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    怪我人

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    怪我人

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    牧師にキスしたい台風の話

    ◯SF(すこしふしぎ)
    ◯10巻の内容を含みます

    #台牧
    taimu

    回帰 ウルフウッドにキスがしたい。

     彼に抱く感情が変化し始めたのはいつからだったか。今となっては知る由もない。伝えようとは思わなかった。伝えてどうなる?あいつを困らせるだけだ。だから僕はこの気持ちに蓋をした。……はずだったのに。今日だけは我慢ができなかった。心の奥底に仕舞い込んでいたものが溢れてしまって。それで。

     僕はウルフウッドにキスをした。

     重なった唇からウルフウッドの体温を感じる。だが、その熱は一瞬で消え失せた。
    「……ウルフウッド?」
     瞼を開けるとそこには誰もいなかった。彼の得物である巨大な十字架も、砂の上に靴の跡だって残っているというのに。
     周囲の景色が徐々にぼやけていき、身一つで宇宙に投げ出されたかのような浮遊感に襲われる。
     ……あいつを探さなきゃ。
     頭ではそう思っていても身体は全く動かなかった。

     僕は意識を手放した。





     男たちの話す声がする。
    「牧師は商売じゃねーだろ」
    「ダイイチそんなカッコの聖職者がいるか」
     あれ。僕は何をしてたんだっけ。
     気が付くと砂漠の上を走るバスに揺られていた。この光景には見覚えがある。いつどこで誰と何をして何を話したか、僕は全て覚えているから。とりわけ忘れたくないことは鮮明に。
     ……ここはウルフウッドと出会ったあの日に乗っていたバスの中だ。遥か遠くで行き倒れていた君を、僕が見つけた。

     満席ではないものの車内はそこそこ混み合っている。砂しかない風景をぼんやりと眺める者、会話を楽しむ者、目を閉じて船を漕ぐ者。皆が思い思いに過ごしていた。

    「主よ。世間は偏見と思い込みに満ちています」

     ざわつきの中から一直線に僕の鼓膜を揺らす低い声。腰掛けていた座席から思わず身を乗り出した。バスの前方ではメリルとミリィが黒いスーツを着た男と楽しげに言葉を交わしている。
    「おおきに。アンタたちが見つけてくれてんな。助かったで」
    「いやいや、私たちは車止めてってサワイだだけで」
    「米ツブ大のあなたを見つけたのはあの人」
     あの人、と指し示された僕へ目を向けた男の顔は、僕が探している男の顔だった。

    「ヴァッシュさん?どうしたんですの?」
     僕は弾かれたように立ち上がり、硬いブーツの底を床に打ち付けながら狭い通路を走った。何度か乗客にぶつかってしまったが今は構っていられない。
     後でちゃんと謝るから。だから今は。
     そう大きくはないバスだというのに男の元へ向かうまでの時間がとてつもなく長く感じる。靴音を響かせながら駆ける僕に乗客たちの視線が突き刺さった。これから僕が取る行動で彼らの視線は更に釘付けになるだろう。
     永遠にも一瞬にも思えた短い道程。やっとの思いで男の元へ辿り着き、その名前を呼んだ。
    「ウルフウッド」
    「なんでワイの名前……。アンタ、どっかで会うたこと、」
    「ウルフウッド!」
     太陽の光を存分に浴びながらも黒々と艶めく髪。猛禽類の嘴を思わせる鼻梁。日に焼かれ少しかさついた肌。嗅ぎ慣れた煙草の匂い。
     ウルフウッドだ。
     驚く男の顔を両手で包み込んで顔を寄せる。

     僕はウルフウッドにキスをした。

     重なった唇から彼の体温を感じる──そう思った瞬間、その熱は失われた。
     また。まただ。
     またウルフウッドが消えてしまった。
    「どうしてっ……ウルフウッド!どこ!?ウルフ……う、」

     再び意識が遠のいた。





     男たちの話す声がする。
    「牧師は商売じゃねーだろ」
    「ダイイチそんなカッコの聖職者がいるか」
     同じ景色。同じ会話。

    「あなたを見つけたのはあの人」

     あの人、と指し示された僕へ目を向けた男の顔は。





     時間が戻っている。

     そのことに気が付くまでに二回。受け入れるまでに三回。トリガーは考えなくても分かる。キスだ。ウルフウッドにキスをすると、彼と出会ったあの日まで時間が戻ってしまう。人間よりもずっと長い人生で多くのことを経験してきた僕でもこんなことは初めてだ。不可思議な現実を理解するまでに要した五回分の僕の言動は混乱極まるものであったが、それすらもキスで無かったことにされた。
     夢と現実の狭間に迷い込んだかのような浮遊感と、何度も繰り返す過去の記憶たちに自身の存在を揺るがされる。僕は頭がおかしくなってしまったのだろうか。

     幸いなことに解決方法は混乱した僕の頭でも簡単に見当がつくものだった。
     キスをしなければいいのだ。
     そもそも僕らは恋人同士ではないのだから、普通に過ごしていればそんなことは起こり得ない。ウルフウッドにキスがしたいと思ったあの日は何というか、その……たまたまだ。たまたまキスしたくなっただけ。そういうことにしておいてほしい。

     ──遅いでトンガリ。カゼひいてまうやないけ。
     強風に吹かれ鼻水を垂らして僕を待つ男の姿を視界に捉えた途端、胸の中にささやかな温もりが広がっていくのを確かに感じた。

     一人には慣れていた。
     でも、本当は寂しかった。
     来ないでほしかった。
     でも、本当は来てくれて嬉しかった。

     巨大な移民船を隠していた砂の霧から遠く離れ、辺りは見慣れた砂漠の景色へ変化していた。シップを出発して数時間が過ぎても、寒さに震えながら僕を待っていた男に抱いた感情は胸に留まったままだ。それで、どうにも堪らなくなって……気が付くと、僕は前を歩く黒い背中に声を掛けていた。
    「は、どないしてんその顔」
     よっぽど変な顔をしていたのか、こちらに顔を向けた途端に男は吹き出した。ぎらつく太陽と真っ青な空の下で笑うウルフウッドの姿に目が眩む。少年のような笑顔のあいつにどうしてもキスがしたくなって。僕は。

     時を進めるにはこの感情が邪魔だった。





     暗然としながらも僕はひとつの希望を見出した。過去をやり直せるのなら、これまで救えなかった命を救えるのではないか。
     ……きっとこの時はまだ理解しきれていなかったのだろう。夢見がちだった自分に呆れる。現実がそう甘くないことはこれまでの人生で嫌というほど味わってきたはずなのに。
     死ぬ人間は毎回同じだった。どれだけ足掻いても、繰り返せば繰り返すだけ彼らの死を目撃することになる。助けられなかった後悔。無力感。悲しみ。少しずつ心が削り取られていくような気がした。

     変わる未来はひとつだけ。
     ウルフウッドが消えるか、消えないか。





    「あんた……!!ヴァッ……ひゅじゃふたんひーど……!!」
     車内で名前を叫ばれそうになり、慌てて男の口を右手で塞ぐ。
    「何故気付けへんねや。このトサカ頭に赤コート。皆ニブイで」
     トサカ頭って。初対面で酷い言いようだ。
    「あ、そや。自己紹介しとこ」
     出会った頃のウルフウッドは快活な男だった。友好的で、素直で、表情がころころ変わって、そして。
    「笑い方がカラッポで胸が痛なるんや」
     僕が笑顔の下に隠していた薄暗い感情をすぐに見抜いた。今にして思えば、この時すでに僕はウルフウッドに惹かれていたのだろう。





    「ワイになんか隠しとるやろ」
     砂漠の夜は寒い。トニムタウンに向かう道中、僕たちは砂漠のど真ん中で焚き火を囲むようにして座っていた。頭上では大穴を穿たれた月が煌々と輝いている。
     何故その問いを僕に投げかけるに至ったのか。過酷な旅による疲労以外の何かが顔に出ていただろうか。目敏いやつだ。
    「……隠し事があるのは君も同じだろ」
    「そうやのうて……あークソ、なんやうまく言えへんわ」
     平静を装いながら話を逸らそうと試みるもウルフウッドは煮え切らない様子だった。顔を顰めてばりばりと雑に頭を掻いている。
    「どうしちゃったのさ。君、なんか変だ」
    「変なのはオドレや」
    「僕?……なんで」
     隠しているつもりはない。言う必要がないだけ。言ったところでどうにかなるわけでもないし、リアリストであるこの男には信じてもらうことすら難しい話なのだから。
    「……隠してることがあるのは正解だよ。でも言ったって信じないと思うぜ。それにお前……絶対笑うし」
    「信用ないな。笑わんから話してみぃや」
     ……そこまで言うのなら望み通りに話してしまおうか。信じてもらえなくたって、笑われたって構わない。腹の底で渦巻いている重苦しい感情をこいつの前でぶち撒けたらどうなるのだろう。ウルフウッドの反応も気になるが、時が戻るトリガーと言っても過言ではないこの男に事実を告げたら何かが変わるかも知れない。人は追い詰められると僅かな希望にすら縋りたくなるものだ。
    「……そう。わかった」
     ぱちんと一際大きな音で火の粉が爆ぜる。
    「じゃあ言うけど、君にあることをすると時間が戻るんだよ。君と出会ったあの日にね」
     ウルフウッドの眉間に刻まれていた溝が更に深いものへと変わっていく様子を見つめながら、僕は構わずに話を続けた。
    「実を言うと君との旅はこれが初めてじゃない。えーっと……六回目、かな。……どう?笑える話でしょ」
    「……」
     ウルフウッドは笑わなかった。笑えなかったのだろう。深刻な顔をして一体何を語るのかと思えば、時間が戻るだなんて。そんな馬鹿げたことがあるはずがないのに。
     いっそ僕のことを頭がおかしい可哀想な奴だって憐れんでくれよ……。
    「あること、ってなんや」
     心の内で自虐する僕の向かいから意外にも真面目な空気を纏った声が静かに響く。笑い飛ばされるか、ふざけるなと怒鳴られると思っていた。君はリアリストのくせに、僕の荒唐無稽な話を信じようとしているのか。
    「……言いたくないなぁ」
    「あ゙?ここまで話しといてそれはないやろ」
     自分から話し始めておいて何だが、これ以上深入りしてほしくなくて僕は言い淀んでしまった。ウルフウッドは胸元から煙草を取り出して荒い手つきで火を灯した。一口だけ吸い、溜息とともに煙を吐き出す。"あること"が何なのかを答えようとしない僕に苛立っているのだろう。
     言うべきか否か。
     少しだけ逡巡した後、僕はやっぱり話すことにした。何か変わるのではないかと期待していたが今のところ目に見える変化は無い。無意味かも知れない。それでも話そうと思ったのは……心が弱っていたから。吐き出して、楽になりたかった。

    「キス」

    「は?」
     咥えたばかりの煙草がぽとりと落ちる。
     あぁ、もったいない。
    「キスだよ。君にキスしたら時間が戻るの」
    「オドレが……ワイに?なんで」
    「……キスする理由、わかんない?」
    「……」
    「だから言いたくなかったのに」
     思わず苦笑した。これからどんな顔をしてウルフウッドと旅を続けろと言うのか。気まずいなんてものじゃない。
    「……ほんまにそないなことあり得るんか」
    「どうだろうね。僕は本当のことを話してるつもりだよ」
    「オドレの話が嘘やと言いたいわけやあれへんけど、その、」
    「別にいいさ。証拠もないのに信じろなんて無理な話だよな」
    「はぁ……どないせぇ言うんや……。オドレはそれでええんか」
    「よくないけど……じゃあ試してみる?」
     ウルフウッドの瞳が大きく見開かれた。当然の反応だ。
    「試すって……キス、するっちうことか」
    「そういうこと。……あ、でも君は消えちゃうから確認できないね。あはは……」
     徐に立ち上がり、向かいに座る男の隣に腰を下ろして顔を覗き込んだ。意味がないと分かっていながらも再度問いかける。
    「どうする?するだけしてみる?」
     ウルフウッドの唇まではほんの僅かな距離しかない。もし誰かに背中を軽く押されでもしたら簡単にくっついてしまいそうだ。こんなにも近いのにウルフウッドは身じろぎひとつせず、困惑の色が見え隠れする瞳で僕を真っ直ぐに見つめていた。
    「えっと……もしかして誘ってる?」
    「誘ってへんわボケ!」
     ウルフウッドは悪態をつきながら距離を取ろうとしたが、僕が両肩を掴んだせいでそれは叶わなかった。
    「お前は知らないだろうけど」
     耳許に顔を寄せて囁く。ウルフウッドの肩が小さく跳ねた。
    「俺たち、もう何回もキスしてるよ」
    「は……」
     正確には六回、だけど。
    「今までは口にしかしてこなかったんだよね。口以外でもダメなのかな……ウルフウッドはどう思う?」
    「ワイに聞かれても……わかるわけ、ないやろ……」
     顔を逸らそうとするウルフウッドの顎を右手で掬い上げて顔を向き合わせれば、彼は困ったように黒目を彷徨わせた。成熟した見た目とは裏腹に初心な反応を見せる男にどことなく歪さを感じながらも、うろうろと動く瞳を収めている瞼にそっと唇を落とす。時間は戻らなかった。
    「大丈夫みたい」
     ウルフウッドが存在していることを確かめるみたいに普段は髪に隠れている形の良い額にキスをする。昼との寒暖差が大きい砂漠の夜は震えるほど寒いのに、そこは少しだけ汗ばんでいた。
    「ウルフウッド……」
     意識してくれているのだろうか。それとも緊張しているのか、引いているのか……もしそうならちょっとショックだ。ともあれ、理由は何でも良かった。僕の言葉で、行動で、こいつの心を乱せているのなら。
    「なんっ……おい!口にしたらアカンのやろ!?ちょお落ち着けや!」
     ウルフウッドの唇に自身の唇を重ねようとしたところで彼の無骨な手が僕の胸を強く押した。
    「ごめん、無理」
     せっかく止めてくれたのにすまないと思う。でも、キスせずにはいられないんだ。お前が消えて、僕を知らないお前になっても。僕は何度だってウルフウッドにキスをする。
    「我慢できない」
    「トンガリ、」

     僕はウルフウッドにキスをした。

     砂漠の乾燥でかさついた唇の感触。冷えた夜とは不釣り合いな熱い体温を感じる。瞬間、それらは消えた。見なくたって分かる。ウルフウッドはもういない。
     僕は馬鹿だ。君のことになると気持ちが抑えられなくなる。また最初からやり直しだ。

     あーあ。





    「牧師は商売じゃねーだろ」
    「ダイイチそんなカッコの聖職者がいるか」

     ウルフウッド。

    「あなたを見つけたのはあの人」

     今度こそ、僕は。





    「主よ。世間は偏見と思い込みに満ちています」
    「ヴァッ……ひゅじゃふたんひーど……!!」
    「このトサカ頭に赤コート。皆ニブイで」
    「笑い方がカラッポで胸が痛なるんや」
    「やっと見つけたでアホウが」
    「大丈夫かヴァッシュ!!」
    「おーいトンガリ頭ーッ」
    「……選ばないアカンねや!!」
    「ワシら神さまと違うねん」
    「オラ!!もう行くでトンガリ!!」
    「この偽善者が」
    「撃て」
    「絶対に死ねへんのや」
    「殺したで」
    「それでもまだ礼いえるんか」
    「トンガリ」
    「やっぱおんどれちっとなめられすぎやで」





    「トンガリ」

     低くて優しい声が聞こえた。





    「……あ」
    「大丈夫か?」
    「ごめん…………ぼーっとしてた」
     シップに滞在して数日。全快とまではいかないものの、動けるまでに回復した僕は諸々の後片付けのために奔走していた。
     人手が足りないと案内された先はウルフウッドが身命を賭して闘った地獄のような場所だった。大量の血液に塗れた床や壁。血を見ることには慣れていた。しかし、それを視界に捉えた瞬間、僕はぞっとした。ほとんどはナインライブズの血だが、黒く変色したそれらにあいつの身から流れ出たものはどれくらい含まれているのだろう。

     医療機器が置かれたままの病室で僕とウルフウッドは各々のベッドに腰掛けていた。朝から船内の掃除に勤しんでいた僕は休息を取るために部屋へ戻っていたはずだ。どうやらいつの間にか意識を飛ばしていたらしい。
     未だ点滴が外れないウルフウッドは寝転がって呑気に微睡んでいたと思うが……きっと僕が呆けている間に起きたのだろう。今はこちらへ気遣わしげな視線を送っている。
    「調子悪いんやったらルイーダさんに、」
    「大丈夫。平気、だから……心配してくれてありがとう」
    「なんや素直すぎてキモいな」
    「あはは……ひどいこと言うね」
     失敗した。言葉も、声も、表情も、全部失敗した。いつもの僕ならば何と言い返すだろう。溌剌とした声で、笑いながら軽口の応酬を楽しむのではないか。悲しいかな、僕の返答は全て真逆のものだった。
    「オドレやっぱおかしいで。ほんまにどないしてん」
    「……」
     心配してくれている。それだけで僕は嬉しくなる。彼の言葉が冷えた心を温めるようにじんわりと染み込んでいく気がした。このままではまた君に甘えて、きっと欲を抑えられなくなる。ダメだ。もう二度と繰り返したくないのに。

     ぎぃ、と金属が軋む音がした。ウルフウッドがベッドから立ち上がったのだ。大して離れていない二つの病床の間を大股で歩き、こちらへ向かってくる。
    「ぐぇ」
     目の前まで来たウルフウッドに顔を両手で挟まれ、無理やり上を向かされた。巨大な十字架型の武器を軽々と扱う男の力は強い。頭ごと持っていかれやしないかと冷や汗が流れるほどに。
    「なに……?」
     ウルフウッドは真顔だ。何か意図があるのかと抵抗せずにいたが、無言で向かい合っているうちに次第に居た堪れなくなった僕はつい癖でへらへらとした笑みを浮かべてしまった。
    「ぶはっ」
    「おい笑うな!?」
     人の首をもぎ取る勢いで掴んでおいて、笑うなんて。僕は今とってもナーバスなんだから軽率な言動はお控え願いたいのに。
    「もー!離せってば!」
    「迷子のガキみたいな顔しくさって」
    「な、」
     迷子。その通りだ。僕は今まさに迷いに迷っていた。時間の流れが乱れた世界でたった一人。終わりがあるのかも分からない迷路から抜け出したくて足掻いている。
    「は……なんだよそれ。どんな顔してんだか……」
    「まぁ簡単に言うたら寂しそぉな顔やな」
     そんなことないし。なに言ってんだお前。
     そう言いたかったのに僕の口からは何の言葉も出てこなかった。とても疲れていたのだ。揺らぐ足場を歩き続けるような不安が常に付き纏う毎日に。
     心の内を見透かされ、一度は我慢しようとした欲が再び顔を覗かせてくる。
    「そう、かも……うん。僕、寂しいんだ」
     何度もウルフウッドと出会って、何度も一緒に旅をして。

     何度もキスをしているのに。

     覚えているのは僕だけ。君は何も知らない。そのことがひどく寂しかった。
    「理由は聞かんけど……ちうか、わざわざ聞いてやる義理もあらへんけど。でもな、隣でずっと辛気臭い顔されとったらさすがに気になるわ」
    「…………すまない」
    「アカン……暗すぎる……」
     取り繕うことをやめた僕の表情筋は完全に死んでしまったようだ。

     頭上から溜息が聞こえ、僕の顔を掴んだままだった男の手に再び力が籠った。
    「しゃーない。ちゅーしたる」
    「えっ!?んなっ、なななんでっ!?」
    「はぁ〜?オドレ無自覚か?前から気になっとったんや。ワイの口じろじろ見よって……寂しいは寂しいでも口寂しいっちう意味やったんか?なぁ」
     全く意識していなかった。どうやら僕はウルフウッドの唇に幾度となく熱い視線を送っていたらしい。
     なんだそれ。恥ずかしすぎるだろ……。
     今すぐ時を戻して無かったことにしてしまいたい──なんて笑えない冗談はさておき。
    「……え?それで?なにをするって?」
    「ちゅーや、ちゅー。知らんのか?」
    「知ってますけど!?そうじゃなくて!」
     聞き間違いかと思い確認してみたが僕の耳は正常のようだ。ならば、おかしいのはこいつの方だということになるが……。突然の提案に戸惑う僕を尻目にウルフウッドは躊躇することなく距離を詰めてくる。
    「おい!バカ……冗談きつい……っ」
    「人の親切を冗談て。失礼やな」
    「親切ですることじゃないだろ!?」
     慌てて男の口を両手で覆った。そのまま遠ざけようと力を込めて押し返すが、それでもウルフウッドは動きを止めない。
     僕がどんな感情を抱いているのか知らないから。だからこいつはこんなことができるのだ。僕なんかを心配して、気遣って、嘘みたいな話を信じて。挙げ句の果てにはちゅーしてやるだって?俺にはすぐアホって言うくせに、お前だって十分アホじゃないか。

     顔を近付けようとするウルフウッドと、遠ざけようとする僕。並んで置かれた二台のベッドの間で僕らはしばらく揉み合っていた。大の大人が一体何をしているのかと正気に戻りそうになるが、何としてでも唇を死守せねばならない僕にそんな暇はない。
    「……ダメだーッ!!!!!」
    「がッ!!」
     勢いよく前へ突き出した両手がウルフウッドの顎に命中する。ぐきりと嫌な音がした。
    「い゙っ……なにすんねんこのドアホ!」
    「それはこっちのセリフだ!なに考えてんだお前!」
    「あ?大人しくされとけばええやん」
    「だからダメなの!」
    「はぁぁ?その歳で初めてってわけでもないやろ?なんでそないに……あっ……オドレもしかして…………すまん……ワイ、無神経やったな……」
    「ちょっと!?そういうことじゃないから!」
    「じゃあどういうことなん」
    「うぐ」
     知らず知らずのうちに誘導されていたことにようやく気付き、僕は言葉に詰まった。今回もまた正直に言うしかないのだろうか。どの世界でもウルフウッドは頑固で、僕は肝心な時に抜けている。
    「言うてみ。別にわろたりせぇへんし」
    「絶対笑う……いや、笑わなかったか……。お前って意外とそゆとこあるんだよな。ずるいよほんと」
    「なにブツブツ言うとんねん」
    「こっちの話!」
     おほん、とわざとらしく咳払いをした。
    「えっと……信じなくてもいいから聞いてほしいんだけど」
     また同じ轍を踏もうとしている。
     でも。それでも。

     僕が君と何度も出会っていることを、君に知っておいてほしかった。





    「というわけだから、ちゅー……キスはできません!」
    「はぁ〜けったいなこともあるもんやな」
    「あっ!信じてないなお前!」
    「んなことないわ。オドレがそう言うならそうなんやろ。信じたるわ」
     上がりかけた口角を隠すために右手で口許を覆った。ほんの数秒だけ余情に浸ってから、尚も上がろうとするそれを何とか押し止める。
    「ウルフウッドは優しいね」
    「なんやそれキショ。さぶいぼ立ったわ」
     ……台無しだ。
     ストレートに気持ちを伝えられることに慣れていないのだろう。ウルフウッドが照れ隠しに悪態をつくことは何度も繰り返してきた彼との旅で知っていた。それが分かるだけの時間を共に過ごしたのだ。

     僕は溜息をひとつ零して、話を締めることにした。
    「じゃあこの話はもう終わりってことで、」
     そう言いかけた時。突然足首に鈍い痛みが走り、世界が揺れた。
    「いっ!?」
    「おっと。足が長ぅてすまんな」
     足払いをされたことに気付いたのはウルフウッドの声が耳に届いた後だった。重力に逆らうことなどできず、僕はなす術なくベッドの上に背中から倒れ込んだ。状況を把握するよりも早く、腹に乗り上げてきた逞しい体躯の男は両手で僕の顔を固定する。そして。

     ウルフウッドが僕にキスをした。

    「おまえ………………なんで……」
     僕は夢をみているのだろうか。ウルフウッドが、僕に。いや待て。それよりも今はもっと驚くべきことがある。ウルフウッドとキスをしたのに時間が戻っていないのだ。
    「あっ……」
     みるみるうちに視界が滲んでいく。
    「……泣くほど嫌やったんか?」
     違う。嫌なわけあるもんか。だって、僕はずっとお前に触れたかったんだから。
    「ちが、う……そうじゃなくて……っ」
     不意に温かいものが目尻に触れ、僕の涙を攫っていった。呆気に取られている間に再び口付けられる。
    「ちょっ……と!ウルフウッ、」
     僕の言葉を遮るようにまた口を塞がれた。ぬめる舌が咥内へ入り込んでくる。強引に事を進めておきながら、意外にもその動きは控えめだった。僕はウルフウッドから与えられる熱に陶酔した。

     ウルフウッドにキスをすると時間が戻る。既に六回も経験しているのだからこれは紛れもない事実だ。何度もキスをして、何度も後悔した。
     じゃあ、キスをされるのは?
     ウルフウッドから触れられたのは今回が初めてだ。相手から与えられるものはノーカンだとでも言うのだろうか。

     触れ合っていた時間はそう長くはなかったように思う。隙間なくぴったりとくっついていた唇が離れると、別れを惜しむように唾液が糸を引いた。
    「んぇ」
     べたつく口許を服の袖口でごしごしと拭われる。まるで幼い子どもになった気分だ。
     人間とは比べものにならない速さで成長した僕にも短いながら幼児期というものはあった。あの頃はまだスプーンを上手く扱えなくて、食事のたびに口の周りを汚していた。彼女は……レムは、笑いながら僕の顔を優しく拭ってくれた。
     どうして急に昔のことを思い出したんだろう。

    「オドレからしたらアカンのやろ……せやったらじっとしとき」
     ウルフウッドは子どもに言い聞かせるような声で僕の動きを優しく制し、触れるだけのキスをしてきた。彼の言葉に従い大人しく身を横たえ唇を合わせていたが、数秒も経てばむず痒さを感じてしまう。僕の腹に跨ったままのウルフウッドの肩を軽く押すとそれは簡単に離れていった。
    「……お前、あんまり慣れてないだろ」
    「あ゙?喧嘩売っとんのか」
    「売ってないよ」
     唇が離れてしまってもウルフウッドの顔はすぐ目の前にある。至近距離でぼそぼそと喋る彼の唇がときどき顔に触れて擽ったい。
    「汝、姦淫するなかれ」
     不意にウルフウッドがぽつりと呟く。
    「……なにそれ」
    「聖書の教えや。エロいことはアカンってやつ。結婚してへんのにセックスしたり、不倫したりとかな。男同士もダメなんやって」
     つまり、真面目に教義を守っているから不慣れであると言いたいのだろうか。
    「へぇ……じゃあ君、」
     知識としては知っていても神さまとやらの存在を信じていない僕にはよく分からない。分からないけれど。
    「いけないことしてるんだ」
     いけないことだと知りながら、僕に触れてくれたのか。
     腹の奥が熱い。きっと今の僕はひどく欲情した顔をしている。それなのに、ウルフウッドは何処吹く風でいつも通りの軽口を叩くのだった。
    「あーあ!トンガリのせいで神さまに叱られてまうわ。困ったなぁ」
    「人のせいにするなよ。君が勝手にしてきたんでしょ」
     僕の言い草にウルフウッドの表情が一瞬むっとしたものに変化したかと思えば、口の端を上げてにやりと笑い僕の下唇に噛み付いてきた。
    「いっ……!」
     抗議しようと口を開くも、男の大きくて厚い舌が入り込んで言葉を封じられてしまう。ウルフウッドの動きはさっきよりもずっと積極的ではあるが、やはり拙さは否めなかった。もどかしくて、じれったくて、いらつく。名状しがたいどろりとした感情が湧き上がってくる。
    「はぁっ……ウルフウッド…………俺、」
    「ん……アカンで、我慢しぃ」
     興奮で頭が茹る。身体が熱い。心臓の音がうるさい。ウルフウッドのことしか考えられない。僕から触れてはいけない──なけなしの理性で何とか堪えているがいつまで持つだろう。でも、この時間がずっと続いてほしいとも思う。
     再び下唇に歯を立てられた。先程の痛みを思い出し身構えたが、与えられるのはぬるい刺激のみだ。ウルフウッドは粘膜の感触を楽しむように甘噛みしていた。心地良さに唇を薄く開けて吐息を漏らすと、すかさず舌が差し込まれる。形を確かめるように歯列を優しくなぞられたかと思えば、今度は口蓋をざりざりと舐められた。ゆるく性感を煽る動きに僕は身を震わせて耐えることしかできない。
     口の中は敏感だ。味も感触も温度も分かる繊細な器官。自ら動かずとも、僕の口は勝手にウルフウッドの唾液の味や舌の感触、その温度を感じ取っていた。僕だって君の柔らかい唇を甘噛みしたいし、君の鋭い犬歯を舐めてみたいし、君の舌の熱さを知りたい。すぐ近くどころか既に触れているのに、動いてはいけないなんて。こんなの拷問だ。のぼせた頭で僕はそんなことを考えた。

     散々口の中を荒らした舌が緩慢な動きで去って行く。後を追いかけたくなる衝動を抑えながら、息継ぎの仕方も知らないのか、小さく喘ぐようにして酸素を取り込んでいるウルフウッドに続きをせがんだ。
    「なぁ……!まだ、」
    「は、ははっ……えらい欲しがりやなぁ。次からは金取るで」
     ウルフウッドからのキスならば時間は戻らない。二度、三度と口付けられるたびにそうであってほしいと思った。まだ決まったわけじゃない。だから、もっと。本当にそうだと分かるまで。君から僕に触れてほしい。
    「うるさい……金でもなんでも払うからっ……だからさ」
     ウルフウッドの鉄灰色の瞳に必死な顔をした僕の姿が映っている。

    「もっとして」





    「遅いでトンガリ。カゼひいてまうやないけ」
     七回目ともなればさすがに見慣れた光景だが、強風に吹かれながら鼻水を垂らして立つウルフウッドの姿を見ると僕の心臓は決まって激しく脈打った。
    「一体どういう事よキミ」
     芝居の台本を読むように何度も繰り返した台詞はすっかり身体に馴染んでいる。
    「どうもこうもあるかい」
     君のこの言葉だって、もう七回目なのに。何故だか今までとは違う気がした。










    「すまんなあ、トンガリ……」










    「ひどい話だよな」

     空から紙吹雪が降っている。





     荒廃した景色の中にぽつんと置かれたソファに僕たちは並んで座っていた。
     ウルフウッドとキスをしたのはあの日のあの時間だけだった。本当はいつだって君に触れたかったのに、臆病な僕には君の心に足を踏み入れる勇気がなかった。それでも僕はウルフウッドに欲を孕んだ眼差しを向けることがやめられなかった。視線に気付いたあいつはどんな顔をしてたっけ。
     僕にほんの少しだけ勇気があったら。気持ちを伝えられていたら。また君とキスがしたいとか、簡単な言葉で良かったのに。

    「君が信じてた神さまってやつはすごく意地が悪いみたいだね」
     応える者はいない。空からは絶えず紙吹雪が降り続いている。
    「……きれいだな」
     僕は動かなくなったウルフウッドにキスをした。

     ウルフウッドは消えなかった。





    end
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