春のこと「ハッさーん、おはよう」
「ハッサク先生、でしょう」
「はーい、ハッサクせんせー、おはようございます」
「おはようございますですよ」
グラウンドで見るハッサク先生はなんだか新鮮だった。春のぽかぽかした日差しを受けて、みんな日向のニャオハみたいに目を細めていた。
今日からの授業の課題は、「グラウンドで見つけたものを描きましょう」だった。
「題材はなんでも構いません。素敵に思ったものを自由に切り取って、絵にしてみましょう」
先生の話が終わると、みんな思い思いにグラウンドに散らばって、池に向かったり、寝転んで木を見上げたり、屋根を描こうとする生徒もいた。
あたしはどうしようかな。しばらくグラウンドを歩き回っていると、花壇に綺麗な花を見つけたので、それを描くことにした。黄色くて太陽みたいに花びらを広げた花。
でも、ただ描くだけじゃつまらない。しばらく構図を取るためにあっちから見たりこっちから見たりする。顔をぐっと近づけると、少しツンとした甘い匂いに鼻がむずむずした。そうしているうちに、いいアイデアを思いついた。
思いつくのと、実際やってできるかは別のことだ。
「制作は順調ですか?」
「う~ん、あんまりです。黄色い花があって、近くで見たら小さなひまわり畑みたいで綺麗!って思ったんだけど」
次の授業で、描き途中の絵を先生に見せる時間があった。あたしは鉛筆で下絵を描き途中の絵を持って行った。
「なるほど、それで画面いっぱいにお花を描いたのですね。いいアイデアですよ」
「でも、思ったとおりに描けなくて。実物はもっとキラキラしてて、ずっと奥まで続いてる感じがしたのに」
「ふむ……。例えば、奥のお花を小さく描いたり、線や色を淡くしてみると、奥行きを表現することができます。キラキラは色塗りの際に明暗を意識するといいかもしれませんね。また色塗りの段階になったら色々お話しますですよ」
絵は、意識しないといけないことがたくさんあって大変だ。
「あーあ、突然世界一絵がうまくならないかな」
「月満つればすなわち欠くといいます。世界一になってしまっては、あとは下るだけですよ。少しずつでも上達していくのが楽しいのではないですか」
先生はあたしに絵を返しながら言った。ハッサク先生は、生徒が授業についてきているか、理解しているかよく気にしてくれるけど、時々こうやって難しいことを言う。
「この花、可愛かったなぁ。なんて言うんだろ」
あたしは描きかけの絵を見ながらつぶやいた。
「クリサンセマム・ムルチコーレですね。丸みを帯びた黄色い花弁が可愛らしいです」
先生がさらりと答えたので、あたし、びっくりしてしまった。
「さすが、詳しいですね。ネイチャーアーティストの友達だから?」
それから、あたしが描いたものがちゃんと伝わってるんだって、それもちょっとびっくりして、うれしかった。
「確かにコルサさんから教わることも多いですが、ムルチコーレは美化委員の生徒さんに教えてもらったのですよ。なんでも種から育てたそうですよ」
「へえ、すごいなあ」
ありがとうございました、と言って席に戻った。全員の絵を見終えて時間が余ったので、先生がみんなに向けて雑談を始めた。
「そういえば、近々テーブルシティで春祭りが開かれるのはご存じですか? 露店や催し物が沢山ありますです。ぜひ足を運んでみてください」
授業が終わると友達がこちらに駆けてきて、春祭りにみんなで行こうと誘ってきた。
春祭り当日、お昼に集合して、友達とテーブルシティ中をまわった。明るい音楽の中、露店で買ったご飯を食べながら歩いたり、ショーを観たり、踊ったり。
日が暮れるころ、友達みんなと解散した。あたしはもう少しお祭りが見たかったから、一人で街を歩いた。
人ごみは夕方になって減るどころかますます増えているようだった。あちこちからワイワイと盛り上がる声が聞こえてくる。熱気に蒸されて、汗が体を伝う。道を歩くと、反対方向に進む人たちがあたしの左右を目まぐるしく通り抜けていく。
目が回ってきた。
人の波をすり抜けすり抜け、座れる場所を探して、あたしはどうにか地獄の階段の裏に座り込んだ。ここだって人通りは多い。色とりどりのドレスを着飾った人たちが右から左から流れては消えていく。赤やピンクや黄色、水玉や小花柄やストライプ……。目がちかちかする。膝を抱えて顔をうずめた。
しばらくそうしていたと思う。
「大丈夫ですか」
「あ……、ハッさん」
見上げると、ハッサク先生がいた。いつもみたいにふざけて呼んでみたけど、先生は心配そうな顔のままだった。
「どうしましたか。体調が優れませんか」
「えっと、混んでる中歩いてたらちょっと気持ち悪くなっちゃって」
「人酔いしたのですね。人通りの少ないところへ移動しましょうか」
先生はあたしの肩を支えながら、ゆっくり歩いてくれた。
「辛くありませんか。もたれかかっても大丈夫ですからね」
ふらふらするのが気持ち悪くて、頭を先生の胸元にあずける。先生はいつもの絵の具の匂いじゃなくて、ちょっぴり汗と、洗剤の匂いがする。
前を見ると目が回るから、あたしはずっと下を向いていた。先生の靴、大きいなあとか、いつもの革靴じゃなくてスニーカーなんだとか考えていると、辺りが少し静かになった。
縁がベンチになったまるい花壇。先生はそこにあたしを座らせた。ポケモンセンターのある広場は、意外にも人が少なかった。
「お水を買ってきますよ。ちょっと待っていてください」
「ハッさんのおごり?」
「軽口を叩く元気があってよかったですよ」
先生はようやく心配顔をやめて、あきれたように笑った。
戻ってきた先生がペットボトルの蓋を開けて、水を渡してくれた。
「ありがとうございます」
熱のこもった体内に水の冷たさが染み込むようで、はぁ、とため息をついた。
「あ~、生き返った」
「それはよかったですよ」
あっと思い出して、先生の方に向き直った。
「そうだ先生、せっかくお祭りに来たのに迷惑かけてごめんなさい」
「いえ、小生はこの時間の見回り当番なのですよ。ですからお気になさらず」
「そうだったんだ。先生大変ですね、お祭りの日もお仕事で」
先生は一緒に来たい人はいないのかな。それを聞くのは踏み込みすぎている気がして、あたしは口に出さなかった。
「そうでもありませんよ、お祭りを見て回れて楽しいですし、それに、こうして生徒さんとお話もできますからね」
「ふぅん……」
なんだか照れ臭くなって手元の水を握った。水のペットボトルって柔らかい。握るとぷよぷよする。
「もう帰ろうかな。暗くなってきたし」
「そうですか、よければ送っていきますですよ。お住まいは寮ですか?」
「寮です。でも、大丈夫です! もう元気いっぱいだし。それに先生見回り当番なんでしょ」
「あなた、意外と遠慮がちな所がありますよね」
「そうですか?」
とぼけて立ち上がった。数歩走って、先生の方に振り向く。
「ハッさ~ん、お水ごちそうさま!」
「ハッサク先生、でしょう! 気を付けて帰るのですよ!」
「は~い、さようなら、ハッサク先生」
「はい、さようなら」
手を振ると、先生も振り返してくれた。また前を向いて走り出すと、
「夜には花火が上がりますよ! 寮からも見えるかもしれませんです!」
大きな声に驚いて振り返ると、ハッサク先生が大きく手を振るのが見えて、笑ってしまった。
次の授業の時間で、あたしは描き上げた下絵を持って、先生に色塗りの仕方を聞きに行った。
「熱心に課題に取り組んでいますね。絵を描くのがお好きなのですか」
「え~、う~ん、そうですね」
「おや、違いましたかね」
「えっと、そうじゃなくって。えっと……。あたし、ポケモンの研究員になりたいんです」
これは友達にも言ったことがなかった。でも、ハッサク先生になら言ってもいいかな、と思った。
「で、研究するために絵で記録したりするでしょ。絵の練習を今からしておけば、研究員になるまでにはめちゃうまくなってるでしょ。そしたら、竜に翼を得たる如し」
「おや! よく知っていますね」
「さいきょーってことでしょ」
あたしはにかっと笑ってみせた。