評判だぜ」と付け加えた。和久井はそれを、どこか信じられぬような気分で聞き、また額の裏で幾度か繰り返した。
     ドクターTETSUは欲深でいらっしゃる?──いいや。
     望みが高いというのと、欲が深いのとは和久井の中ではどことなく分たれていて、どちらかと言うならやはり、この男は途方もなく高いものを望み、終わりのない希望の中に生きていると思えた。希望に燃えることは欲の深い振る舞いなのだろうか。光を見つめて目が離せないだけのことが、沼のような欲の証なのだろうか。
     実際のところ、当人が聞くという欲深の評判は、他者へ求める金銭の多さゆえなのか、自他を思うままの支配の手管に絡めようと挑む態度のせいなのか、実際にドクターTETSUの支配の一端を噛み締めていた身の上ではどうにも思い切れない。露悪の趣味のある人間だとも知っていて、それを思えば、そんな名声自体がまやかしではないかとさえ──いや、それはないか──「譲介」
     はい、と和久井は答えた。
    「お前は?」
     肉薄い頬にたっぷりと余裕ある笑みをのせて、ドクターTETSUが低く、笑うように問うた。一目見て、嫌な展開になったと、遅い後悔が和久井の胸に満ちた。
     外はこうまで明るく、窓の内はこれほど穏やかに怠惰に取り巻かれているのに、たった二人の間でだけ、空気が引き攣れていく。居心地が悪かった。まるで真向かいの男の庇護下に入ってすぐの頃のように、世界のどこにも全身を預ける場所がないような感触。
    「お前の望みは?」
     お前の望みはなんだ、とドクターTETSUは足を組み、身をせり出した。銀のテーブルのおもてに、黒い影が差した。「何も」和久井は応えた。
    「何も。なんだってそんなことを」
    「望みのない人間は俺の前へはやってこない。たまの例外を除けば俺を訪ねるのはいつも、身の丈以上のことを成そうと考えつくような人間、大望を抱え込んで両腕の隙間からだらだら取りこぼして地を這う人間……」
    「僕もそうした人々のうちですか」
    「さぁなあ、俺にわからんのはそこだ。考えようにも分からん、記憶を攫っても分かりそうにもないもんだから、こうして一々顔を見ないではいられなくなる……酔狂だな」
    「じゃあ、もっと見ますか」
     テーブル縁を握って身を乗り出し前髪を上げ、ついでに、空いた手を差し伸べてTETSUの前髪さえ手の甲で払った。わずかに左右非対称の顔立ちが窓辺からの光に浮き上がった。あいも変わらず、年のほどが深刻なようにも、そうでないようにも見える顔だった。ふふ、と腹の奥から愉悦が湧いて声になった。きつく束ねられていた空気が、ぱらりと解ける。
    「何をしてるんでしょうね、僕は」
    「…………」
     ドクターTETSUはわずかに見開いた目をそのままに、ゆっくりと首を引いて和久井の手から逃れた。そうして、今度は自分の右手で和久井の髪を抑え、そこから和久井の手を取り除いた。
    「そんな色だったっけなあ」
     和久井の顔を間近に覗きながら、どこか遠くへ投げかけるようにTETSUは言った。目の色か、肌の色か、まさか、髪の色を見つめているとでも? 和久井はされるがままでいた。
     ドクターTETSUは下瞼を引き上げる風に目を細め、もう一度、「譲介」と呼んだ。
    「お前の望みは?」
    「何も」
     和久井の返答は、ドクターTETSUを愉快がらせたらしかった。
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